【11】
でも、ざばん、と噴水の中に何かが飛び込んできた。大きくうねる水中の流れを感じながら、ぐい、と誰かに力強く引っ張られる。体に手を回されて、支えられた。
何? と、思う間もなく、どんどん水上へと引き上げられていく。そして、
「ぷはっ!」
ようやくまともに呼吸ができるようになった。はぁはぁ、と全身で呼吸を繰り返し、混乱している私をよそにまた体が引っ張られる。体が何かに触れあい、どこか心地良かった。何だろう、と私を引っ張り上げてくれた何かへと視線を向けたとき、――本当にびっくりした。
「あ、綾人くん……?」
綾人くんが全身ずぶ濡れになって、私のことを支えてくれていた。綾人くんはばつが悪そうに顔をしかめて、舌打ちをする。何故、舌打ち? というか、何でここに? どうして、そんなに濡れて、いや、そもそも、どうして私を支えているの? ぐるぐると疑問が頭の中で空回りをする私をよそに、綾人くんは私を支えながら立ち上がり、噴水から出ようとした。
「綾人くん、どうしてここに?」
「お前こそ、何やってんだ」
「な、何って……、それは、綾人くんの落としたキーホルダーを探しに」
「そうじゃなくて、どうして、こんなに浅い噴水で溺れそうになってるのかを、訊いてるんだよ」
あぁ、そっちですか。それはこの噴水を住処としている妖に引きずり込まれたせいです。なんて、オカルト嫌いな君の前で言っていいのかな? 綾人くんはいまだ疑問を引きずっているようだけれど、私の説明を聞く気があるのか、ないのか。さっさと、噴水の外へと出てしまう。
二人とも全身がずぶ濡れだった。
濡れた生地が肌に張り付いて気持ちが悪いし、四月の風がとても寒く感じる。このままじゃ、風邪をひいてしまうかも、と危惧した時だった。
『どうして?』
この四月の風よりも冷え切った声が、地表を這うように聞こえてきた。
「あ……」
噴水の方へと振り返れば、そこにはあの人魚のような女の子が噴水の上に立っている。その目が真っ赤に染め上がり、纏う雰囲気も禍々しいものになっていた。これはちょっと危険かも。
『どうして? どうして、わたしといっしょにいてくれないの? ひとりは寂しいよ。ひとりはかなしいよ。ねぇ、一緒にいてよ。あそんでよ』
禍々しさの中に、微かな悲しみが滲んでいる。でも、その悲しみが悲しみとしてあればよかったのに。でも、この子の悲しみは悲しみの一線を上回り、負の感情へと育っていた。それは嫉妬とか、憎しみとか、そういうの。それを彼女は私にぶつけている。
『ねぇ、どうして? どうして?』
「おい、どうした?」
綾人くんには視えないんだろう。彼女の姿が。でも、こういうのは見えなくていい。これはきっと、悲しいことだからね。
私は綾人くんに答えずに、女の子と向き合う。そして、頭を下げた。
「ごめんね、私はあなたと一緒に入られないんだ」
その言葉に、綾人くんがぎょ、として噴水へと目を向けるのがわかった。きっと、噴水に何かがいることに気付いたんだと思う。ただ、目には視えないから、その存在を、私を通して知ったようだった。
『やだ、やだ、やだ、やだ!』
年相応の子供のように駄々をこねる妖。もとは、女の子の霊だったのかもしれないけどね。でも、私は彼女の傍にはいられない。
女の子が私の拒絶を、さらに拒絶した。そして、女の子の想いに答えるように、噴水が不自然にうねる。ざぷん、とまるで海面の波のように。
『イッショニイテヨ』
あー、うん、危険だね。かなり。頭では危険だと理解している。場の凍り付くような緊張感が、さらに私の焦りをあおった。
「おい、何が起こってるんだよ!?」
妖の世界が見えない綾人くんは、この状況についていけてない。それは、当然だろうけどね。心霊とか嫌いな彼のことだから、今のこの状況がとても怖いはずだ。何しろ、噴水の様子がおかしいし、おそらく妖のあの邪悪ともいえるような空気を肌で感じ取っているはずだから。
ここは逃げるに限る。この妖は、この噴水から出られないはずだから、一定の距離を取ってしまえば、追いかけてはこないはずだ。
「綾人くん、とりあえず逃げ――……」
そう彼に促した時だった。
水がいきなり私たちに向かって飛び出してきた。まるで水鉄砲――いや、頭のない蛇ともいうべきか。水はうねりにうねって、私たちを捕まえようと首を伸ばしてきた。
「―――――っ」
綾人くんの声にならない引きつった悲鳴が聞こえる。何しろ、その頭のない蛇のような水流は綾人くんを狙っていたから。
私はとっさに、綾人くんの前に出る。そして、指先を水流に向けて、ぱちん、と鳴らした。
瞬間、
ぱん!
と弾ける音共に、青白い閃光が弾けた。
『なに!?』
人魚のような女の子の妖がひるんだすきに、私は綾人くんの腕を掴んで走り出した。まだ光は消えない。まだ光に包まれる噴水を、私たちは後にした。
すでに夕暮れに染まる道を歩いて、私たちは河川敷へと逃げてきていた。全身がずぶ濡れだというのに体がひどく熱い。全速力で走ったから、足と横っ腹が痛かった。綾人くんも同じようで全身で息をしている。
河川敷でも桜が咲いていた。ここは遊歩道に沿うように桜が植えられえているため、歩きながら花見ができるとして何気に人気のスポットだった。私はその遊歩道に設けられているベンチに座り込んだ。綾人くんもこの時ばかりは隣に座る。
二人して疲れていて、呼吸を整えていたため、沈黙が落ちていた。そんな私たちを笑うようにカラスさんが鳴く。目の前を野良猫が歩いた。桜のささやきだけが聞こえる空間はひどく静かだった。
全身がずぶ濡れで、ぴったりと肌に張り付く服が気持ち悪い。それに、風が吹くと生地が冷えて、寒かった。でも、走ったせいで全身が熱い。まるでちぐはぐな感覚だった。これでは本当に風邪をひいてしまうかもしれない。
「おい」
最初にその静けさを破ったのは綾人くんの方だった。
「何?」
「さっきのは、何だよ?」
「……それを、君の前で言っていいのかな?」
別に意地悪をするつもりで言ったわけではない。でも、あんな通常では有り得ない光景を見れば、言わずとも答えなんてわかるはずだ。
それを証拠に、綾人くんははぁぁ、と、本当に深い溜め息をつく。まるで今が最悪な運命を前にしたかのような大げさな溜め息のつき方だった。
「もしかして、そうなのか?」
「うん、まぁね」
「あれは、結局、何がどうなって、今はどんな結果になったんだ?」
「そうだね……もともとあの噴水に妖がいて、それを私がお邪魔しますって侵入したらナンパされて、そしたら強引に水の中に引きずり込まれて、綾人くんに助けられた。狐火で目をくらませて、何とか逃げおおせたところ。ちなみにここまでは追ってこれないから安心して。あぁ、でも、あの公園にはしばらく近づかない方がいいかも。綾人くん、私と一緒にいるところをばっちり見られちゃってるから、百パーセント引きずり込まれるからね」
「……」
おぉう。そんなふうに睨まなくても。でも、私が忠告しなくても綾人くんはあの公園にはいかないはずだ。何しろ、本物の妖がいると分かった時点で絶対に行こうとしないだろうし。それに私もあの公園には近づけない。行ったら、私はきっとそれこそ問答無用で引きずり込まれるだろうし。あーぁ、あの公園、気に入ってたのにな。……ま、いいけど。ちなみに一般の人はきっと大丈夫。一般の人は妖が視えないから。視認してもらえない妖は、そんな一般人に対して手出しはできないのです。何しろ、『いない』者として扱われるからね。それよりも。
「綾人くん、ありがとう」
「え?」
「だって、私を助けてくれたでしょ?」
噴水に飛び込んで私を引っ張り上げてくれた。あのままだと、私はきっと溺れ死んでいたに違いない。生きていることが素晴らしいとは、まさにこのことだ。ついでに言うと綾人くんの好感度がまた上がってしまったよ。かっこいいね、綾人くん。でも、どちらかというと、やっぱり可愛いんだよなぁ。あと、
「それと、綾人くん、ごめんね」
「……何がです?」
「鍵、取ってこれなかった」
「――別にいいです」
「は? でも、おうちに入れないじゃん! 私じゃ、あの妖に太刀打ちできないから、お父さんを呼んで……!」
「落ち着け。……合鍵くらい、持ってる」
「……そう」
それは良かった。うん? 良かったのかな? 持ってるなら、別に噴水に入らなくて良かったんじゃない? 私。
「それで?」
綾人くんが、躊躇うように続けた。
「何で、オレを助けた?」
助けたって、何のこと? と思いかけて、あぁ、と理解した。あの女の子が最後に綾人くんを水の中へと引きずり込もうとしたのを私が狐火で退けたことを言っているんだろうね。
「何でって……」
この子は、いきなり何を言い出すんだろうか?
「そりゃ、助けるでしょ」
助けたいから、助けた。ただ、それだけだよ。
助けたいから助けただけで、他に何か理由がいるのかな? 例えば、目の前で誰かが困っていたりしたら、私は絶対に助ける。ただ、それだけ。あぁ、でも、綾人くんなら話は別、かな? だって。
「綾人くんのこと――その、好きだから」
堂々と「好き」宣言してみた。綾人くんが好き。だから、助けた。っていうのも、ある。
これでも恥ずかしい思いをして「好き」と言ったのに、綾人くんは何も返してこない。何かおかしなことをいったかな?
「何で、オレのこと、好きなの?」
え、そこまで訊くの? 綾人くん、今日はズバズバとくるね。それなら、私だって恥ずかしいついでに答えて見せようじゃないか!
「優しいところ、かな?」
綾人くんはとても意地悪だ。人に対して「召使い」として任命したり、毒を吐いたり、いじめたりする。でも、噴水で妖に引きずり込まれた私を、身を挺してまで助けてくれた。綾人くんはもしかしたら不器用なのかもしれない。優しさを持ちながら、それを素直にできない部分がある。
「琴音先輩」
綾人くんに呼ばれて、私はのんきに「何?」と首を傾げた。
でも、
「もう二度と、オレに近づくな」
――え?
え? え? えぇ!?
え、何で!?
いきなりの絶交発言に、私はひたすらに驚くばかりだった。いや、驚いている場合じゃないでしょ!
「え、何で、いきなり何で!?」
私は縋りつくように綾人くんに近寄る。でも、綾人くんはそんな私を振り払った。
「言ったはずだ。オレに二度と近寄るなって」
そう言って、綾人くんは冷たく私から距離を取る。その表情もどこか暗くて、とても冷たかった。私は彼に手を伸ばすけれど、綾人くんは私に振り返ることはなかった。