【8】
私は何とか綾人くんのナイフを避け続けていた。妖狐の洞察力とか、俊敏力があって本当に助かった。もし、それがなければ、私は血まみれになっていたはず。さすがの私でも「ま、いっか」じゃ、すまされない事態になっているよ。
でも綾人くんの動きも速い。ケンカ慣れしているとかそういうレベルの話じゃかった。高校生同士のケンカなら、綾人くんが確実に圧勝するくらいの強さを感じられた。こうして攻撃を受けて、避けているからわかることだけど、綾人くん、高校生に似つかわしくない戦闘力を持っているよ。こういう言い方だと格闘漫画みたいだけどね!
「綾人くん!」
何とか、綾人くんの意識を取り戻そうと声をかけているけれど、いまだに綾人くんの意識が戻る気配がない。ただ、自分のトラウマに駆り立てられて、カッターを振り回していた。
「綾人くん、目を覚まして!」
綾人くんは答えない。綾人くんの肩にいるふゆくんはのんきに眠っていた。少しは助けてよ! と言いたいけれど、私の叫びは届かない。まぁ、眠っている相手に叫びなんて届かないけどね。
でも、その時だった。
綾人くんに微かに異変が起こった。
「綾人くん?」
綾人くんの動きがぴたり、と止まる。一瞬、綾人くんの意識が戻ったのかな、って期待したけれど、でも、いまだに虚ろな様子の綾人くんが意識を取り戻した様子はなかった。
「綾人くん、大丈夫……?」
綾人くんに恐る恐る近づく。ふと、カッターを持つ手が動いた。驚いて、半身を退いた私は、さらに驚きの光景に目を見開いた。
あろうことか、綾人くんは自分の首筋にカッターを持ってきていた。その銀色の刃が、切っ先が綾人くんの首筋に触れ――る寸前に、私は慌てて綾人くんの手首を抑えた。
「ちょ、綾人くん、何してるの!」
綾人くんの答えはやっぱりない。でも、私の問いかけに答えるかのように首筋へと導くカッターを持つ手に力が込められた。抑える私の手がぶるぶると震えた。すごい力だった。いくら妖狐の力をひいていようと、鍛えられた男の子の力を前にすれば弱い。ぎりぎりとした力の均衡で、カッターの刃も震えている。
「綾人くん、何してるの! 早くカッターをしまって!」
全身で止めてはいるものの、さすがに手と腕が限界だった。
このままじゃ、綾人くんが危ない。
「ごめんね。綾人くん」
呟いて、私は綾人くんを抑える右手に全力を注いで、彼から離れた左手で指を擦り合わせ――弾いた。ぱちんと、指が鳴って、眩い閃光と炸裂音が響き渡った。
琴音先輩を殺したくない。それならオレ自身を殺せば全て丸く収まるんじゃないかということに気付いて、オレは自分自身に刃を突き立てようとした。でも、それは琴音先輩に全力で止められた。
まぁ、目の前で人が自殺しようとしていることに気付けば、全力で止めようとするだろうけどな。
意識の端で琴音先輩の様子がうかがえた。必死に、オレを止めようとしている。その心遣いがとても嬉しかった。オレなんかのために、助けようとしてくれている。でも、力ではやっぱりオレの方が上だった。少しずつだけど、カッターナイフはオレに近づいてきていた。
その時だった。
琴音先輩は何か決意を固めたような、真剣な表情を浮かべた。そして、オレの手を右手で抑え込むと、左手で指を鳴らす。
そして、目の前が青白い光とともに、大きな炸裂音が響き渡った。
目の前が眩くなり、きん、とした耳鳴りがする。あまりのことに意識がひるんだ。
『ほら、あんたを殺そうとしているわ』
その意識の深層から、過去の幻影が嘲笑する。そう、こいつは幻影で、幻聴。すべて、オレが作り出した、幻。
『気づいてないの? かわいそうに。アンタを救おうとして、あの子、あんたを殺そうとしているわよ』
くすくす、と笑う声。それにオレは頭を振る。
『ほら、見てみなさい』
オレはその声に顔を上げた。その先にいたのは、琴音先輩だった。にこにこと笑って、手にはオレが持っていたカッターナイフを持っている。
「琴音先輩……」
琴音先輩はにっこりと笑うと、カッターの切っ先をオレに向けてきた。
「ね、綾人くん」
にこにこと笑う琴音先輩。いつも通りの無邪気な笑顔なのに、でも、どうしてだろうか、とても恐ろしく感じた。
「――死んで?」
笑顔で言い放つ琴音先輩はやはり無邪気だった。無邪気に言われたから、最初は何を言われたのかわからなかった。
「早く、死んでよ」
カッターナイフを突きつけながら、琴音先輩はオレに近づく。オレはただ、呆然と琴音先輩を見つめているしかなかった。信じられない。とても、信じきれるものじゃなかった。琴音先輩がオレに悪意を向けていることがとても信じられない。
「琴音先輩……」
「私ね、綾人くんのこと、嫌いだよ」
「……」
「嫌い、だから、ねぇ?」
――さっさと壊れてよ。
あぁ、オレはやっぱり最後の最後で人に裏切られるのか。もしかしたら、この人だけはって思っていたのに――そう、思っていたことにオレは驚いた。期待しないと決意したはずなのに、オレはこの人に対して期待してしまっていた。
この人なら、オレは信じられる。
オレを助けてくれる。
そう、無意識に縋っていたようだった。
でも、それも終わりだ。この人は自分を殺そうとしているから。期待して裏切られても、裏切られて失望しても、それはオレの勝手な都合だ。琴音先輩のせいではない。でも、この人になら別に殺されてもいいかな、なんて、思って、――オレは目を閉じた。
すべてが遮断された世界で、琴音先輩と、かつてのあの人たちの、自分が踏み台にしてきた人たちの笑い声が聞こえた。
――まぁ、いいや。
そうして、諦めて。
死に身をゆだねて。
さようなら。
そう思った時だった。
「いい加減に、起きなさいってば!」
すぱん、と小気味いい音を立たせながら、思いきり、オレは頬をはたかれた。は? 何が起こった? 思わず目を開けても、目の前には闇が広がっているだけだった。
「目を覚ましてよ!」
次いで、がくんがくんと、肩を前後に揺さぶられる。首ががくん、がくん、揺さぶられるたびに、前へと後ろへと振り回された。
誰かに今、肩を掴まれている。でも、目の前には誰もいなかった。
「起きて!」
でも、声は琴音先輩のものだった。
「負けないで!」
必死さが、切実さが、縋るように、そう耳元で叫ばれる。
「私の可愛い彼を返してよ! 戻ってきてよ!」
――可愛い、彼?
耳元で叫ばれた内容に、オレは思わず唖然としてしまった。
「返してよ! 可愛いかった彼を返してよ! 私たちこれからなんだから! すごい腹黒で、上から目線で、意地悪で、でも、幽霊が怖くて臆病で、そのくせに意地を張って、それでも、とても優しい彼を返してよ! というか、早く目を覚ましなさい! そうじゃないと、いろんなこと君にしちゃうからね! 例えば、落書きしたり、ほっぺつねったり、そ、それなら服だって脱がしちゃうからね! それで、それから、本当にいろんなことしちゃうから! た、た、例えば……こう、口で言えないこともしちゃうからね!」
続けてそう大きな声で叫ばれた。そう、大きな声で、結構、際どいセリフを琴音先輩は吐き続けて。オレは思わず、
「大きな声で、何言ってんだ!」
目の前にいる琴音先輩の頭をスパーンとはたいていた。突然のことに、目を丸くさせる琴音先輩に、さらにオレは言う。
「あんたは何でそうやって大きな声で恥ずかしいこと言ってんだ! 少しは恥ずかしがれ!前々から思ってたけど、あんたは自分の感情を表に出し過ぎだろ! いつか、痛い目に遭うぞ! というか何がどさくさに紛れて何をやろうとしてんだ!?」
「な、……い、いきなり、何!? 感情表現豊かなのは私の長所だよ! そ、それにそういうのは私の願望だもん!」
「変な願望を持つな! それにそのお前の長所のせいでオレに騙されたことあるだろ!」
「それは、あきらかに綾人くんが悪いでしょ!? 私は悪くありませんー!」
「感情を表に出して警戒心がないから利用されるんだ! そのこと分かれ! だいたい、お前はナイフを持っている相手に何で立ち向かってんだ! 逃げろ、通報しろ!」
「だって、何とかできると思ったんだもん!」
「何とかできなくて、結局、狐火を使っただろ!」
「だって、綾人くん、容赦なく自殺しようとしてたからじゃん!」
「それは仕方ないだろ! だいたい、アンタがオレを殺そうとするから――」
「私が綾人くんを殺すわけないでしょ!? 何夢見てんの!」
「……ん?」
「…………え?」
お互いヒートアップして口論になっていた。ようやく、それがおさまって、いろいろとおかしなことになっていることに気付いた。
「えーと? オレ、何がどうなってたんだ?」
疑問符が飛び交うオレに、琴音先輩は「あー」と言葉を探す。どうやって説明しようか、と考えているようだった。
口論していた二人の喧騒など、素知らぬように桜の枝が風によってさわさわと揺れる。ふわり、と舞い散った桜の花びらを見て、オレは静かに溜め息をついた。
「何となく覚えてるけどな……」
そういうと琴音先輩は目をぱちくりと瞬かせて、少し躊躇ってから口を開く。
オレがふゆくんに憑りつかれて暴走したこと。
カッターナイフを振り回したこと。
琴音先輩を襲ったこと。
自殺しようとしたこと。
聞くだけで耳に痛い悪行ばかりだった。でも、琴音先輩はさして気にしていないのか、オレのことを――というより、オレの肩あたりをじっと見ていた。
「何?」
「え? あ、ううん。もうふゆくんがいないな、って」
「あー……」
そういえば体も軽くなった気がする。オレは肩を回して、調子を見るけど、特に今まで通りという感じだ。
「たぶん、綾人くんの意識が戻ったから、ふゆくんどこかに行ったんだと思う。綾人くんは大丈夫?」
琴音先輩がオレの顔を覗き込んでくる。ずい、と近くなった顔の距離に、オレは顔を背けた。
「別に平気です。――琴音先輩は?」
「私? 私は全然、大丈夫」
怪我なんてしてないし。と、ひらひらと手を振る。確かに見た限りでは、琴音先輩には傷はないようだった。体の傷、ではだけれど。
「その、琴音先輩、ごめん」
「何が?」
「その、カッターで……」
あんたを刺そうとしたこと。そう口にすることはできなかった。自分にそのつもりはなくても、それでも自分の凶行に琴音先輩が犠牲になるところだったと思うと、とても怖い。もし、本当に琴音先輩を刺してしまったら――最悪な結末を思い浮かべるだけでもう謝るだけでは済まない事態になっていたはずだ。
「別に大丈夫だって。むしろ、カッターなんて、あれに比べれば全然怖くないし!」
「……あれ?」
何のことだろう。でも、琴音先輩の視線は遠いものになって、
「お札に比べれば、本当に可愛いものだよ」
お札って、何? よくある悪霊退散とかで活躍するあの札のことだろうか。琴音先輩のそれに対する過去のトラウマは相当なものらしく、ぐず、と鼻を鳴らした。
確かに、妖狐であるから、いわゆる悪霊に対する札の威力は半端ないものだろう。でも、半分は人間だから威力は半減するもんじゃないのか? と、内心で首をひねるが、特に問うことでもない。トラウマを抉られるのは、とても辛いものだとわかっているからなおさらだ。
「綾人くん。綾人くんこそ、大丈夫なの?」
「え?」
「ふゆくんが乗り移ると、その、嫌な過去とか見せられちゃうらしくって、その、ふゆくんが乗り移ったから、もしかしたら、その、嫌なことでも……」
言いづらそうに、でも、言葉を選びながら、オレの心配をしてくれる琴音先輩。オレはそれに笑ってしまう。無遠慮にずかずかと近づいてくるにも関わらずに、こういう時には人の顔色をうかがう。琴音先輩にもそんな気遣いができるんだな、なんて、本人に対して失礼なことを思ってしまった。でも、オレはそんな琴音先輩だからこそ――……。
「先輩、オレ……」
オレはすべてを打ち明けることにした。きっと、琴音先輩なら、受け止めてくれるはずだから。そんな身勝手な期待をもって。
「何?」
「オレ、人が怖いんだ」
「怖い?」
「うん」
オレは笑った。でも、そんな笑顔に彼女は騙されることはなく、少し困ったように眉尻を下げた。
「何で、人が怖いの?」
「裏切られるかもしれないから」
人に裏切られることがとても怖かった。
人を信じて、手を伸ばして、その手を振り払われた時の絶望は、一番、怖いものだった。それを、もうオレは味わいたくない。思い出したくない。だから、オレは一人でいるんだ。
「……綾人くん」
「琴音先輩!」
オレは努めて明るい声を出した。琴音先輩に暗い顔をさせたくなかったし、それに、これはけじめだ。オレがオレであるための。
「〝召使い〟――琴音先輩、クビです」
「………………は!?」
琴音先輩は何を言われたのかわからないのだろうきょとん、として、思いきり驚いた。
「ク、クビ!?」
「はい。だって、琴音先輩をこき使っても、なぜかトラブルになるし、被害の方が甚大なんですよ。だから、クビ」
「そ、そんな社長!」
誰が社長だよ。本当にそんな気分になってきたじゃないか。平社員の琴音先輩が追いすがるように手を伸ばしてくる。それをオレはよけた。
「琴音先輩、ごめん」
オレは謝る。おそらく、今世紀最大の告白で、最も惨めな瞬間になるはずだ。
「オレ、こうして、琴音先輩に何度も助けられてきたけど、それでも、」
――オレは琴音先輩のことを、まだ信じられない。
そう、オレは、命の恩人にすら、恐怖を抱いているんだ。