【5】
オレは早退して、ぼんやりと河川敷近くを歩いていた。近くでカラスの鳴く声が聞こえる。
町へと出て憂さ晴らしをしてもよかったけれど、そんな気分にはなれなくて、だからと言って家に戻る気にもなれず、こうしてぶらぶらと歩いて時間を潰していたのだけれど。
どうしても考え事ばかりしてしまう。
オレは最近、人の前で偽ることができなくなってきていた。
笑顔でいることも、感情を抑制することも、人を誘導することもできない。そのせいかわからないけれど、人前でいる〝皆島綾人〟とはどういう人物なのかすらわからなくなってきていた。
オレの中での〝皆島綾人〟は明るく、ムードメーカーで、困っている人を助ける優しそうな人物像だ。思い描いた通りの〝皆島綾人〟を演じていたつもりだったのに、それがどういう存在なのかすらわからなくなってきている。
何を考えて、何を思って、どう行動するのか? その指針すら曖昧になってきていた。
どうして、こうなってしまった?
何を失敗してしまった?
――思えば、あの妖怪の先輩と会ってからだった。
そうだ。琴音先輩に自分の本性を見破られてから、オレは少しずつ狂わされていった。彼女が無遠慮に、オレの心の中に入り込もうとするからだ。今までそういう人間は確かにいた。けれど、オレが牽制すればみんな離れていった。でも、琴音先輩は違う。オレが牽制すればするほど、より深く入り込もうとしていた。そのせいで、オレの〝皆島綾人〟が狂っていったんだ。そう、すべて琴音先輩のせいだ。でも、どうして、オレは彼女にここまで狂わされつつあるのだろう?
それが、わからない。
オレはスマホを取り出して時間を確認する。すでに午後五時を回ったところだった。そろそろ、帰ろうか、とオレは帰宅に向けて歩き出した。けれど、
「おい」
いきなり、声をかけられた。オレは〝皆島綾人〟を演じようとして、――やめた。そこにいたのは三人の男。見た顔だった。そう確か、中学時代にいろいろと利用した奴らだった。こいつらのおかげで中学生活は、別に順調とは言えなかった。何しろ、馬鹿な三人組だったからコントロールするのが大変だった。だから、早々に切り捨てたのだけれど、どうして、ここにいるのだろう?
「久しぶりだな? 優等生の綾人クン?」
どこかの高校の制服を着崩して、髪も染めて、アクセサリーをジャラジャラつけて、うん、不良という感じだけれど、馬鹿っぽくも見える。
金髪に染めた男がオレに近づいてくる。オレは堂々と、こいつが近づくのを迎え入れた。男は背がでかくて、オレは自然と見上げる形になる。男は自分より背が低いと認めたとたん、人を見下すように顔を歪ませた。
「相変わらずの優等生なようだね、綾人クン?」
「……どこのどちら様で?」
「はぁ? 俺たちのこと、忘れたとは言わせねぇよ?」
はっきり言って、忘れてたけど。名前も思い出せていない状態だけど。まぁ、オレにとって、こいつらはどうでもいい奴らなのは確かだ。
「俺たちはお前のこと、良く知ってるぜ?」
その言葉に、後ろで控えていた二人も、顔を笑みで歪ませた。笑顔だけれど、その顔には、怒りとか、憎悪とか、オレが共感できる感情が浮かんでいた。
それにしても、オレのことをよく知っている、ねぇ?
「前々からお前にやり返したいと思ってたんだよなぁ。そうしたら、タイミングよく変な女がお前のことを探していてよぉ? そいつに、お前のこと訊いたんだぜ? お前、可愛い彼女に売られちまってかわいそうになぁ」
げらげらげらと、こいつらは笑う。その笑い声がひどく耳障りだった。それよりも、琴音先輩、こいつらにも何を訊いているんだ。それに、人のプライバシーを答えんなよ。しかも、彼女じゃないし。
男たちは、まだ何かを言っている。オレはもう何も聞くつもりはないから、ガン無視だった。こいつらの前ではオレは〝皆島綾人〟を演じるつもりはない。あぁ、でも、と思い至る。オレは〝皆島綾人〟という人物に迷走中だったんだった。どういう人物だった? そう考えて、そういえばこいつらはオレのことをよく知っていると言っていたっけ?
「おい、聞いてんのかよ?」
男がオレの襟元に手を伸ばした。オレは、その手首を掴んで、そのままひねり上げた。
「――いっ」
ぎりぎりと、腕を締め上げる。そのまま脱臼させてもよかったんだけど、オレの話の方が先だ。
「なぁ、昔のオレって、どういうの?」
「は!?」
締め上げられている男が、悲鳴を上げる。まぁ、今、思いきり締め上げたからな。
「や、やめ、腕が……!!」
「教えろよ、昔の皆島綾人って、どういう奴だったんだ?」
「いだだだっ、む、昔のお前は、今のお前と同じだ!」
「今のオレと同じ? どういうふうに?」
「いだ、いだだだ! 腕が、腕が! 肩が!」
「――うるさいな」
本当に、へし折ってやろうか、と思ったけれど、ぱ、と放す。男は慌ててオレから距離を取る。
「てめぇ……」
「ぶっ殺してやる!」
名前も知らない、ただ、過去に利用しただけの三人組は、怒り狂ったかのようだった。表情には殺意みたいなものが滲み出ている。
昔のオレは、今のオレと同じ。
じゃあ、昔のオレはいったい誰だったんだ? どういう人物だったんだ? まったくわからない。
男たちが一斉に飛びかかってくる。オレは男たちの攻撃をかいくぐりながら、思考は〝過去〟へと飛んでいた。
今の高校生活。
中学時代。
小学生時代。
――そして、幼少時。
あ、しまった。
そう思った時にはもう遅い。オレの脳裏には一番思い出したくない記憶までが鮮明によみがえる。家族のこと、家族のこと、家族のこと、家族のこと。
真っ暗闇の山。
一人ぼっちの自分。
闇に怯える自分。
そうして、――誰かに声をかけられて、手を差し伸べられた。女の子。小さな、女の子。でも人間じゃない。そう、確かあの女の子には、〝耳〟があって――……。
「死ね!」
あ、と、ようやく現実世界に戻ってきた。オレは向かってきた拳を受け流して、男の腕を掴んで、そのまま体をひねり、背負い投げをしようとした時に、
『――ねぇ、綾人くん?』
声が、声が聞こえた。オレはぴたり、と動きが止まる。視線が、恐る恐る、そちらへと向けられた。そこに誰かがいた。そんなところにいるはずがないのに。いるはずがないというのに、オレの意識はそこにその人たちがいると錯覚してしまっている。
『あなた、邪魔なのよね』
言葉も過去のものだからとても透明なのに、それでも、オレの心を突き刺すには十分な威力があった。
『綾人くん。あなたいつも失敗ばかりしているじゃない』
笑う。その人たちが、笑う。けらけらと、心から楽しそうに笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。
失敗。失敗って何だろう。思い出すのは琴音先輩のことだらけだ。あの日、そう、オレが嘘をついて噴水に琴音先輩をけしかけたとき、彼女は怪我をしてしまった。また、あの日、琴音先輩に「化け物」と言った時、琴音先輩のトラウマをえぐってしまった。そして、最大の失敗は琴音先輩の秘密――妖狐であることを黙っていたこと。彼女の秘密を黙秘していたからこそ、いろんなトラブルに巻き込まれた。
自分を見失うことさえなかったかもしれない。
こんなふうに〝過去〟を思い出すこともなかったかもしれない。
今となっては後悔ばかりが募る。
『綾人くんのこと、信じてたのに。――裏切って』
違う。裏切ったのは、オレの信用を踏みにじったのはお前たちの方だろ。でも、オレの声はあの人たちには届かない。あの人たちは、嗤う。
『――さっさと死ねば?』
けらけら、きゃらきゃら。笑うたびに人の心を締め上げて、振り落とされる言葉。人を真っ暗闇へと突き落とす、その絶望感。久しぶりに、思い出してしまった。
あぁ、嫌な気分だ。どうして、思い出しちゃったんだろう。しばらく、思い出さなかったというのに。
体ががくん、と地面にのめり込んだ。別に倒れたというわけじゃない。ただ、こいつらに蹴り倒されただけだ。そして、さらに足がオレの体を蹴る。でも、痛くない。痛いのは、もっと、別のところだ。もっと、別の、深いところ。
嫌だなぁ。
早く終わらないかな。
別にこうして蹴られることじゃなくて、この幻覚が。早く、この笑い声がなくなってほしい。その人たちがいなくなってほしい。
そうして、オレは閉じこもった。真っ暗闇に包まれて、すべての五感を遮断して。時間さえ過ぎれば何もかも終わるから、それまでじっとしていればいいんだ。
『大丈夫?』
ふと、声が聞こえた。幼い女の子の声だ。目を開ければ、小さな女の子が目の前に立っていた。きっと、これも幻だろう。何しろ、その存在が曖昧だから。でも、過去にこうして幻として現れるほどに、印象的な女の子と出会ったことなんてあっただろうか?
『どうしたの? 一人ぼっちなの?』
幻の女の子が首を傾げる。不安そうに、気づかわし気に。何故だろう、その女の子を見た瞬間、言いようのない安堵感に包まれた。それこそ、泣き出してしまいそうなほどに。それほどまでに安心感がある子なのに、でも、その女の子は――……。
『もう、大丈夫だよ。私がいてあげるからね』
色素の薄いふんわりとしたクセッ毛。子供らしいあどけない顔立ち。にっこりと笑えば、可愛らしく。でも、その女の子は人間じゃない。人間じゃなかった。何しろ、その髪の毛から、狐の耳が――。
オレはぱち、と目を覚ます。
――狐の耳? 狐の耳だった? しかも女の子。それにあの色素の薄い髪に、波打ったクセッ毛。それにあの笑顔。どこかで、見たことがある。違う、見た。そう、しかも最近だ。誰だ? 心当たりは、あった。そういう存在が身近にいた。いるじゃないか。そう、あの――……。
「何をぼさっとしてやがる!」
オレは、ようやく現実に意識が戻る。あぁ、そうだった。オレは今、こいつらにいいように蹴られているんだった。今さら、蹴られた体がずきずきと痛み始めた。
どうやら、意識が体の感覚を遮断させるほど遠くへと行っていたらしい。
でも、意識が戻ればこちらのものだった。オレはゆっくりと立ち上がろうとして……、でも、
『綾人くん』
過去はオレのことを立ち上がらせる気はないらしい。いや、過去に怯えるオレの心、といったほうがいいか。あー、くそ、もう、やる気が出ない。
『綾人くん』
過去の幻影が、オレに向かって微笑む。口元は笑っているのに、軽蔑、嫌悪、煩わしさ、オレを拒絶する眼差しが、オレを突き放す。
「さっさと死ねよ!」
『さっさと死んでくれない?』
振り落とされるのは言葉か、拳か、それとも、刃か。それをオレは知らない。ただ、それをオレは受け入れるしかないんだ。
『綾人くん』
「綾人ぉ!」
「――綾人くん!」
声が重なる。三重の声の中に、ここにはいなかった声が混じっていた。オレは顔を上げる。まさか、と思った。だって、あの声は、ここにいるはずがない。
けれど、オレが視線を向けた先に広がった光景は、
「綾人くんに、手を出すな!」
自分よりはるかに体格のいい男三人を勇猛にも蹴り飛ばす、琴音先輩の姿があった。琴音先輩の蹴りは見事に男のみぞおちに埋まる。
「ぐ、あ!?」
突然のことに蹴られた男はうずくまった。それをかばうように二人の男が琴音先輩に立ちふさがる。
「な、何だ、てめぇ!」
「君たちこそ、何なの!? 綾人くんを寄ってたかっていじめて!」
「てめぇに関係ないだろ!」
「関係はあるよ! 私たちは秘密の間柄なんだからね!」
何だそれ。オレは上体を起こして、琴音先輩と三人組の行方を見守ることにした。
「は……? 秘密の間柄ってなんだよ、それ?」
「そのままの意味! つまりはこういうこと!」
琴音先輩はぱちん、と指を鳴らす。でも、今回はいつものように青白い閃光が弾けることはなかった。
「え、あ、……ひぃ!!」
対して、目の前の三人組は琴音先輩を前にして、恐怖に引きつった声をもらした。その目が、表情が本気で怯えている。まるで、目の前に化け物がいるかのようだった。
「に、逃げろ!」
「早く、逃げろ!」
「ひぃぃっ」
男たちは慌ててここから逃げ出す。訳の分からないオレにとって慌てふためく三人の男たちのその姿は滑稽そのものだったんだけど。
「……琴音先輩、いったい、何をしたんです?」
「幻を見せただけだよ」
「幻?」
「うん、私の狐火は幻を見せることもできるんだ。ただ、持続時間がかなり短いし、変な噂を立てられても困るから、あまり使わないんだけどね」
困ったように笑う琴音先輩はオレに近づいてくる。座り込んでいるオレと視線を合わせるように腰をかがめた。
「大丈夫?」
琴音先輩はオレの傷の具合を見るかのように、細い指先が伸ばされた。す、とケガに触れて少し痛い。琴音先輩は弱ったように顔を曇らせると、オレの手を掴んだ。
「早く消毒しよう」
『もう大丈夫だよ』
かつての幻の声が聞こえた気がした。幼い女の子の声。でも、現実はその幼さを残しながらも、大人びた少女の声になっていて。
『大丈夫だからね』
――そうだ、思い出した。あの時、暗闇の世界で一人ぼっちだったオレは、女の子に抱きしめられて、あやすように頭を撫でられて。その温かさに、オレは泣いたんだ。
「え」
琴音先輩が驚いたような声を上げた。オレは、彼女を抱きしめていた。きつく、強く、でも、縋るように。
「あ、あ、あああ、綾人くん!?」
狼狽する琴音先輩をさらに抱きしめる。その温もりを確かめたかった。――そうだ。この温かさだ。あの女の子がくれた温かさ。
あの日の温もりがここにある。
また、オレを救おうとしてくれている。
――何でオレは忘れていたんだろう? こんなにも大事なものを。あの、感情を。憧れを。
「綾人くん……?」
戸惑う声を無視して、オレはひたすらにその温もりを求め続けた。




