スラムの夜に
彼との出会いは雨の降るスラム街のゴミ溜めだった。あたしはそこで遅めの夕食を摂っていたの。
背後に人の気配を感じて振り返ると、そこに彼が立っていたわ。
顔は逆光で見えなかったけど、車のヘッドライトが浮かび上がらせるシルエットがとてもセクシーだったのを憶えてる。
警戒しなかったのかって? もちろんしたわ。でも彼、とても、穏やかそうな雰囲気だったし、それにあたし、昔から身の軽さには自信があるの。その気になれば簡単に逃げられる。
すると彼、手に持ってた傘をあたしに差し出して、
「お前、名前は?」
っていったの。
あたしは黙ったまま彼の目を見つめてた。
名前なんてなかったし、答える術もなかったしね。
そうやって黙ってると、彼、あたしのことを抱き上げて、
「寝床と飯をくれてやる。ついでに名前もな」
っていったの。
それからね。あたしと彼の奇妙な同棲生活が始まったのは。
彼はあたしのことをまるで束縛しなかった。まあ束縛されて素直に従うあたしじゃあないけど、それでもふらりと出かけてふらりと帰るあたしに対して、彼は文句一つ口にしなかったわ。
もちろんあたしだって彼のすることに口出ししたことなんてない。どんな女と寝ようと、どうぞお好きにってね。
そのくせ彼、たまにあたしが甘えた声で擦り寄っていくと、他の女には見せたことない笑顔をあたしに見せてくれたわ。まあ、可愛いところもあった。
彼が普通の人間じゃないことはすぐに気付いたわ。
電話が鳴るといつもの穏やかな笑顔が妙に殺気立った顔つきになって、電話を切ると黙って出かけるの。
そうしてしばらくして帰ってくると、彼の身体からはいつも変な匂いがしてた。香水? そんなじゃない。それにときおり服を真っ赤に染めて帰ってくる時もあったわ。
そうやって帰ってくると決まってソファに腰を下ろして、
「いつまでこんなことを……」
っていって頭を抱えてた。
あたし? あたしは黙ったまま寄り添うことしかできなかった。
そんなことが3年程続いたある日、いつものように電話が鳴って彼が出ていった。
またあの嫌な匂いをさせて帰ってくるんだろう、ソファに座って、頭を抱えて嘆くんだろうって思ってた。
でも……彼は戻ってこなかったわ。
3日が過ぎ、4日が過ぎ、1週間が過ぎた頃、見たことのない男たちが部屋に来たの。
その男たちの口ぶりから、彼が死んだことを知ったわ。
なにもされなかったのかって? 彼らはあたしに興味がなかったみたい。
とにかく、彼が死んだ以上、あたしがあの部屋にいる理由はない。その日のうちに出ていったわ。もう10年も前の話よ。
あたしの名前? 忘れたわ。呼んでくれる人がいないのに覚えてたって意味がないもの。
あら? 誰かこっちに来るみたい。
「こら、ノラ猫ども。ゴミを散らかすんじゃねえ! しっ、しっ!」
――スラムの夜は更けていく。