【2】
向かった先は、北校舎の裏庭の〝千本桜〟だった。雨がしとしと降っているけれど、あまり関係ない。むしろ桜が良い傘みたいになっていて、全然濡れなかった。綾人くんはある程度奥まで行くと私の手をおもむろに放した。
私へと振り返る綾人くんの顔は、ニッコリ笑顔。でも、青筋が立って見えるよね。
「えーと、綾人くん?」
私が綾人くんの名前を呼んだとたん、綾人くんの表情から笑顔が抜け落ちた。残ったのは、そのまま憤怒の表情のみ。仁王様がいらっしゃる!
「お前、今、何気に失礼なことを考えたろ?」
「え、私の考え読まれてる!?」
いや、仁王様はどちらかといえば褒め言葉? みたいな屁理屈を考えていたら、がし、と手で頭を掴まれた。綾人くん、小柄なのに手は大きいんだ。さすが男の子だね、って、痛い、痛い、痛い! ぎりぎりと、私はそのまま握りつぶされるんじゃないかと思うほどに、綾人くんに脳天をぎりぎりと圧迫された。
「何で、お前は、学習しないかな……?」
「痛い、痛いってば! 学習って何が!?」
あまりの痛さに、耳がひょん、と飛び出たのがわかった。でも、綾人くんは容赦なく、頭を締め付ける。
「お前は一応、妖狐なんだろ? 軽はずみな行為はよせって言ってんだよ……!」
「いたたたたた! 大丈夫だって! 気づかなければ大丈夫!」
「どこまで楽観的なんだよ! お前、オレにバレた時点でもっと気を付けようとは思わないのか!?」
「……何とかなる時は、何とかなるし……って、イタイイタイ! ごめん、ごめんってば!」
あまりの痛さにギブアップすれば私の頭がようやく解放される。くそう、頭が悪くなったどうしてくれるのさ。
「頭の悪さ以前に、身の危険をどうにかしろ」
「心の中を読むのはやめてください」
何だか、こういうやり取りはとても久しぶりな気がする。こうして、軽口をたたきあうって、なかなかできないんだよね。しかも、「二度と近寄るな」と言っていた本人が、こうして、私のことを案じてくれているということが純粋に嬉しかった。
「……で、今度は何があった?」
「何って、何?」
「あの騒動だよ。狐火を使用するくらいだから何かあったんだろ?」
「何かあった……というよりは、綾人くんが人気者過ぎたんだよ」
にやり、と笑えば、綾人くんはきょとん、とする。本当にどういうことかわかっていないらしい。
「綾人くんと私の仲を邪推した女の子たちが、勝手な憶測で私を追いかけまわしただけ」
いいねぇ、モテるねぇ。まぁ、私も彼女たちと同じ、惚れてしまったその一人ですがね。そう肘で小突けば、綾人くんは特に嬉しそうにする様子もなかった。
それと、私とこうして接するときはいつもと同じ態度だった。私の『好き』発言は、彼の中ではなかったことになっているらしい。悲しいね。私がひっそりと悲しんでいると、綾人くんはなんていうか不可解そうな顔つきだった。
その表情で、あぁ、と私は納得する。
そうだったね。彼はクラスメイトの前では〝仮面〟なるものをかぶっていたんだ。世の中を渡るための偽物の表情。つまりは彼女たちが好きになったのはその〝仮面〟をかぶった綾人くんの方で、素の綾人くんの方ではない。
「綾人くん、君もクラスメイトたちの前でさ、表情つくるのやめたら?」
私はにこにこ笑顔の綾人くんの表情も好きだ。でも、素の綾人くんの方も好きだ。確かに乱暴だし、ちょっと凶悪な面もあるものの、優しさだってある。噴水の妖に引きずり込まれそうになった私を助けてくれたしね。素の綾人くんも素敵なのに、もったいない気がした。
「ね、本当の友達をもっと作ったら、きっと、綾人くんの力になってくれると思うよ?」
そう勧めても綾人くんは、何も答えない。むしろ、怪訝そうな顔つきになった。え、何で、そんな顔をするの?
「なぁ」
綾人くんが、ようやく口を開いた。
「ウザったい」
――ひどいね! いきなりの罵倒に、私は開いた口が塞がらない。でも、私だって負けないよ。
「何が?」
「そういう友達とか、力になるとか、そういうの」
「何で?」
「正直、それは足手まといだろ」
「足手まとい?」
え、何を根拠に足手まといというのだろう? 綾人くんは怪訝そうな顔つきから、あからさまな嫌悪感を露呈する。
「そうだ。足手まとい。力になるからと言って人に付きまとって、でも、結局は力になろうとせずに、自分がピンチになったら助けてくれ。挙句の果てに、もし、うまく利用できないようなら捨てる。人間関係、友達関係なんて、そんなものだろ」
あぁ、そっか。そうか。
私はようやく、理解した。
彼の――彼の〝闇〟の正体が。
「そんなことないよ。確かに人を利用する目的で近づく人だっているかもしれない。でも、それはほんの一部だよ。いい人っていうのは、そういう考え抜きで君を助けたいと思っているはずだよ」
「そんなわけないだろ。一人で何もできないから、みんなが群れる。群れれば、他人を利用しようとする」
「違う違う。どうして、利用とか、そういう風に考えるの? ほら、私とかは君を利用しようとしてないじゃない」
「お前はオレに弱みを握られているだけだから。その関係が終われば、お前もオレを利用しようとする」
「しないってば!」
あー、もう! どうしてわかってくれないかな!? そう憤慨する私を、綾人くんは冷えた眼差しで見据えていた。あまりのその冷ややかさに、沸騰寸前だった私の頭も一気に冷やされて、反論の言葉も出てこなかった。
「なぁ、何で? 何で、お前らは群れようとするんだ? それでいて、支えあおうとか綺麗ごとを並べるくせに、他力本願に生きようとする。それでいて役に立たないようなら陰口を叩き、はぶいて、最後は捨てる」
「そんなこと……」
「そういうものだろ? だって、あのクラスメイトたちも、オレの本性じゃなくて、作ったオレが好きだっていうんだからな」
「それは、本当の君を見せないからであって!」
「もう、そういうのはうんざりなんだよ」
綾人くんは吐き捨てた。まるで、心からそれが汚いものであるかのように。簡単に、侮蔑をもってして、「関係」というものを捨てた。
「ねぇ、琴音先輩。先輩もオレに近づくのは、『好き』っていうのは――そういう理由でしょ?」
違う。
絶対に違う。
そう口にしようとしても、まるで凍てつくような冷え切った眼差しを前にすれば、私の否定はそれこそ凍り付いたように出てこなかった。
「先輩、さようなら」
さようなら。それはどういう意味なんだろう?「嫌い」とか、「近寄るな」よりも、それ以上の拒絶の言葉だった。それこそ、私たちの『関係』を切るかのような。
「綾人くん――!」
綾人くんは答えずに、私に背を向ける。立ち去る彼の背中へと手を伸ばしたけれど、その指先は届かなかった。
「どうしたんだよ、綾人!」
「大丈夫だった? 綾人くん」
オレがクラスへと戻るなり、そう声をかけてくるクラスメイトたち。誰もが気遣わしく、そんな言葉をかけているが、実際、本当に気遣ってくれている人間なんていないだろう。他人は他人、そう、所詮は他人なんだ。その他人がどうなろうと、どんな目に遭おうと、何をしでかそうと、結局は他人。自分には関係のないことだ。
例えば、明日山琴音。
彼女も口では綺麗ごとばかりを並べる。琴音先輩は、半分は人間で半分は狐。いざとなったら、自分の保身に走る。だって、そうだろ? 妖狐なのに人間として生活している奴が、人間としての存在を失うわけにはいかない。今はオレに弱みを握られているから、素直に従っているけれど、彼女を解放してしまえば痛い目に遭うのは、このオレなんだ。
むかつく。
オレはただ一人でいたいだけなのに。
どうして、みんなは自分を放っておいてはくれない?
オレはみんなの言葉を無視して、席に着く。そんなオレにクラスメイトたちは「大丈夫か?」「どうしたんだよ?」「オレたちが味方だ」なんて、本当に簡単に嘘をつく。上辺だけの言葉なんて、うんざりだ。その上辺を剥いでしまえば、残っているのはただの悪意だろうに。
――綾人くん!
うるさい。うるさい。うるさい、うるさい。琴音先輩の声の残響が脳裏にこだましていた。
だめだ。早く何とかしないと。このままじゃ、〝自分〟が作れなくなる。その前に何とかしないと。何とか、この場を切り抜けないと。
「綾人?」
「綾人くん?」
「おい、大丈夫なのか?」
オレに近づくな。これ以上は、オレは本当に〝自分〟が作れない。
――ね、本当の友達をもっと作ったら、きっと、綾人くんの力になってくれると思うよ?
あぁ、もう。
「うるさいな」
オレはは、と我に返った。偶然に生まれた静けさの間隙に落とされた言葉は、波紋のようにこのクラスに浸透していった。
「え、と、綾人……?」
クラスの男子が恐る恐る、声をかけてくる。だめだ。これは〝オレ〟じゃない。早く、笑顔を浮かべなければ。――でも、今のオレには、笑顔を浮かべることができなかった。