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四章 少女と少年の自身語り
――フラれてしまいました。
朝の清々しい青空の下で励む勉強は格別といいたいところだけれど、今の私はそれどころじゃなかった。ざわつくクラスの音も、今の私の無気力を前にすれば無音も同じ。
私は机に突っ伏しながら、大きな溜め息をついた。そんな私を、みーちゃんがいつものように放置中。別にいいけどね!
それよりも私はフラれてしまったんです。フラれました。大事なことだから二回言ったけど、数えてみれば三回目だった。それも別にいいけどね!
こうして溜め息をついている今も、思い出すのは昨日のこと。
放課後、夕闇に染まった〝千本桜〟の下で、私たちはその綺麗な風景とは正反対の本当に重苦しい話をしていた。そんな綺麗な景色なんて視界から吹っ飛んでしまうくらいに。
――人が怖い。
綾人くんは、そう自分の気持ちを正直に口にした。
裏切られるのが怖い、と。だから、人と関係を持たないと。
何を言っているんだろう、と思えば、そうだったね、と納得せざるを得ない人生を歩んできた彼だ。両親には捨てられて、新しい家族にも受け入れてもらえなかった。そんな風に言葉で言えば簡単に、終わってしまう彼の物語。でも、それを体験した彼はとても辛い状況だったはずだ。
人を利用して、自分だけで生きる。
本当は人に裏切られるのが怖いから、関係を持たない。
だから〝仮面〟をかぶった。かぶることで強くなろうとした。誰にも屈しず、自分の中にある恐怖に背を向けて、一人で必死になって生きてきた。
そんな風になってしまうほどの辛さや過酷さ。明るい未来さえも歪んで見えてしまうほどの、絶望と失望。私が想像するには、きっと、その想像力だけでは足りないはず。私の小さな想像力で彼を慰めて、励まして、彼が立ち直る――そんな生易しい現実じゃないということは、私だって思い知っている。
何しろ、彼は、私に「裏切られるのが怖い」と告白してくれた上で、私のこともまた信じられない、と言った。それは本当のことなんだろうね。だって、私を信じて裏切られるのが怖いから。私がいくら「信用して」と言っても、きっと、彼は私を信じられないだろう。だって、彼の中にまだ「恐怖」があるということだから。
それを私に打ち明けてくれた彼の心情は計り知れない。私を信じられないなら黙って距離を置けばいいのに(もしかしたら私がしつこく接近するかと思ったかもしれないけどね)、それでも、彼は私に打ち明けた。素直に、そう告白してくれた。それはつまり、本当に私と距離を置きたがっているということ、だと思う。自分の理由を話して、心の内を開けて、自分の全てをさらけ出せば、それ以上、私がもう彼の心に踏み込めないと思ったのかもしれない。
「オレ、こうして、琴音先輩に何度も助けられてきたけど、それでも、――オレは琴音先輩のことを、まだ信じられない」
そう告げられた時、この子は本当に私を信じることが怖いんだと思った。そして、そのトラウマの根深さは、私が「助けてあげたい」という気力と熱意だけではどうにもならないということも痛感した。
でも、私はそれでも彼を助けてあげたかった。
「大丈夫だよ、綾人くん。私が何とかしてあげるから!」
にっこりと、安心させるように浮かべた笑顔さえ、彼は。
「ごめん」
あっさりと、拒絶されてしまった。その時の表情は、とても辛そうだった。自分の心を追い詰めているのに、傷つけているとわかっているのに、それでも、彼は拒絶する。
「オレは、大丈夫だから」
そうやって、自分を傷つけて、ないがしろにする。何で、そんなことができるのだろう。自分を傷つけてどうして平気なんだろう。
「オレは、大丈夫です。ありがとう、先輩」
そう言われてしまった私は、結局、何も言えなかった。
――それを思い出しては、私はまた溜め息をつく。
「アンタ、うっさい」
「ひどいよ、みーちゃん」
「今度は、何?」
「聞いてくれるの?」
「めんどいから聞き流す。それでも良ければどうぞ」
「ひどいよ、みーちゃん!」
みーちゃんに泣きつけば、みーちゃんは心からウザそうに顔を歪めた。桐戸美月さん、今日も絶好調ですね。
「アンタはいちいちうるさい。何? 今度は何かやらかしたの?」
「違うよ!」
「違うの? じゃあ、フラれたの?」
「な、ななな、何を!?」
「フラれたのね。かわいそうに、帰りは何かごちそうしてあげるわ。百円以内でよろしく」
「やったー! って、百円以内で何が買えるの!? 駄菓子くらいじゃん!」
「でも、良かったわね」
「え?」
「聞いた限りでは最悪な男に違いないじゃない。そんなのと手を切って当然よ」
みーちゃんは相変わらず、今日も冷たい。でも、みーちゃんは「で?」と話の続きを促してくる。
「それで、どうしたの? そんな男にフラれても未練がましく溜め息をついてる理由は何なの?」
「そ、それがね……」
って、言えるわけないじゃん! 何を話せというの! 綾人くんのトラウマのことで悩んでいるのに、彼のトラウマのことを言えるわけないじゃん! 私だってデリカシーくらいあるよ!
「……ご、ごめん、言えない」
みーちゃんは、「面倒だなこいつ」的に溜め息を吐いた。
「アンタは最近、そればっかり。何があったのかも話さないくせに、雰囲気で話そうとしてくる。正直、めんどい」
「う……」
反論できません。確かに、その通りだし。
「でも、アンタはやりたいことがあるんでしょ。アンタなりに突き進めば?」
「みーちゃん……!」
さすが私の親友だった。私の背中をぐい、と押してくれる。
「でも、あたしを巻き込まないでよね」
ただ、突き落とされた感じだけどね。でも、そんなことはもういい。そこに道があるなら、私は突き進むだけだ。
綾人くんの心にトラウマが深く刻まれていることを知った。そのことを、綾人くんは話してくれた。けれど、それは私と距離を置くための告白だということもわかっている。そんな彼に私だって簡単には近寄れない。でも、――でも、それを知ってしまったからこそ、私は彼を助けたい。
たとえ、綾人くんに拒絶されても、私は綾人くんを救いたい!
それが、私のやりたいことだ!
「よし、頑張るぞ!」
「明日山。もう授業始まってるぞ」
いつの間にか来ていた先生にたしなめられた。ついでにいうと、みーちゃんはすでに自分の席に座っていた。できることなら、先生が来ていることを教えてほしかったです、みーちゃん。
午前の授業が終わってお昼休み。お昼ごはんも食べないで、私は一目散に北校舎にある一年生のクラスへと向かっていた。目指すは綾人くん。短い休憩時間はとてもじゃないけどお話しはできないから、昼休みに声をかけると決めていた。
階段を駆け下りて、外廊下を走って――北校舎へと差し掛かった時、その出入り口で、綾人くんが腕を組み、壁に背を預けながら立っていた。手にはスマホを持っている。
普段なら綾人くんはクラスでみんなと昼食を摂っているはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう。いつもとは違う彼の行動に戸惑った私は、足を止めた。
綾人くんはスマホを操作していて、私に気付いた様子はない。通りすがりの一年生たちが、綾人くんの傍を通るたびに声をかけようとする。いつも通りの人気者だね。ただ、彼が「話しかけるな」というような雰囲気を纏っているため、誰も声をかけなかった。
私も声、かけづらいじゃんか。
私はとりあえずゆっくりと近づくことにした。すると、私の気配に気づいたのか、綾人くんが顔を上げた。ぴたり、と私は動きを止める。呼吸も忘れずに。
「――琴音先輩、別にだるまさんが転んだをしているわけじゃないんですが?」
「……私もやっている覚えはないんだけどね?」
綾人くんが壁から離れて動き出す。綾人くんの足は外廊下を外れて、地面へと降り立った。上履きだというのに、かまわずに歩く。向かっている先はなんとなくわかった。彼は〝千本桜〟へと行こうとしている。私が来て彼が動き出したということは、「ついてこい」っていう意味なんだろうね。
上履きで外に行くのかとためらっていたけれど、ためらっていても仕方がないと私は、外へと出る。
綾人くんを先頭に、私は無言で後をついていく。
そうして、少し花びらが散ってしまった〝千本桜〟についた綾人くんは立ち止まる。私も綾人くんと少しの距離を開けて、立ち止まった。振り返った綾人くんは、その距離を見て目をぱちくりさせた。
「……どうしたんですか? そんなに離れて?」
「いや、いつもと違う綾人くんに妙な違和感を覚えて」
だって、綾人くんがあそこに立っていたのは、まるで私を待っていたかのように見えたから。まるで私が来るのを予期しているように見えたから。その違和感で、『綾人くんを助ける』という私の決意が怯えてしまったじゃないか。
「まぁ、ここ一週間近く琴音先輩の行動を見ていれば、次はどんな行動に出るのかくらいはわかりますよ」
思った以上に恐ろしい子だった。彼の一人で生きていこうとする技術はそこまで極めていたのだろうか。
「琴音先輩がわかりやすすぎるんですよ」
少しだけ、困ったように笑い声をこぼす彼。
違和感。
そう、違和感だ。
彼が、私が来るのを予期して待ち伏せていたこと。それもそうだけれど、それ以上に、彼は〝他人行儀〟だった。まず敬語。その表情。雰囲気。すべてが私に対して〝他人〟として接しているのがわかる。
「綾人くん」
「はい?」
「何で、綾人くん、私が来るの待ってたの?」
「……何でだと思いますか?」
私は焦りを覚える。その違和感が、そんな〝他人行儀〟の雰囲気が、私にはとんでもなく怖かった。
だから、宣戦布告した。私の決意が逃げる前に。
「私が、綾人くんを助けてあげるからね!」
果たして、私の言葉は、想いは届いただろうか? 綾人くんは微笑む。困ったように、微笑んだ。それすらも、私にはよそよそしく見えた。
「先輩」
「だ、大丈夫だから! 私が何とかしてあげるからね!」
「先輩」
「綾人くんがまだ私を信じてくれなくてもいいよ! 私は――」
「先輩」
「そうだ、綾人くん、今度、神社でお祭りがあるんだ! 一緒に行こうよ!」
「先輩」
「綾人くん、何とかするから」
お願いだから。それ以上は言わないで。
「ありがとうございます」
綾人くんは頭を下げた。ぺこり、と礼儀正しく、腰を折って。
その〝ありがとう〟は同意のこと? 受け入れてくれたってこと?
それなら嬉しい。嬉しいけれど、――私は喜べない。その声が、ニュアンスが。
感謝の〝ありがとう〟じゃなくて、もっと別の〝ありがとう〟としか聞こえなかったから。
「先輩、オレはもう大丈夫です。だから、ありがとうございました」
心から告げられる言葉は〝ありがとう〟なんかじゃなくて、〝さようなら〟、だった。もう大丈夫、だから、自分に関わるな、という、拒絶。本格的に距離を置かれ、挙句、終わりだと告げられ、――もう関わるなと釘を刺された。
今までの彼の調子であるなら、私は問答無用で彼に反論した。
でも、今の彼は違う。どこまでもよそよそしく、他人行儀で。
突き放された私は、もうどうすることもできない。だって、そんなふうに拒絶されてしまえば、私はそれ以上、突き進めなかった。
きっと、綾人くんはそのために、私をわざわざ待っていたのだろう。こうして、私と完全に決別するために。
綾人くんは私にもう一度、頭を下げると、何も言わずに行ってしまった。私が我に返って、振り返ったとき、彼の姿はもうなかった。
「……綾人くん」
何で?
どうして?
そう、言える間もなく。




