国宝
ひとりぼっちの家に帰って俺は、スマホを開き、延々とSNSや風俗掲示板を往復しつづけていた。
今度は何を書き込んでやろうかと、文章やストーリーを考えていると、「で、俺は一体何がしたいんだ?」という自問が浮かんできた。イマイチ腑に落ちなかった。自分の感情が、どこを向いているのか、さっぱりわからない。
なので、いったん恋愛工学的に整理してみることにした。
ちえりともう一度やり直したいのだろうか?
答えは「ノー」だった。ちえりに対する恋愛感情は完全になくなっている。
では、ちえりとエロいことがしたいのか?
確かにできるに越したことはないが、それが目的というわけではない。だって、俺がネットで変な書き込みを続けたところで、ちえりとのセックスに近づくどころか、むしろ遠ざかる一方じゃないか。
つまり俺は、ちえりとの関係の回復とか、性欲の処理とか、そういう直接的なメリットのためにネットで書き込んでいる訳ではなかった。
じゃあ、なぜ? 傷つけられたことへの復讐? 腹いせ? そうだとしたら、最終的にどうなって欲しいのだろうか。
ちえりが書き込みに気づいて、「あのときはごめんね」とか言ってくれるのを期待しているのだろうか?
いや違う。もっと、ずっとひどいことを、俺は願っていた。
「死ねばいいのに」
家庭すらも顧みずに全身全霊を捧げてちえりの幸せを願い振る舞ってきたにもかかわらず、松茂良と二股し続けて俺を苦しめ、捨てた挙句、お店を通して正規の料金を払ったというのに、エロいことも一切してくれない。
一万六千五百円も払ったのに指一本触れさせてもらえなかった!
俺は、死んで欲しいほどちえりを憎んでいたのだった。
あれほど好きだった、彼女のためならなんでもしてあげられるとまで思っていた相手を、今では死んでもらいたいと願っているという事実に、自分の醜さに、少なからずショックを受けた。
中年男性が歳の離れた若い女性との色恋を拗らせて凶行に至った過去の事件が、いくつも脳裏をよぎった。
西新宿タワマン刺殺事件の和久井学、新橋ガールズバー殺害事件の千明博行、俺はニュースで見た犯人たちと同じ穴のムジナだったのか。
それは断じて違う。俺は理性のある大人だ。衝動的に、突発的に行動するような愚かな人間ではない。俺は松茂良とは違う。感情を暴力や脅しという言語以前の手段でしか表現できないような、単純な動物ではない。
そこでふと、今、松茂良の中にも、同じような憎しみが湧いているのではないかと気づいた。ちえりの一途な愛を信じていた分、裏切られた彼の怒りは、きっと深いはずだ。その怒りに少しの焚きつけが加われば、ちえりを破滅に追いやることだって不可能じゃない。天願マングーズの元副総長で逮捕歴五回という松茂良の性格と感情を利用した完全犯罪だ。
俺は、松茂良にちえりへの憎しみを増幅させるため、事実を歪めた私小説を執筆し、風俗掲示板にある『ラブTHEはんど 町田店』のスレッドで連載をスタートさせた。
* * *
投稿日:2024年5月9日01:08:11
『ラブデスペレーション〜ワキガの彼女(この私小説のタイトル)』第一話
其れはまだ、私が「恋」と云う愚かで貴きものを手放す前の時分であった。
夏のとあるゆうべ、小田急線町田駅東口の雑踏を歩いて居る折、私はふと雑居ビルの階段のかげから、甘く熟れた南果の腐りはじめの匂ひがこぼれて居るのに気がついた。それは女の腋の匂ひで、私に取っては貴き果実の香気であった。腋の奥に巣くふ酸味と、汗に綯ひ交ぜられた鉄のような生臭さと、女の下腹に沈む湿った熱気とが、豪雨の後の熱帯雨林がむせ返るやうに生ゝしく立ちのぼり、私の鼻腔を蹂躙した。この匂ひこそは、やがて私の理性を喰ひ荒らし、妻子ある身を忘れさせ、家庭という骸を踏みしだいて進む匂ひであった。そして私は、その匂ひを確かめるためだけに、階段をのぼり、此の店の扉を押したのである。
彼女は桜(仮名)と云う若い手コキ師の腕きゝであった。その掌は柔らかく、しかして力強かった。握られるたび、疼きが脳まで走り、理性は溶け出していった。
私の俄然の宿願は、光輝ある桜の肌を得て、それへ己の魂を浸し、全身を委ねる事となった。桜の腋の匂いに顔を埋め、下腹の柔らかさを舌で確かめ、彼女の存在そのものに全身を浸す。それこそが、私にとっての至高の悦楽であった。理性の枷を振りほどき、桜の前では己の欲望を隠さずに曝すことを夢見た。忽然と芽ぐむ恋慕の果てに、ついにこの手で彼女を得る日を、私は心の奥底で固く誓ったのである。
店の中での接触は、ほんの序曲に過ぎなかった。私たちは、誰の眼も届かぬ非常階段の影や、閉ざされた公園の東屋の下で密やかに逢瀬を重ねた。肌が触れるたびに、快楽と禁忌が混ざり合い、私は身を震わせる。
だが、私には帰るべき家庭があった。妻も子もいる。理性はそれを必死に引き止めるが、桜の瞳の奥にある狂おしい決意に触れると、抗うことは不可能だった。
「ねえ、ちょっと面白いもの見せてあげる。ずっと見せたくてウズウズしてたんだ」
と、桜は細い指で暗いスマートフォンを操作した後、LINEを二通とり出し、先ず其の一つを私の前に繰り展げた。
それは、此の店のスタッフである松茂良の上に跨る己れの姿を写した動畫であった。桜は松茂良の胸へ快楽にくずおれるやうに身を垂れ、腰を上下に揺らすたび、吐息は甘く千切れた。
私は暫くその奇怪な動畫を見つめて居たが、知らず識らず胸の底はざわめき、呼吸はかすかに震へた。
「苦しいでしょう? 私の体を松茂良が抱きしめて居るのだから」
桜は快よげに微笑みながら、私の顔を覗きこんだ。
「やめろ……なんで、なんであの男と……!」
と、私は青ざめた息をこぼしながら訊ねた。桜は、更に他の一通の畫面を展げた。
それは「精液」と云う題の動畫であった。白いシーツに身を投げ、脚を少しばかり投げだした桜の足許には、雨後の土のやうに濃く滲んだ精液と汗の痕が残って居た。松茂良は肩で荒く息をし、桜の横に崩れ落ちている。笑ひ声を漏らす桜の瞳の奥には、男を昇天させた者だけが持つ、抑へ難き誇りと、なお余りある歓喜の影が妖しく明滅して居た。
桜は楽しげに私へ言った。
「ねえ、言っとくけどさ、これ全部、あんたを本気にさせるためにやったんだよ。松茂良なんて可哀想なくらい単純でさ。ちょっと甘いこと言えばすぐ本気になって。マジウケる。あんたへの当てつけに使われてるだけなのにね。松茂良の息、荒すぎでしょ」
こう云って、桜は畫面の男を指さした。
「やめてくれ……頼むから、それ以上見せないでくれ……!」
と、私は誘惑を避けるが如く、スマホを伏せてテーブルへ突俯したが、やがて再び唇をわなゝかした。
桜は肩をすくめ、少し意地悪い笑みを浮かべた。
「もっと見なよ。ほら、まだあるよ。もっとすごいの、見る?」
然し私の頭は容易に上らなかった。掌で顔を蔽うていつまでも突俯したまゝ、
「帰してくれ……!お前の側に居るのはもう恐ろしい……!」
と、幾度も繰り返した。桜は静かに息をつき、私の肩へ手を置きながら言った。
「まあ落ち着きなよ。大丈夫。私がさ、あんたをもっとどうしようもない場所まで、ちゃんと連れてってあげるから」
こう云って桜はLINEを私に転送した。
* * *
投稿ボタンを押した瞬間、俺は確信を持っていた。この第一話が風俗掲示板に一石を投じて議論を巻き起こし、松茂良の目に留まることで、奴の凶暴な本性を呼び覚ますはずだと。この私小説は、松茂良のどす黒い嫉妬心に火をつけ、ちえりへの殺意へと変換させるための、完璧な導火線なのだ。
興奮と暗い期待で冴え渡る頭の中に、ちえりと松茂良の姿が浮かぶ。
誰も知らないちえりの秘密を独占し、その背徳的な優越感を一人で愉しんでいるであろう松茂良。そして、そんな男に染められ、堕ちていくちえり。
その光景は、AVのADをやっていた頃のある記憶と重なった。
清楚系AV女優として人気のあった雪乃のことだ。彼女はAVを引退した後、すぐに結婚して主婦となった。しかし、DVを受けて離婚し、他に仕事も見つからず、背中一面に筋彫り段階の和彫りを入れた状態で業界に戻ってきた。元清楚系の復帰作に和彫りだなんて、マニアック過ぎて売れる訳がない。当然、裏事情はすべて隠され、刺青が映り込まないよう細心の注意を払って撮影は行われた。しかし、背面騎乗位の体位になると、カメラには映らないからと、男優が彼女の背中の刺青を指先でゆっくりと撫でていた。「俺は知ってるんだよ、お前の裏側を」と確かめるように、傷物に触れることで興奮しているような手つきだった。 あの時の男優の指先は、まさしく松茂良そのものだ。
そして雪乃に、俺はどうしてもちえりを重ねてしまう。彼女が引退しても結局AVに戻ってくるしかなかったように、ちえりもきっと性風俗から離れることはできないだろう。さらに、松茂良という男によって、心にも体にも消えない刺青を刻まれ、穢されていくのだ。
だとしたら、いっそ今すぐに、松茂良の手によって殺されてしまえばいい。
高揚感に包まれながら、俺はスマホで掲示板をリロードした。
《こないだ礼儀正しい子いて次は指名したいなと思った》
《裏オプやってる子いない?》
《挿入サービスしてもらった事あるけどバレた事ないよ》
相変わらず下世話な話題で盛り上がってはいたが、俺の私小説は完全に無視され、何の反応も起きていなかった。
よく考えれば、それもそのはずだった。こんな掲示板に書き込みをするのは民度の低い連中に決まっている訳で、そんな奴らに高尚な純文学が理解できるわけがない。そこに気づかない俺が馬鹿だった。
俺は、奴らの知能レベルまで落とした文体に変えて、小説を書き直した。
* * *
投稿日:2024年5月9日04:16:38
『ラブデスペレーション〜ワキガの彼女』第二話
あの頃ね、僕、四十手前ぐらいやったんですよ。
ほんでまぁ、家庭もあって子どももおって。けどね、気づいたら「ラブTHEはんど」っていう、町田のオナクラに通ってたんですよ。
いやほんま、我ながら何やってんねんて話やけど。
あの店ね、入り口からして独特なんですよ。ネオンがチカチカしてて、看板のド真ん中「THEは」の部分が消えてんねん。「ラブんど」。いや、雑ぅ!って。
で、入るとカウンターのとこにおるんが松茂良。この男がまたヤバい。胸に「DolbyAtmos」って書いた黒T着てて、眉毛がほぼ存在してへんのよ。沖縄出身らしいんやけど、シーサーの兄貴分みたいな顔してる。
「おう兄さん、また来たん?」
って。いや、常連扱いすなや。
で、そこで出会ったんが、そうやな、本当の源氏名出すのもアレやから、仮に桜ってしとこうか。桜と出会ったんよ。ちっちゃくて、笑ったら世界ちょっとマシに見えるタイプの子。
ほんで、まぁ……ちょっと言いにくいけど、ワキがね、めちゃくちゃ臭いんですよ。
いや、悪口ちゃうで。むしろ逆やねん。それがクセになんねん。
最初は「うわっ」て思うけど、だんだん気づくんよ。この匂いは、彼女がこれまで歩んできた人生そのものなんやって。ほんで「これを受け入れるのが俺の人生なんや」ってなるんよ。
ほんまに、匂いって恐ろしいね。精神直撃やもん。
で、そんな関係続けてたら、当然バレるわけですよ。妻には、ね。
でも僕もバカやから、「これは運命なんや!」とか思ってまう。
桜に「離婚してほしい。一緒になりたいから」って言われて、もう頭の中、全部スローモーション。
「おまえしか見えへん」
って、ほんまに言ったもん。ドラマでしか聞かんやん。そんなセリフ。
……そしたらな。彼女、急に松茂良と寝だしたんですよ。
いやマジで、なんで自分の店のスタッフと? って思ったけど、彼女曰く、
「あなたを本気にさせたかった」
いや、どういう手段やねん。もっと他にやり方あるやろ。
でも泣きながら言うんや。
「怖かった」
「でも耐えた」
って。
それ聞いて、俺、ほんまに離婚してもうたんですよ。
いま思えば、人生で一番アホな瞬間やったかもしれん。
* * *
文学的な香りを消し、下世話なペルソナに合わせた途端、反応は劇的に変わった。高尚な文章には見向きもしなかった連中が、腐臭を嗅ぎつけたハエのように一斉に群がってきたのだ。
《何がいいたいのか全くわからん》
《腋が馬鹿臭いということだけはわかった》
《ジジイのただの妄想だろ》
《パワフルな体臭の子いるよね》
《一回耐えきれないくらい臭いランカーがいたサービスはよかったが》
《スメルズ・ライク・チェリー》
《特定できるようなことを書いたら誹謗中傷になりかねないしもしここ見てたら傷つくかもしれない》
《こういう投稿するバカは放っておくのが一番。反応しないほうがいい》
罵詈雑言すらも好都合だった。有象無象が騒げば騒ぐほどスレッドは勢いを増し、多くの人の目に留まる。
この投稿が、松茂良本人に読まれさえすれば、それでよかった。
私小説の連載を開始して一週間が経った頃、仕事でちょっとしたトラブルが発生した。とある企業のプロモーション動画に出演していた俳優が大麻所持で逮捕されたのだ。動画は即日公開停止となり、俺はクライアントへの謝罪や今後の対応に追われることになった。
もちろん、制作会社である俺たちに直接の非があるわけではない。しかし、キャスティングに関わっている手前、意気消沈したクライアントからは「候補に挙げる前に、素行調査とかできなかったの?」といった無茶な責められ方をした。
理不尽さに腹が立ったが、ただ頭を下げるしかなかった。
深夜にようやく帰宅して一息ついてから、執筆活動に取り掛かる。
仕事中から、大麻の話を入れてやろうと決めていた。
松茂良はただの粗暴な男ではない。大麻を嗜む、社会のルールから逸脱した人間だ。
暴力沙汰で逮捕歴があるだけでなく、違法薬物にも手を出しているとなれば、奴の人間性への疑いは決定的なものになる。この一点を強調して書けば、松茂良をさらに精神的に追い込めるに違いない。
俺はほくそ笑み、スマホを取り出して風俗掲示板を開いた。
* * *
投稿日:2024年5月16日01:48:07
『ラブデスペレーション〜ワキガの彼女』第八話
汚れちまったその胸に、今日も涙が降りかかる。
汚れちまった太腿を、今日も優しく愛撫する。
噛まれた桜の柔肌は、やがて深紅の痣を生み、
大麻の匂いを解き放つ。
なぎゆら そとそと あいだよ
その奇妙な音号は、ふたりの夜を縫い合わせ、
意味をこぼし、それでも確かな返事となった。
なぎゆら そとそと あいだよ
囁いた指先で彼女は松茂良の腕のタトゥーをなぞり、
陰茎に埋まった真珠を舌で転がし、
私はまだ、家庭という影にしがみついていた。
汚れきった私の迷いに夜の匂いが降りしきる。
汚れきった誓いの上に焦げたような甘い息が立ちのぼる。
大麻である、大麻である、大麻である。
松茂良の部屋の窓から大麻の煙は夜道にゆらぎ、
私の胸の奥の、いちばん柔らかい場所へ染み込んでいった。
なぎゆら そとそと あいだよ
もう私の手には戻らない。
大麻である、大麻である、大麻である。
きっと桜も松茂良に薦められ、
キメセクしているに違いない。
* * *
「大麻」というワードを入れた効果なのか、それとも続けてきた連載がようやく浸透してきたのか、今までで最もスレッドは荒れた。
該当するキャストが誰だとか、スタッフは若いあいつに違いないだとか、様々な憶測が飛び交った。中には店への不信感を募らせる者もいたし、信憑性の薄い書き込みに惑わされるなと声高に叫ぶ者も現れた。
しかし、現実には何の変化ももたらさなかった。
俺のスマホには、ちえりの出勤を知らせる通知が、相変わらず週三、四回の頻度で届いた。
おかしい。あの男は気に食わないことは暴力で解決させる逮捕歴五回の単細胞だ。俺の私小説が引き金となって、必ずちえりに手を上げるはずなのに。焚き付けが足りなかったのかもしれない。
もっともっと、松茂良を刺激する必要があった。
投稿日:2024年5月22日09:36:11
『ラブデスペレーション〜ワキガの彼女』第十四話
「松茂良さんのセックスってほんとに解釈が違いすぎてる。気持ちいいとかそういう次元の話じゃなくて、シンプルに不快」
と、彼女は言った。
投稿日:2024年5月22日13:00:24131
『ラブデスペレーション〜ワキガの彼女』第十五話
「クンニだけは丁重にお断りした。需要と供給が不一致すぎるから。下手な人のアレって痛いだけでほとんど凶器だし、わたしの身体で経験値稼ぐのはやめてほしい」
と、彼女は言った。
投稿日:2024年5月23日03:02:51
『ラブデスペレーション〜ワキガの彼女』第十六話
「イキって入れてるタトゥーも、シリコンでアプデしたちんちんも、本人はそれでイケてるつもりなんだろうけど。その自己肯定感の出力方法がもう全部ダサい。そんな男と付き合ったという事実が、私にとっての黒歴史」
と、彼女は言った。
私小説としてのクオリティはまったく保てなくなり、松茂良へのシンプルな悪口をちえりが言っていたというだけの、露骨な嫌がらせになった。
しかし、いつまで経っても、定期的にちえりの出勤通知は届き続けた。
俺はもう、風俗サイトからの通知設定を止めた。
風俗掲示板での連載も終了してしまった俺は、仕事以外に何もすることがなくなった。
仕事を終えて誰もいない部屋に帰り、寂しさを紛らわす為にテレビをつけると、「まんこの神様〜!」という素っ頓狂なタイトルコールが飛び込んできた。
何事かと画面に釘付けになったが、正しくは『漫コンの神様』というただのネタ番組だった。
なんのことはない、漫才とコントで「漫コン」だった。
若手芸人たちが次々にネタを披露していき、ひと組終わるたびに五名のパネラーが手元のボタンで点を入れる。その合計得点によってスタジオ内のバカデカいモニターに「小神笑い」「中神笑い」「大神笑い」と表示されるという、どこかで見たことのある番組の焼き直しだった。
「大人ディスりの反逆ハイスクールガールズ! ハッピーラッキーキャンディー!」
登場したのは、真衣莉と相方の女子高生だった。
芸人としての人気なんてどうせ一過性のものだろうと思っていたが、着実に実績を積み上げた二人は高校生になった今でも番組に呼ばれていたのだ。
久しぶりに見るその姿は、やけに大人びて見えた。
「カッコ悪い大人にはなりたくない!」
下手に立つ真衣莉が力強く叫んでポーズを決める。
「絶対になりたくない!」
相方も同じくポーズをとると、二人の姿はシンメトリーになった。
「不倫がバレても、白を切る! 仕事をサボって、エッチする! カッコ悪い! カッコ悪い!」
小気味よいリズムに合わせて言い終えると、変顔をして停止した。
別に面白いことを言っているわけでもないのに、可愛い見た目の女子高生が大人を下ネタで皮肉るというギャップと、クセになるリズムによって笑いが起きた。
相方が続ける。
「自分のことは、棚に上げ! 他人を責めて、オナってる! カッコ悪い! カッコ悪い!」
なんだこのネタは。真衣莉たちが自分で作ったのか、それとも番組の構成作家がネタを書いて、ディレクターが演出しているのだろうか。
最後に二人で声を合わせ、
「誰も信じてねぇからな!」
と叫んでネタが終わると、パネラーのタレントたちが手を叩いて大爆笑する姿が映し出された。
モニターには「天照大神笑い」と表示され、雅楽が流れ出す。ステージ背後の神殿の書き割りが開くと眩しい光が溢れ出し、ハッピーラッキーキャンディーの二人に後光が差した。
パネラー全員が満点を押したときだけ現れる演出らしい。
その夜、彼女たちは、最も番組を沸かせた芸人に送られる称号「漫コンの神様」を与えられ、二人のさらなる活躍を予感させる雰囲気を残しながら番組は終わった。
テレビを消した部屋は、途端に静かになった。
あのネタが、果たして俺を揶揄したものだったのか、あるいは単なるダメな大人のカリカチュアに過ぎなかったのかは定かではない。自意識過剰な俺の思い過ごしであってほしいと、心のどこかで願っている自分もいる。
だが、真実がどちらであれ、今の彼女の輝きの前では些末なことだった。
画面の向こうで喝采を浴びていた娘は、俺のことなどもう二度と思い出すこともないような、遥か遠く眩しい場所へと行ってしまったのだ。
寂しいが、仕方がない。俺がいなくても、真衣莉はきっとうまくやっていけるだろう。
ちえりの出勤通知を止めてから、どれだけの月日が経ったか覚えていない。
数ヶ月くらいかもしれないし、もしかしたら、何年も経っていたような気もする。
小田急線新宿駅のホームで、背の低い金髪ボブカットの女の子を見かけた。すぐにちえりを思い出した。
ちえりを彷彿とさせる場面に出くわすのは珍しくなかった。
街の中には、背の低い金髪ボブカットの女の子が案外多くいるもので、しかもそういう子はファッションも大体ちえりに似ていて、ゆったりした黒の半袖シャツに明るいベージュのテーパードスラックスだったりする。
女の子の隣には、引き締まった体つきの男が寄り添うように歩いていた。
「なんだかやけにお似合いの二人だな」
妻子を失った独り身の中年が嫉妬まじりの感想を抱きながら眺めると、楽しそうに笑い合って歩く二人は、ちえりと松茂良、本人たちだった。
松茂良が何か面白いことを言ったのか、ちえりは腹を抱えんばかりに笑って彼の肩を軽く叩いた。甲高くて可愛らしい、懐かしい笑い声が、人混みの中で響く。
ちょうどその時、電車からホームに降りようとした子連れのベビーカーが車両との隙間に引っかかった。
すると、松茂良がごく自然に駆け寄り、ベビーカーを持ち上げてなんなくホームに降ろした。
「ありがとうございます」
という若い母親に対し、松茂良は照れくさそうに少しだけ頭を下げて、ちえりの元へ戻る。
ちえりは、そんな彼を柔らかい目で見つめてから、手を繋いで再び歩き出した。
「松茂良の奴、いまだに優しい男を演じ続けているんだな。相変わらず姑息な奴め」
などと独りごちながら、ちえりと松茂良が仲良くやっていたという現実に呆れ返る。
素行の悪い男が時々見せる優しさは、その意外性によって普通の人の百倍インパクトが出る。いわゆるゲイン効果というやつで、事実、迷惑系YouTuberでさんざん炎上してきた犯罪者がちょっと頑張っている姿を見せるだけで好感度が爆上がりして、市議会議員選挙で上位当選するなんて異常な事態すら起きている。ギャップが人を魅力的に見せる心理効果は計り知れないものなのだ。
俺だって妊婦や老人には当然席を譲るし、なんならこの前も、大阪万博の入場待ちの大行列で炎天下の中赤ちゃんを抱きながら並んでいる女性に、自分の日傘をあげたばかりだ。俺は、親切は趣味だと思っているので見返りなんて求めないが、松茂良は、ちえりへのパフォーマンスとして優しさを見せつけているだけだ。
きっと、ちえりは松茂良と一緒に過ごす中で、たまに垣間見える今の様な瞬間に心惹かれて奴の全てを信じているに違いない。
しかし、どんなに松茂良が善人ぶったところで、過去の悪行は帳消しにはならないし、ちえりを痣だらけにしたのだって紛れも無い事実だ。もしもそれを、付き合いたてのコミュニケーション不足が招いた加減を知らない下手くそなSMプレイの副作用だったと言い訳するのなら、そこまで意思の疎通ができない二人が一緒にいること自体が危険すぎる。
よっぽど俺の方が優しいはずなのに、なんでちえりは松茂良を選んだんだ?
俺がおじさんだから?
妻子持ちだったから?
それとも、もしかして悪人だと思っていた松茂良の正体は、ただ純粋にちえりに惚れていただけの男で、俺の嫉妬と偏見が勝手に一人の人間を悪役に仕立て上げていただけだったとでもいうのか?
ひょっとしたら俺の方こそがちえりを振り回す極悪人だったとでも?
俺は力無く立ち止まり、遠ざかっていく二人を見つめた。
ちえりの左手の薬指が光っているようにも見えたが、それも俺の思い込みによるものかもしれない。
俺はフラフラしながら、二人とは逆方向へ進んだ。
俺が新宿に来たのは、世間で話題になっている映画を見るためだった。
ちえりと別れてから、映画を見る頻度がグッと減っていた。
昔は、映画は一人で観るものだった。それが、ちえりと映画を一緒に映画を観るようになってからは、鑑賞後に感想を言い合うのが当たり前になり、それ以来、一人で映画を観るのがなんだか寂しくなって劇場から遠ざかっていた。
しかし、ネットやテレビやSNSで現在話題沸騰中の、邦画の実写映画としては異例となる大ヒット作がどうしても気になって、久々に映画を観たくなったのだった。
這々の体でどうにかシネコンに辿り着いた時には、三時間の話題作が間も無く始まるところだった。
封切りから半年近く経つというのに、場内はほぼ満席で、一番前の端の席しか残っていなかった。ちえりと映画を見る時も、よく最前列の端の座席を選んだ。大体いつも最前列は空いているので、いかがわしい行為をするのにもってこいだったのだ。
ちえりの太ももを撫で、指を這わせてクリトリスを刺激すると、普段は緊張でなかなかイけない彼女が、暗闇の中ではあっさりと声を殺して絶頂を迎えた。
ちえりのアソコの匂いが場内にぷわんと広がっていくのにも興奮した。
愛欲に溺れていた愚かな記憶が、亡霊のように蘇る。
照明が落ち、暗闇が訪れ、カメラ男がパトランプ男に追いかけ回される珍妙な寸劇映像の後、映画が流れ始めた。
その瞬間、鼻にツンとくる刺激臭を感じた。
玉ねぎ系の酸っぱい香りに若干の甘さが加わった、ちえりと同じ腋の匂いだった。
横を向くと、スクリーンから反射した光に照らされているのは、ただの太った中年のおじさんで、彼が腕を組み直したりする度に、匂いの波が濃度を増してやってくる。
俺が愛し、執着し、そのために全てを失った匂いが、ただただ不快なだけの暴力的な悪臭として俺に襲いかかってくる。
俺は鼻呼吸を完全にストップさせ、スクリーンに意識を集中させる。宴会の席で、綺麗な少年が女方芸を披露している。しかし、完全口呼吸でも匂いが気になって仕方ない。
なぜ、太った中年と、大好きだった女の子の匂いが一緒なのだろう。
映画では、ヤクザ組長だった父親を殺された主人公の少年が、背中にミミズクの刺青を刻まれている。死んだ父親への敬意と、覚悟を込めた刺青だ。主人公の彼女も並んで牡丹の刺青を入れている。
冒頭から惹きつける展開と映像美。それなのに、隣からくる耐え難い臭撃のせいで、映画に没入できない。
非情で過酷な映画の物語と、圧倒的なリアリティを持った臭くて辛い現実を往復しながら、これからの三時間を過ごさなければならない。
しかも、パンツの縫い目が尿道に食い込んで痛いほどチンポジが悪かった。




