雨
激しい雨の夜のことである。
バー・ウキシマのオーナーである邦子は、
グラスを拭いている時ドア・ベルの音を聞いた。
だが、次に聞こえるべき人の声が聞こえてこない。
首を回して入り口を見ると、
そこには髪から雫を滴らせ、全身びしょ濡れの娘が立っていた。
娘は熱っぽいまなざしで
「ここで…働かせてください」
と半ば怯えたような目でこちらを見たぎり、
じっと黙って動かなかった。
邦子は相手を見定めるつもりでわざとだんまりを決め込む。
「働かせてください」
もう一度、娘ははっきりとした口調で言った。
「…こんな晩に追い返すのも気が引けるわ。
ちょっとこちらにおいでなさいな」
邦子は拭いていたグラスを置いてから、
今度は体ごと娘のほうに向けた。
娘はまだ遠慮して椅子から少し離れたところに立っていたが、
「貴方の一挙一動なんかで追い返しゃしないわ。
本当に雇うかどうかは後で相談に乗るとして、
今は私のこと、お母さんとでも思ってくれればい」
と、邦子は穏やかに笑った。
語尾が消え消えになるのは、バー・ママの生活の悲しさであろうか。
それとも女の一生の悲しさであろうか。
邦子はカウンターの外に出て、
手ぬぐいで少女の髪や体を丁寧にぬぐってやった。
邦子は藤色の着物に黒の帯をぎゅっと締めていかにもバー・ママらしく、
また全体的に華奢であったが、
どこか母親のような雰囲気が感ぜられるタイプであった。
少女は少し涙が出た。
それは安堵の涙でもあり、
優しさへの涙でもあったであろう。
少女を席に座らせると、
「何にする?
ああ、でもあなたの雰囲気だと…
お酒は辞めたほうがいいかしら?」
「…はい」
「そう緊張しないで」
「わァ…わたし、んと…」
「貴方もしかして…、
苦労してきたのね?」
邦子の瞳は確信を持って細められる。
「聞きはしないわ。
難儀な時代さ…」
その時再びドアが、今度は激しい勢いで開いた。