別れと別れ
真衣莉と真風彦は仁枝が引き取る形で家に残り、俺が出ていくことになったのだが、すぐに引越し先は決まらず、しばらくは一つ屋根の下で気まずい生活が続いた。
そんな時期だったこともあり、ほんのささやかなことが俺にとっての大きな喜びとなった。
ちえりの誕生日に会えることになったのだ。それだけで、俺は希望を見出していた。
その日、松茂良は仕事なのだという。ちえりと過ごせる。俺が二十七歳の彼女を、誰よりも早く祝ってやれる。
その前夜、撮影の仕事が長引いて、帰宅中のタクシーの中で日付が変わった。スマホを握りしめて、ちえりに電話をかけた。
だが、ちえりは出なかった。
代わりにLINEが来た。
《急に松茂良さんがウチに来ちゃったの》
身体中の血がドッと脳天にのぼって、額の内側がカーッと熱くなる。呼吸がうまくできなくなって、タクシーのシートに背中を沈めながら、しばらくスマホを握ったまま固まっていた。口の中がカラカラに乾いて喉の奥が痛くなり、鼓膜からはジンジンと耳鳴りがする。
次の瞬間には、もうどうしようもなく無力な気持ちが全身を支配していた。
またか。何度目だ? この絶望を味わうのは。
「ちえりが二十七歳になって最初のセックスは俺がする」と決めていた。そのたった一つの希望が、木っ端みじんに砕かれた。
予定していた翌朝十時の待ち合わせにも、ちえりは来なかった。
松茂良は「仕事」と言っていたくせに、ちゃっかり休みを取っていた。誕生日前日の夜にサプライズと称してちえりの部屋に行ったのだ。
俺は待ち合わせ場所に立ち続け、ちえりに何度もLINEを送った。LINEを送るたびに、俺の精神はどんどんまともじゃなくなっていき、そしてついに、ちえりを脅した。
「来てくれなきゃ、松茂良にも店にも全部バラす。ネットの風俗掲示板に書く。『ラブTHEはんど』はスタッフとキャストが平気でヤってるクソみたいな店だって。もちろん、親御さんにも伝えようと思う」
昼過ぎになって、ちえりは疲れた顔でようやく現れた。
「もう鮭人さんのこと、嫌いになりそう」
「そんなこと言うなよ。今日は誕生日なんだから」
新宿のFrancfrancでプレゼントを買った。とにかく喜んで欲しくで、三つも買った。
それからタクシーで池袋に移動して、ちえりの好きなSEVENTEENのスタンプラリーに付き合った。スタンプラリーと言っても、物理的にスタンプを押していくのではなく、デジタルスタンプラリー形式で、池袋のあちこちにスタンプスポットがあり、GPS連動やQRコードの読み取りでスタンプが取得できるというものだった。
池袋の街を歩き回ってスタンプが集まるにつれて、ちえりの機嫌も少しずつ戻っていった。
ちえりが調べて行きたいと言ったローストビーフ丼を食べに行き、店を出る頃には夜になっていた。
俺はホテルに誘った。けれども、ちえりは首を横に振った。
「さっきまで松茂良とセックスしてたくせに、なんで俺とはできないんだよ!」
声を荒げて俺は叫んだ。池袋の雑踏が一瞬で静まり返った気がした。通行人たちの驚愕と軽蔑を含んだ視線が無数に突き刺さるが、そんなもの気にもならなかった。拒絶するちえりの細い腕をへし折る勢いで掴み上げ、なかば引きずるようにして一番近くに見えたホテルの入り口へと押し込んだ。
部屋に入っても頑なに拒否し続けるちえりに喉輪を決めてベッドに押し倒し、そのまま頸動脈を絞めながら、もう一方の手でパンツごとちえりのスラックスを脱がした。
片手では全部脱がすことができずに、首から手を離すと、咳き込みながらちえりが叫んだ。
「痛いからやめてよ!」
「松茂良にはもっと痛いことされてるじゃねえか!」
抵抗するちえりの服を剥ぎ取り、力づくで股を開かせる。丸見えになった股間に顔を押し付けて、一日中歩き回って蒸れたちえりのまんこの匂いを思い切り鼻から吸い込みながら、クンニリングスを行った。
そこからのちえりは無抵抗だった。そして、無反応だった。いつもは声を上げて感じるちえりが、勃起したちんこを挿入しても顔を逸らして黙ったまま、俺のピストン運動の振動でただ揺れているだけだった。
そんな状況でも異常に興奮している自分がいた。ローストビーフ丼を食べる前にさりげなくスーパーカマグラを飲んでいたにもかかわらず、挿入からわずか一分足らずで射精してしまった。
ちえりのまんこから垂れ落ちる精子を見て、俺はようやく我に返り、そこで初めて後悔した。世界で一番愛しているはずの彼女の誕生日に、最低で最悪な行為をしてしまった。
帰り道で、「松茂良と別れてくれ」と頼んだ。
「これ以上は、もう我慢できそうにない」
ちえりはしばらく黙ったまま、駅のホームの柱にもたれながら、深く息を吐いた。そして言った。
「それなら、二人と別れます。松茂良さんとも、鮭人さんとも」
* * *
松茂良さんへ。
こんな形で気持ちを伝えることになってしまい、本当にごめんなさい。
私はとても最低なことをしています。
あなたにも、もう一人の人にも。
そんな自分自身を嫌いになってしまう前に、全部を話させてください。
ラブはんに体験入店した日、松茂良さんは私に名前をつけてくれましたね。
私にぴったりなその名前は、すぐにお気に入りになりました。
ちょっと私を見ただけなのに本質を見抜かれた様で、「この人すごい人だな」って思いました。
でも、その夜、私はお客さんとホテルにいました。
家庭のある人でした。
最初は「この人には家族がいる」「絶対に深入りしない」と思っていたのに、気がつけば毎日連絡を取り合い、離れられなくなっていました。
「いつかは終わる関係なんだ」と自分に言い聞かせて、「ちゃんと彼氏を作って終わらせなきゃ」って思いながらも、「だけど、会えなくなるのは辛い」その繰り返しでした。
そんな中、徐々に松茂良さんと話す機会が増えて、私の中で風向きが変わった気がしました。
松茂良さんと距離が縮まったのは、あまりにも急な出来事でした。
あなたは突然、強引に入り込んできました。
それは正直、怖いことでもありました。
でも、不思議と拒絶することができなかった。
むしろ、それが新しい人生へのきっかけになるんじゃないかって思ってしまったんです。
覚悟を決めて、彼には「もう会えない」と伝えました。
でも、「無理だよ、離れたくない。別れるなんて考えられない」と言われて、私はすぐに戻ってしまいました。
彼の寂しさに負けて、自分の意志を手放したんです。
二人を同時に好きになっていました。
どちらかを選ぶことができず、結局どちらにも「好き」と言って、いい顔をしていました。
自分でも許せないくらい、弱くて、卑怯でした。
松茂良さんと一緒にいる時も、いつも彼の顔が浮かんでいました。
彼を裏切りながら、松茂良さんにも嘘をついている。
「松茂良さん私の全部知ったらどんな顔するだろう」ってずっと思ってました。
私はずっと逃げてきました。でも、もうこれ以上、誰かを傷つけながら関係を続けることはできません。
私はお二人とお別れします。
今まで本当にありがとうございました。
そして心から、ごめんなさい。
* * *
「二人と別れる」と言ったちえりの言葉を、俺はどうしても信じることができなかった。あまりにも綺麗すぎて、逆に怪しかった。意志が弱くて優柔不断で理性の効かない、流されるがままに生きてきたちえりが、そんな決断を本当に実行するのだろうか。
松茂良にどうやって別れを告げるつもりなのか。
LINEで伝えるというので、松茂良に送る前に確認させてもらうことにした。
もし、都合のいいことばかり書いていたのなら、その場で修正させるつもりでいた。
少なくとも「本当のことを書いてくれ」と頼むつもりだった。
だが、送られてきた内容を読んで、その必要は全くないと感じた。ちえりは俺との関係を、言い訳も誤魔化しもなく書き記していた。正直、偉いなと思った。ここまで嘘偽りなく、隠すこともなく、丁寧に、誠実に書くことはなかなか出来ることではない。
GOサインを出すと、暫くして、松茂良にLINEを送った証拠のスクショが送られてきた。しっかりと「既読」がついていた。
なのに、そこまでされても俺はまだ疑っていた。
心のどこかで「どうせ裏では続いているんだろう」と囁く声が消えなかった。信じたくても信じきれなくて、想像が止まらなかった。朝から晩までセックスして、俺のことすらNTRプレイの一環として扱われているのではないか。そんな自分の妄想に苦しめられ続けた。
しかも、ちえりは『ラブTHEはんど』を辞めずに出勤を続けていた。何故、別れたはずの松茂良が勤める店で働き続けられるのか、その神経が理解できなかった。
そもそもちえりは、「長くは続けない、お金が貯まったら辞める」と言っていたのに、一年以上経っても辞める気配はなく、ほとんど貯金もできていなかった。それどころか、目標金額すら決められなかった。
以前、さりげなくいつ辞めるつもりなのか聞いたことがあったのだが、「お金が貯まったらとは思ってるんだけど、それがいくらなのか想像もできなくて。五十万円くらいかなぁ、それとも百万円なのかなぁ」と、子供みたいに笑うだけだった。
あの時、俺はちえりの無邪気さを愛おしいと思ったが、今思えば、あれはただの無計画さ、無思考さの表れだったのだ。俺が想像していた以上に、ちえりは自立した日常生活を送るための基本的な力が不足していたのだった。
将来への計画性や自己管理、金銭感覚といった生活の基礎的な部分が整っていない人間が、風俗のような短時間で高収入が稼げ、時間の融通も利く仕事を始めてしまうと、抜け出すのがかなり難しい。ちえりはそういった風俗嬢たちとは違い、失業期間中だけの一時的なアルバイトとして働いているのだと信じていたが、それは俺の先入観でしかなかったのだと、ようやく気付かされた。
このまま永遠に松茂良とちえりが同じ店で仕事を続けるのかと思うと、それだけでいやらしい関係に思えてきた。
気づくと俺はスマホに手を伸ばし、風俗掲示板にちえりのことを書き殴ったり、Xを開いて、アカウントを何個も作っては有る事無い事呟いたりしていた。
《町田のオナクラにいた金髪美少女のちえりって、店のスタッフと付き合ってる》
《客ともヤッてたよ》
Instagramでは、店のハッシュタグをつけて「裏でこんなことが行われてます」みたいな暴露投稿をした。TikTokには何の関係もない動画に「#ラブTHEはんど #ちえり #裏オプ」とタグをつけてコメントし、noteでは「被害者の会」みたいなタイトルで、虚実織り交ぜた回顧録をしたためた。
それは、生産性など欠片もない無意味な行為だった。膿んだ傷口を穿くり返すだけの自傷行為にすぎなかったが、そうでもしないと腹の底に溜まった泥のような感情に押し潰され、発狂してしまいそうだった。
引越しを済ませた俺は、本当に一人ぼっちになった。
六畳1Kの小さな部屋。家賃は四万円。学生の頃に初めて一人暮らしをした時よりも、家賃が安かった。子供二人への養育費などを考えると、贅沢はできなかった。
さらに惨めなのは、俺がいまだにちえりとの復縁を心のどこかで期待して、彼女の生活圏である小田急線沿線で住居を探したことだ。その未練のせいで、職場まで片道一時間半もかかる鶴川という都心から離れた地に住むことになった。
誰もいない静かな家に帰るのも辛いだけなので、毎日無意味に遅くまで職場に残って仕事をしては、家に着くのは日付が変わる頃になっていた。
そんなある日、何ヶ月も既読すら付かなかったちえりから、突然LINEが来た。何かが返ってくるなんて思ってなかった俺は、震える指先でメッセージを開いた。
そこには微塵の感情の入ってない文面が並んでいた。俺の書き込みが、店と松茂良本人の耳に入り、名誉毀損および営業妨害で、民事と刑事の両面で訴訟を検討しているということだった。
俺は率直に驚いた。決して訴訟をチラつかせられたことにではない。松茂良が、まるで自分が前科持ちだという事実を忘れたかのような振る舞いに出たという、その神経の図太さにだ。
傷害で五回も捕まっているというのに、今さらちょっと悪口を書かれたくらいで、「名誉毀損」や「営業妨害」などと法律を持ち出してくるなんて、見苦しいにも程がある。その滑稽さに驚いたのだ。
昔いたアダルトビデオ業界でも、そういう奴をたくさん見てきた。たとえば、モデルプロダクションの社長になった元半グレの男たち。裏では自分の事務所の女の子をヤリたい放題に扱ってはギャラを搾取していたくせに、ネットで少し悪評が立つと、すぐに弁護士だの、訴訟だのと騒ぎ、見せしめのように金を巻き上げていた。
自分がやってきたことは棚に上げて、法律を都合よく使いこなし、白々しく被害者ヅラをする。そういう連中の卑しさには、心底吐き気がした。
そして松茂良も、結局そういう類の人間だったということだ。殴ることでしか怒りを表現できなかった不良上がりが、今度は裁判所を使って仕返ししようというだけの話だ。更生などしているはずもない。笑止千万だった。
だが、そんな男にちえりは惚れた。俺よりも松茂良を求めたのだ。なぜだ。悔しくてたまらない。もしも松茂良さえいなければ、俺とちえりは結ばれていたに違いない。そう思う度に、嗚咽と涙が止まらなかった。
家庭も終わり、ちえりとも終わり、子どもたちは元妻に引き取られ、文字通り何もかも失って抜け殻同然となった俺にとって、「訴訟する」などという脅し文句は、吹き抜ける風のように虚しく響くだけで、痛くも痒くもなかった。
むしろ、裁判というものを実際に経験してみるのも悪くないとすら思った。強がりでもなんでもなく、俺はただ純粋に法廷という場所に興味があった。罰金なんてどうせ数十万程度だろう。はした金に過ぎない。未知の体験の代金として、そして、俺がちえりに負わされた傷や自ら狂っていった地獄の日々の清算として考えれば、あまりに安すぎる。
俺の投稿は、むしろエスカレートした。
AIで作ったちえり風のエロ画像を載せたり、ちえりを装ったインスタを開設して、男たちにいやらしいDMを送りつけたりした。
自分でも「こんなことして何になるんだ」と思うような内容を書いては、翌朝になって削除して、また夜になると投稿する。そんな生活が半年近く経ったが、相変わらず訴状は来なかった。弁護士からの内容証明もない。ちえりからの連絡もそれきりだった。
結局のところ、単なる口先だけの脅しに過ぎなかったのか。あるいは、裁判の準備とはこれほどまでに時間を要するものなのだろうか。
ある日の夜、夢を見た。
ちえりの背中が遠ざかっていく。俺は名前を叫びながら、必死で追いかけた。
喉が潰れそうになるくらいの声で、全力で、死に物狂いで。だけど、全然追いつけない。どれだけ走っても、ちえりはこっちを振り向かずに、ただ前を向いたまま、どんどん小さくなっていった。まるで風にさらわれる桜の花びらみたいに、俺の届かない場所へ行ってしまう。
「待ってくれよ!」
涙で視界が歪んで、足がもつれて膝から崩れ落ちた。うずくまって、過呼吸みたいに泣きじゃくった。もうダメだと思ったそのとき、背中をぽん、と叩かれた。
もしかして、ちえり?
一縷の希望を胸に振り返ると、そこにいたのは、俺だった。
もう一人の俺。少し上から見下ろすような目つきで、気だるそうに笑いながらこう言った。
「良かったじゃん。若くて可愛い女の子と、たくさんエロいことできたんだから」
そうだよな。呆然とそう呟いた瞬間、目が覚めた。
枕元に置いていたスマホが、微かに震えた。
『ラブTHEはんど』のサイトから、ちえりの出勤を知らせる通知だった。
ちえりはまだ、『ラブTHEはんど』のキャストとして働き続けていて、俺は彼女をお気に入りに追加していたため、出勤する日には自動的にお知らせが来る仕組みになっていた。
「ちえりと、もう一度、エロいことをしたい」
俺は町田に向かった。
『ラブTHEはんど』は朝七時からオープンしていて、その日、ちえりは開店と同時の出勤だった。開店から出勤するキャストには、オプション費の全額がバックされると、以前ちえりが話していたのを思い出した。
初めてちえりと会ったあの日以来、およそ二年ぶりの『ラブTHEはんど』だった。
相変わらず、松茂良が受付をしていた。目が合った瞬間、全身の神経が逆立ったが、向こうは俺の顔を知るわけもなく、平然とキャストの写真を見せてくる。
まじまじと松茂良の顔を見るのは初めてだった。硬めのジェルで濡れたようにセットされた黒髪が、照明を弾いて艶めいている。その隙間から覗く、涼しげで切れ長な瞳。黒いTシャツの袖口からは、しなやかで引き締まった二の腕が伸びていて、一見スレンダーに見えるが、服の上からでも胸板の厚みがわかる。悔しいが、ちえりが惚れたのもわからなくはない。洗練された色気が漂っていた。
「こいつが、何度もちえりを抱いたんだ」
その瞳でちえりを見つめながら、鍛え上げられた腕で強引に組み敷いていたのかと思うと、胃の奥から熱いものがこみ上げてきた。
松茂良に対する感情は複雑だった。
すべてを知りながらちえりとの関係を続けていた俺と、好き合っていると信じて疑いもしていなかった彼女から唐突に真実を打ち明けられた松茂良、果たしてどっちが地獄だったのだろう。だけど、俺は松茂良に同情することはできなかった。
こいつさえいなければと今でも思う。あの日、こいつが強引にちえりを手マンしたことからすべてが始まったのだ。嫌がるちえりの身体中を噛み、それが問題になっても止めることができなかったのだ。俺の知らないところで、俺の知らないちえりの一面を引き出していたのだ。
だが、当然、そんなことは顔には出さずに、ちえりの写真を指差し、さらに、ありったけのオプションを付けた。「オールヌード」「乳首舐め(お客様の)」「生乳揉み&吸い」。ちえりは「ディープキス」をNGにしていたから、「フレンチキス」を選んだ。実際にはルール違反でも、俺の顔を見た瞬間、あの頃を思い出して、舌をねじ込んできてくれるんじゃないかと想像した。
たくさん気持ちいいことをしてほしかった。もちろん、「ワキ舐め(女の子の)」も忘れてはいけない。きっと初めて会った時のことを思い出すだろう。
結局、料金は一万六千五百円になった。ほぼヘルスの値段だ。激安ソープくらいの値段だ。だけど、俺はまったく気にしなかった。もうすぐ、あれだけ心待ちにしていた世界で一番大好きだったちえりの身体に触れられるのだ。もう一万円くらい上乗せしたって構わないとさえ思った。
案内された個室で待つと、しばらくしてノック音がした。心臓がひと跳ねする。ドアが開き、笑顔のちえりが入ってきたが、俺の顔を見た瞬間、表情が凍った。混乱と戸惑い、それに「どうすればいいのか」という一瞬の計算が入り混じり、部屋に入るべきか、入らずにドアを閉めるべきか、迷っているのが表情から読みとれた。
おそらく、知り合いが来たらスタッフに報告してサービス中止、といったマニュアルがあるのだろう。ちえりは一秒ほど逡巡してから、意を決したように部屋に入ってきた。
「ごめんなさい。サービスはできません。おしゃべりだけしましょう」
こっちは高い金を払ってるってのに? と正直思ったが、押し切って無理やり手コキしてもらうわけにもいかない。とりあえず、話をすることにした。
情に訴えれば、ワンチャンあるかもしれないという下心もあり、俺は正直な気持ちを伝えた。
「ちえりとのエッチが忘れられなくて、思わず来てしまった。だから、お願い。ここでキスして、そして、手コキでイカせてほしい。互いのおっぱいも舐め合おう。オプションをたくさんつけたから」
できるだけ早口捲し立てるように言った。プレイ時間は二十分しかないため、話している時間がもったいない。
ちえりは黙って聞いていた。だが、口を開いた時には、思ってもいなかった言葉が出てきた。
「失礼じゃないですか? 好きでもないのに、私を性的な目線だけで見てるってことですよね?」
情に訴えたつもりが、性欲の化け物扱いされた。しかも正論で。
「じゃあ逆に聞くけど、『今でも好きだ』って言ったら、してくれんのかよ。それに、性的な目線で見られることを生業としているお前がそれを言う? 全てのお客さんが失礼だって話になるよなあ! そもそも身体を商品化していること自体が倫理的に異常だと言う認識を持てよ。人間の尊厳を手段化して、性の理解と社会的関係性を歪めてるのはお前自身だからな!」
そう思ったが、言わなかった。なぜなら、ちえりのことを好きではなくなった自分に気づいてしまったから。
久しぶりに会ったちえりに対して、不思議なくらい、愛情が湧いてこなかったのだ。胸がまったく動かなかった。自分を見下して舐め切った態度を取ってきた女を好きになることは二度とできないのだと、はっきりわかった。というか、最初から別にそこまで好きじゃなかった気すらしてきた。
松茂良との関係を知って以降、不思議なほどちえりのことが頭から離れなくなり、想いは強くなる一方だった。それは愛情なんかじゃなくて、ただの所有欲だったのかもしれない。
遊ばなくなった玩具を誰かが勝手に持ち去った途端、急にそれが大切な物だったと錯覚してしまうようなもの。ダイエット中の女が深夜に無性にケーキを食べたくなるような、立ち入り禁止の場所になぜか入りたくなるような、チンパンジーが檻に閉じ込められると暴れ出すような、制限をされたことで逆のことをしたくなるという認知的メカニズム。
俺は、ちえりを愛していたのではなく、奪われたことに反発していただけに過ぎないのではないだろうか。
思い返すと、ちえりに対する感情は、すべて肉体的な関係を持ちたいという欲求から派生したものだった。ちえりといるときはセックスのことしか考えていなかった。
俺は真剣に付き合っているつもりだったが、ちえりは「彼氏だとは思えない」と言ったままだ。そう考えると、俺たちの関係は彼氏彼女という恋愛関係ではなく、肉体的な繋がりだけの、いわゆるセックスフレンドだったのだろう。そして、今となってはもう、性的な感情すら感じなくなっていた。
と、いうのも、ちえりが入ってきた瞬間に、「あれ? こんなにブスだったっけ?」と驚いた自分がいたのだ。別れた後に外見に変化があったのか、今まで好意のフィルターで可愛く見えていただけなのかは判らないが、やけに太っていて不細工に見えた。店のコスチュームである制服のサイズが合っていないせいもあるだろうが、寸胴体型で全体的に丸みを帯びたシルエット。顎が小さいせいか、首と顎の境目が曖昧で、少しうつむいただけで二重顎に見える。かつては興奮成分として作用していたワキガの匂いも、ただのスメハラとしか感じられなかった。風俗嬢ならもう少しケアしたらどうなんだと苦言を呈したくなった程だ。松茂良からもらったワキガの薬はとっくに使い切ったのだろうか? そんなら自分で購入してでもどうにかしろよ。俺以外の客だって同じ気分になっているに違いない。
「ごめんな。ずっと、辛い思いさせてきたよな」
なんだかどうでも良くなって、適当に当たり障りのない言葉を、とりあえず俺は言った。「そうだよ。鮭人さんが家族のところに帰ったあと、わたし、いつも一人で泣いてたんだよ」
お前だけが被害者みたいな言い方すんなよ、と思った。
ちえりは続けて言った。
「私、お笑い好きだったでしょ。でも、そういうテレビ番組も見れなくなったんだよ。不意に鮭人さんのお子さんが目に入ってきたら嫌だから」
知らねえよそんなこと。言いがかりもいい加減にしろよ。それを言うなら俺だって、スーパーでさくらんぼを見るたびに胸がざわついている。それもお前の責任ってことでいいんだな?
いろんな言葉を感情的に吐き出したくなるが、とにかく全部を飲み込み、できるだけ優しい喋り方を意識して話す。
「だけどさ、ちえりが松茂良と浮気して、俺はちえりを取り戻すために必死になって、それで離婚して、家族まで失ったんだぜ。これは、もうフィフティーフィフティーってことで良くないか?」
ちえりは黙った。その沈黙は、「私はそう思わない」と語っていた。
たしかに、二十代中盤の貴重な時間を、俺に費やしてくれたことには感謝しているし、たくさん傷つけたであろうことは申し訳ないと思っている。でも、それ以降のちえりの行動は、明らかに俺を痛めつけ過ぎていた。そして、俺はちえりと家族の両方を失った。
どう考えても、俺の方が辛くないか?
ちえりには、そこに気づいて欲しかった。そして、謝って欲しかった。それは叶わぬ願いだったようだ。
プレイ時間はまだ残っていたが、もう帰ることにした。
「二度と来ないから、安心して」
と言い残して、ちえりのワキガ臭が充満した狭い個室をあとにした。
結局、一万六千五百円も払って、指一本触れることすらできなかった。




