止まっていた時計
よろしくお願いします。
銀色の鎖につながったそれはもう動かなくなっていた。
いつ壊れてしまったのだろう。戸棚のなかにしまわれていたそれを取り上げて、わたしの目の前に揺らした。反射した光が部屋をちらちらと照らしていた。
表面はくすんでいた。けれどあのときのままの重さをもっていた。
「修理できるのかな」
何の気なしに君に訊ねた。ふたを開けるとローマ数字の文字盤が相変わらずそこにあった。
それが今朝のことだった。
時計の修理とは、どこですればよいのだろう。そんなことをしたことがないから、わたしはまどった。
デパートもあらかた見たけれど、みなデジタルの時計を扱っていて、アナログな、こんなぜんまいのものなど修理できないと断られてしまった。
もう一度竜頭をねじって確かめる。君とわたしは耳を近づけ、なかではからからとから回る音がするだけで、針は全く動かなかった。
そういえばと思い出して、わたしは、表通りから離れた通りに足を向けた。
確かそこには職人と呼ばれる人々がいたはずだった。行けば時計技師の人もいるかもしれない。
少し早い昼食を喫茶店で味わっている婦人を横目に、わたしたちはは自ずと足を早めていた。
真昼だというのに、通りは薄暗かった。シャッターを下ろした店々が脇をずらりと埋める。人の気配はなかった。
どこかで猫が鳴く。
数十メートルほど進んだ頃だろうか、一軒だけ開いている店があった。
「珍しい」
思わずそうもらすと、その店を覗きこんだ。
ショーウィンドーには時計が並んでいた。木目が美しい柱時計や白い小屋をモチーフにした時計が、古ぼけたガラスの向こうに見えた。
そして看板にはっきりと見えないが「時計」という文字をわたしの目は捉えた。
ここならば修理をしてくれるかもしれない。
にわかに期待がわたしの心を包んだ。
茶色いすすけたドアを押してわたしたちはなかに進んだ。手にほこりがまとわりついて不愉快だった。
店のなかはほの暗い。明かりはついているけれど、周りに光の輪を作っているだけで全体を照らすわけではなかった。
なかに一人で椅子に座る人がいた。
「あの」
声を掛ける。店主らしき方はわたしをゆったりと見やると、静かに「なんですか」と云った。
時計を修理してもらいたい旨を伝え、テーブルに時計をゆっくりと置いた。
ご老人はそれを取り上げて、ふたを開けた。薄橙色のライトをあびて、時計はその色を変えていた。
「修理、できますか」
なかなか答えない彼にわたしは催促した。しかし彼が返事をするのはさらに数分後のことだった。
「できないね」
予想外の答えではなかったが、やはりがっかりした。
こんな専門店でも不可能なら、もう修理できる期待は限りなく少ない。この時計は一生動かないのか。
「君がこの時計をほうっておいたからだよ、ずっと、長いあいだ」
そう彼は云った。確かにずっと放置してきたし、見つけたのは今日の朝だ。けれどそれと故障の関係はなんだろう。ああ、歯車が錆びついてしまったのだろうか。
「これはどこで?」
「祖父にもらったんです」
わたしのことをかわいがってくれた。祖父からうけとったとき、それはずしりとわたしの手に重かった。
「それはいつのことだい?」
「かなり前のことです。多分祖父が亡くなる前だから七年くらい前」
それからずっと引き出しに入れてあった。もらったことさえも今まで忘れていた。
どうして忘れていたのだろう。
「君の意識のそとにあったから、この時計は止まってしまった」
短く言葉にならない息がもれただけだった。考えようとするがよく飲み込めない。
「君が時計をもらって、しまいこんだそのときに時計は止まったんだ」
時計と云うものは、ぼくたちの身の回りのもののなかできわめて特殊なものなんだ。人に見られることで、人に知られることで初めて意味をなす。
それは時計が人に使われることを目的としていないから。人に知らせることを目的にしているから。
だから止まってしまった。
君がそれを見なくなってしまったから、それは本分を失った。
壊れたものはもう動かないけれど、止まったものはまた動かせる。
銀の時計をもって、わたしたちは店を出た。時計技師さんに油をさしてもらって。
竜頭を回す。きりきりとぜんまいが巻かれる。
文字盤を見る。黒い数字の上を、針がせわしなくなぞっていく。
壊れたのではなく、止まっただけ。
修理したのではなく、手入れをしただけ。
忘れたのではなく、思い出したくなかっただけ、祖父の死を。
ただそれだけだった。
時間はあまり変わっていないようだ。太陽が真上を照らしている。
時計は午後一時をさしていた。
「ごめんね、つきあわせちゃって」
隣にいるはずの君に話し掛けた。
しかしそこにはもう君の姿はなかった。
みなさまに、忘れているものはありますか?