§ 酒
『きゃっち』といっていいか迷ったのだが。
出張先。俺が座長を務める大切な会議中に、その電話は鳴った。
着信は自宅から。
まあ、俺は常にマナーモードなので問題はないのだが、喋っている途中にヴンヴン唸られると、どうも気が散ってしまう。
妻は、いくら言っても仕事中に電話してくるのを止めないのだが、今度こそは少し厳しく叱らねばと思い、会議終了してから折り返し電話すると、電話に出たのは息子だった。
「あーパパ?」
「おう。電話してきたの、おまえか?」
「うん。あのな。酒、噴いたで」
「酒って……しまった」
頭に上っていた血が、急激に下がっていく。
『酒』とは、俺がこっそり作っていた、自作の果実酒のことであった。
果実酒といっても、果実を焼酎に漬け込むアレではない。酵母を使って発酵させた酒だ。
出かける前にガス抜きしておくのを忘れてしまい、まずいかな、と思ってはいたのだ。
『酒』と呼べるようなものは、実はごく簡単に作れる。
糖を酵母が分解する時に発生するのがアルコールであるから、それこそジュースだろうが蜂蜜だろうが汁粉だろうが、すぐに酒になる。
酒の密造など、違法ではないかと思われるかも知れない。むろん、酒を造ること自体は違法なのだが、アルコール分が1パーセント未満であれば、対象外となる。
それを自分で楽しむ分には、法には触れないのだ。
ビールやワイン制作キットなどが販売されているが、それもこの抜け道を使ったものであるらしい。
1パーセントがどのくらいか、など正直俺は知りもしないが、暖かい時期にはすぐ発酵する。だから酵母を投入して一日かそこらで飲んでしまうのだが、ペットボトル一本飲んでも大して酔わないから、まあ、大丈夫だろうなと思っている。
酒というよりも、生きた酵母と発生する酵素を飲む、健康飲料みたいな感覚だ。
むろん、何週間も地道に発酵させて甘味が失せるほどになれば、度数は違法レベルとなろうが、そんなことはやっていないし、オススメもしないのであしからず。
だが、発酵を楽しむために酵母を使うのは、ぜひともオススメしたい遊びの一つだ。
これまで、様々なものを発酵させてきた。
リンゴ、梅、キウイ、庭で採れたサルナシ、フユイチゴなどをジュースにしたり、砂糖でエキスを抽出したシロップにしたりして使うのだ。
注意しておきたいのは、穀類やブドウ類(ヤマブドウを含む)、香料や色素を含んだものを発酵させたりしたら違法となるから、甘酒やブドウを材料に使ったり、市販のジュースを発酵させてはいけない。
絞ったジュースはそのまま、シロップは適度な甘さに薄めてからドライイーストを加える。
アルコールと同時に二酸化炭素も発生して、シュワシュワと泡立ってくるから、炭酸飲料用のペットボトルで作れば、天然のサワーができる。
その時作っていたのは、前日に梅シロップを水で数倍に薄め、ドライイーストを投入したものであった。つまり、帰宅したら梅サワーが出来ている予定だったのが、出張が入っていたことをすっかり忘れていたため、二晩置くことになってしまったというわけだ。
これまでにも、たまにそういうことがあって、ボトルが膨らんでいたりした。だから暖かい時期に二日以上置くと、かなり危険なことは分かっていた。
一度家に寄ってガス抜きをするつもりだったのだが、すっかり忘れて出張へ。
しかもこの容器、何度も何度も使用したペットボトルであった。
首のあたりに、不思議な縦線が出来はじめていたのだが、これがどうもヒビが入っていた、ということらしく、酒はそこから漏れ始めたらしい。
妙な臭いに気付いたのは食事の最中。溢れている酒に気付いて、家族は焦った。息子は止めたらしいが、妻は聞かずに慌ててフタを開けたらしい。
梅味の噴水は、天井まで届いたというから、相当の圧力だったのだろう。
だいたい、サワーとして飲む場合も、俺はしばらく冷凍庫で冷やして二酸化炭素を溶け込ませ、圧力を落ち着かせてからフタを開けているのだ。
暑い日であった。酵母も元気に糖を分解していたはずだ。
妻は電話では口をきいてくれず、帰宅した俺に、密造酒禁止令が下った。
やむを得ないこととは思ったが、楽しみがまた一つ減ったことに、俺は肩を落とした。
それが昨年の夏の出来事。
そろそろほとぼりが冷めた雰囲気を察知して、年明け、俺は炭酸飲料のペットボトルを入手した。
そして、たとえ噴いても安全な場所を探し出し、そこを発酵場所と決めた。
なにしろ、昨年作った梅シロップがまだ残っているのだ。それを普通に水割りやお湯割り、焼酎割りで飲むなど耐えられることではない。
味わい、栄養、楽しさ、どれをとっても段違いなのだから。
それに、酒造りを止めてから不思議に太りだしたし、お腹の調子も悪い。やはり発酵食品は偉大なのだ。生酵母バンザイ。
昨夜仕込んだ梅シロップは、暖房のおかげか既に泡を吹いていた。それでも寒い時期だから、二、三日で飲めるレベルになるだろう。
あとは、いかに妻に見つからないように、自然に飲むかだ。