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情事の痕

 ちえりの痣は、ついにお店の中でも問題になった。

 オナクラ店のキャストの体に、直径3センチほどの青黒い斑点がそこらじゅうに浮かんでいれば、そりゃ誰だって気になる。

 全裸オプションを選んだ客が「ちえりちゃん、もしかしてDV受けてるんじゃないか?」と、店に心配の声を届けてきた。

 それとほぼ同時に、「ちえりちゃんがスタッフとホテルから出てきたのを見た」という通報まで入った。

 焦ったのは松茂良だった。

 キャストとスタッフの恋愛、いわゆる「風紀」と呼ばれる行為は、業界で御法度とされている。ひとたび他のキャストやお客さんに知れ渡れば、激しい妬みや嫉みを生んでしまうからだ。それに、性産業の人間は倫理観が欠如していたり、特殊な事情を抱えていたりと、そもそも不安定な者が多い。一般的な社内恋愛と比較して、厄介なトラブルを招く可能性が非常に高いのだ。

 さらに、松茂良はちえりに痣をつけていた。つまり、商品に傷をつけていたわけだ。そんなこと口が裂けても言えなかったのだろう。だから松茂良は、息を吐くように嘘をついた。

「ちえりちゃんさ、彼氏からDV受けてるんだってよ。だからさ、相談乗ってただけさー。ホテルの近く歩いてたのはホントだけど、入ったりはしてないさ。ほんとに誤解だと思うわけさ。これからは気をつけるさー」

 口裏を合わせるため、必然的にちえりもその嘘に加担させられることになった。

 けれども、その後も松茂良はちえりを噛み続けた。自分の性欲を制御できない、まるでサルみたいな男だった。

 いや、サルのほうがまだ分別あるかもしれない。観光地のサルは人間社会の反応を学習していて、観光客の食べ物を奪うことはあっても、子どもからは奪わないと聞いたことがある。理性もなく分別すら欠いたサル以下の男、それが松茂良だった。

 松茂良はちえりの出勤日に合わせて、数日で消える程度の加減で噛むようになった。理性も分別もないがサルと同等程度の学習能力はあったようだ。だかこそ、なおさら始末に追えなかった。

 ちえりは「痛いのはイヤ」「嫌がってるのわかってるよね」「なんで私じゃなきゃダメなの?」と、何度も訴えたらしい。それでも松茂良はやめなかった。

 やめないどころか、「俺だってツラいわけさ!」などとほざいたという。

 加害者のくせに、自分も傷ついているかのような言い草。その厚顔無恥さには反吐が出るが、松茂良の歪んだ思考回路自体は概ね想像がついた。

「オナクラ店に勤めていて、そのスタッフと付き合っている」という、ちえりにとって誰にも相談できない関係であることをいいことに、自分の性的嗜好を強制的に押し付け、強く拒否されても「君を本気で好きだからこそ、この欲求が我慢できないんだ」というロジックで、半ば洗脳的に加害行為を行い続けているのだろう。

 もし彼女が女友達や家族の誰かにでも相談できたとすれば、誰もが「そんな奴とは今すぐに別れるべきだ」と説得するはずなのだが、唯一、松茂良の存在を話せる相手が俺しかおらず、俺がいくら松茂良を否定したところで、ただの嫉妬だと思われるだけで、まともに取り合ってはくれないのだった。

「この前、ローションを買ってくれたんだけど、敏感肌用の弱酸性の潤滑ゼリーを選んでくれたんだよ。わたしの身体を気遣ってくれて、優しいでしょ?」

「いや、相手の気持ちを無視して痣だらけにするような奴が、身体を気遣ってるわけないだろ? 頼むから目を覚ましてくれよ」

「これが松茂良さんの愛情表現なの。キュートアグレッションって言うんだって」

 恋は盲目、とはよく言ったものだが、ちえりは盲目どころか、脳までヤラれて白痴になっていた。

 しかし、こんな白痴の女をいまだに好きでいる俺だって、似たようなものなのかもしれない。


 ちえりと一緒にいる時を除くすべての時間で、やり場のない焦燥感に苛まれるようになった。ナマズタトゥーのあの腕でちえりの華奢な体を力任せに締め上げている映像が、呪いのように脳内で再生され続け、脳味噌を直接紙やすりで擦られるような痛みに襲われるのだ。

 俺には家庭があった。だから、ちえりと会える時間はいつも限られていた。

 その一方で、松茂良とちえりは同じ職場のスタッフ同士だ。勤務時間も休日も合わせ放題。毎週のようにちえりの部屋に泊まり、当たり前にセックスしていた。

 そんな松茂良に対抗するために、俺は仕事をサボってでもちえりと会うようになった。

「急に打ち合わせが入って」と会社にウソをつき、一応タクシーで取引先のオフィスビルの前まで行くと、そこで踵を返してちえりとの待ち合わせ場所へ向かった。

 GPSの付いたスマホは適当な封筒に入れて、ホテルに入る前に近場の自販機の上とか、飲食店の電飾看板の裏とか、道端の植え込みの根元にそっと置いた。用を済ませたら回収すればいい。

 ちえりはスケベの天才だった。性的なことに関して、まるで芸術家のように自由で、発明家のように貪欲で、少女のように無邪気だった。

 セックスは何度してもまるで飽きず、むしろ、回数を重ねるほどに深く染みて常に新たな発見があり、気持ちよさが更新されていった。

 ある時、ちえりが俺をフェラチオしている最中に、なぜか部屋の隅から姿見の鏡をズルズルと引きずってきたことがあった。

「なにしてんの?」

 と訊くと、無言で鏡の角度を調整して、フェラする自分のお尻がきれいに映るようにしたのだった。俺のちんこをしゃぶる彼女の後ろ姿が、鏡越しに写る。そこには、ただ俺を悦ばせたいという献身的なサービス精神と、痴態を晒すことさえも歓びとする、貪欲で純粋な本能だけがあった。

「これって、松茂良にもやってんの?」

 と訊くと、ちえりは咥えていたちんこを口から外して言った。

「松茂良さんには、こういうエロい自分、あんまり見せられない。なんか、恥ずかしくなっちゃう」

「俺には見せられるの?」

「うん。鮭人さんだと安心する。いちばん、気を使わないでいられるから」

「それなら、俺だけを選んでくれよ」

 そう言っても、ちえりは首を横に振った。

「でもやっぱり、松茂良さんが好きなの。気を使う相手の方が、本気で好きになっちゃうってこと、あるでしょ?」

 なんとなく理解はできるが、それを今、俺に向かって言う残酷さには気づいていないのだろうか。

 どうすればちえりの心が手に入るのか。言葉や優しさだけでは、もう松茂良には勝てない気がした。ならば、誰にも真似できない、俺にしかできない方法で、彼女の全てを受け入れる姿勢を示すしかない。

 彼女の排泄物すらも厭わずに飲み干す姿を見せれば、その深すぎる愛情に心を打たれ、きっと俺の元へ戻ってくるはずだ。俺は本気でそう信じて、ちえりのおしっこを飲むことにした。

 飲み終わったチューハイのロング缶を風呂場に持っていき、「ここにお願い」と頼むと、ちえりは少しだけ躊躇ってから、笑いながら素直に放尿してくれた。チョロチョロと出始めたおしっこが、途中からジャーと勢いよく流れ出す。そのまま缶がいっぱいになるまでおしっこは止まらなかった。

 小さい体からこんなに大量のおしっこが出るものなのかと感心してしまった。

「これ、全部飲み干したらどう思う?」

「嬉しいけど、無理しないでね」

 試しに一口飲んでみると、不思議なくらいにさらっと飲めた。

 昔、新卒で入ったAV制作会社で、女優さんのおしっこを飲むプレイの撮影があり、当時ADだった俺が相手役として飲むことになった。その時は、吐きそうになってしまい、飲むふりだけして全部こぼした。

 だけど、ちえりのおしっこはまったくマズくなかった。好きな人のおしっこは飲みやすい。そんなことがあるのかと、自分でも驚いた。

 飲んでいる最中に、俺のちんこは勃起していた。

 それを見て、ちえりは笑った。そして、勃起した俺のちんこをぱくりと咥えた。フェラチオされながら、俺は約500mlのちえりのおしっこを、すべて胃に流し込んだ。

 飲み干すと、ちえりは満足げに「ほんとに、すごいね」と笑ってくれた。

 けれど、ここまでしても彼女は俺だけのものにはならなかった。


 以前から、俺は人一倍性欲が強いのに、それに見合う精力が伴っていないと感じていて、十歳年下の松茂良には、ちんぽ力の面で勝手に劣等感を抱いていた。

 そこで、勃起不全治療薬を使うことにした。

 知り合いのAV男優に相談すると、インドの医薬品メーカーが製造している「カマグラ」というバイアグラのジェネリック薬を勧められた。

 さらに、「スーパーカマグラ」という薬なら、早漏の改善もできるという。

 俺は早漏気味でもあったので、スーパーカマグラを使ってみることにした。

 日本ではまだ未承認の薬品だったが、通信販売で手に入るらしい。だが、自宅に郵送するわけにもいかず、クレジットの購入履歴が残るのも困るため、AV男優に代理購入を頼み、後日、手渡しで受け取った。

 スーパーカマグラの効果は絶大で、射精のコントロールが自由に効くようになり、いままで一回射精したら回復の難しかった俺のちんちんが、三十分も休憩すれば二回戦ができるようになった。

 それでもまだ、ちえりは俺のものにはならなかった。

 ある日、ちえりから匂いが消えていることに気づいた。

 聞けば、松茂良がちえりのワキガを苦手としていて、「ラヴィリン」とかいうイスラエル製のデオドラントをプレゼントされたのだという。

 匂いのしない腋を舐めてみると、舌に残るのは化学薬品のようなマズい味だけだった。

 大体、好きな女の匂いを受け入れられないなんて、どういう了見なんだろうか。そんな男にちえりを愛す資格はない。

 俺なら、ちえりのうんこでも喜んで食べるよ。


 俺とちえりの会う頻度が増えるにつれて、何故か、仁枝が夜に外出することも増えていた。「職場の同僚と飲み会に行って来る」と出かけると、必ずと言っていいほど「カラオケでオールすることになった」と深夜に連絡が来て、朝帰りとなっていた。

 三年前まで専業主婦だった仁枝は、真風彦が二歳の頃に仕事を見つけて契約社員として働き始めた。しかし、在宅ワークがメインで、出社することはほとんどなかったはずなのに、急に同僚との飲み会に参加するようになり、朝まで帰って来ない。

 GPSを確認すると、本当に居酒屋やカラオケにいることもあったが、たまに電源がオフになっているのか、何時間も前にいた場所を指したまま、更新されないこともあった。

 当然俺は浮気を疑ったものの、それに対する怒りや戸惑いは一切なく、「そうだったらありがたい」くらいに考えていた。

 だって、俺だけが度々ちえりに会ってはセックスしてばかりいるのは申し訳なかったから。

 仁枝は仁枝で別の男と気持ち良くなれているのならお互い様だと思えるし、むしろ気分的に楽になる。そのような考えで、仁枝の浮気疑惑はやり過ごしていた。


 ちえりはときどき松茂良と旅行に行くようになった。どこに行ったのか、何をしたのか、聞かなきゃいいのに、俺はどうしても聞いてしまった。

「どんな旅館だったの?」

「旅行中に全部で何回中出ししたの?」

 答えを聞くたびに、頭が割れて焼け焦げるような感覚に襲われた。

 二股されてから、俺たちの関係性は明らかに変わった。

 それまでどこか甘えていたちえりの態度が、次第に冷たくなっていくのがわかった。たぶん、冷たくなったというよりも、舐められていたのだと思う。

「この人なら何しても平気」という、無意識なのか確信犯なのかはわからないが、ちえりの中でそういう扱いに切り替わっていたのを感じた。

 待ち合わせには平気で遅刻してくるようなった。十分、十五分ならまだしも、三十分遅れても何の連絡もないし、こっちが「大丈夫?」とLINEを送ると、「なに?」と逆ギレした感じで、眉間にしわを寄せた不機嫌な表情のスタンプが返ってくる始末。

 会話の中で聞き取れなかった言葉を聞き返すと、「聞き返さないでってば、疲れるから」と、苛立ちを隠さない。

「鮭人さんの前では気を使わずにいられるから」

 ちえりはよくそう言った。

 けれどそれは、好意によるものや、一緒にいて安心するとかそういった意味でもなんでもなくて、ただ俺が「雑に扱っても怒らない人間」だと見なされただけのことだった。

 俺はその現実に絶望しながらも、それでも会えなくなるよりはマシだと思って、ちえりにすがり続けていた。

 お互いの「好き」という気持ちが均衡を保っていないと、恋人同士ではいられなくなる。注がれていた愛情が、明らかに別の方向へ流れていることに気づいてしまうと、どれだけこっちが愛していても、優しくしても、意味がなくなる。「以前はこうじゃなかった」そう感じる瞬間が幾度となく訪れ、そのたびに、胸が裂けるほどに、死にたくなるほどに苦しかった。

 ちえりがもう俺を好きではないことはわかっていた。それでも、どこかでまだ期待していた。もう一度、あの笑顔を取り戻せるんじゃないかと、朝起きたらまたあの頃のちえりになっているのではないかと。「同情で付き合ってるんなら、早く振ってくれ」そう思いながらも、「同情でもいいから、そばにいてほしい」と願ってしまう自分がいた。

 哀れなまでに、俺はちえりのことが好きだった。


 離婚を切り出したのは、仁枝の方だった。帰ると、家の中は真っ暗で、電気も付いていない部屋の真ん中で仁枝だけが立っていた。娘の真衣莉は、相方の家に泊まりに行っているらしい。相方というのは、漫才コンビの片割れのことで、二人はまだ中学二年生だというのに、週末になると泊まりに行ってネタ合わせをしている。まだ五歳の息子の真風彦も、真衣莉にくっついて行ったという。仁枝は、何かをぐっと堪えるような顔をして、

「これを見てください」

 と言って、左手を差し出した。

 指輪が外されていた。

「もう限界です」

 それだけ言って、俺からの返答も待たずして、彼女はどこかに出ていった。

 どこへ行くのかも言わずに。俺は一人きりになった。

 灯りも点けずに、暗闇の中でYogiboに沈み込んだ。一度沈んだ体を再び持ち上げる気力がどこからも湧いてこない。家の中は、深い海の底のように静かだった。冷蔵庫の低い駆動音だけがやけに大きく響き、ここにはもう俺以外誰もいないのだという事実を突きつけてくる。俺は眠ることもできずに、窓の外が白んでいくのをぼんやりと見つめ続けた。

 仁枝が、どこまでを知っていて「限界です」と言ってきたのかはわからなかった。

 おそらく、確信的な証拠があったわけではないだろう。俺に女がいることをなんとなく感じ取りながら、詮索することもできなかったのだと思う。

 仁枝の外出が増えたのも、欲望のせいではなく、きっと悪い想像が膨らむ中で俺と一緒に過ごすことの苦痛から逃げるためだったに違いない。

 十年前、アダルトビデオメーカーの広報の女との不倫の時に、仁枝は精神が崩壊するギリギリまで頑張った。俺を取り戻そうとして、必死になって、毎日泣いて、耐えていた。

 もし今、俺を問いただしたとして、それで真実を知ってしまったら堪えることはできないと判断したのではないだろうか。

 あのときの苦しさをもう一度味わうのが怖くて、何も聞けないでいる様な気がした。「モテたら殺す」と言っていた仁枝は、きっともうその気力すら残っていないのだ。

 翌日、子供たちは帰ってきた。でも仁枝は、一向に戻ってこなかった。

 冷蔵庫に残っていた野菜と肉でシチューを作った。はじめてルーを使わずに、小麦粉とバターと牛乳でホワイトソースを作った。

 料理は気を紛らわすのにちょうどよかった。無心になって、ゆっくり鍋をかき混ぜながらシチューを煮込み続けた。

 完成したシチューは、皮肉なほど上手にできてしまった。バターの濃厚なコクと、野菜の甘みが溶け出したホワイトソース。それはまさに幸せな家庭の味だった。

 真衣莉は「うまっ」と言って、何杯もおかわりした。

「しゃけちゃん、これレストランの味じゃん」

「しゃけちゃん」とは、仁枝が昔から俺を呼ぶ時の愛称で、真衣莉も自然とそう呼んで育った。

 真風彦もニコニコしながらシチューの中にご飯をブチ込んで、かき混ぜて食べた。

 鍋いっぱいにつくったシチューがすごい勢いで減っていく。

「お母さんの分も残しておいてね」

 このシチューを仁枝が食べたらきっと、離婚も思いとどまってくれるはずだ。そんな淡い希望を抱いて、俺は食卓で彼女を待った。しかし、夕食の時間が過ぎ、風呂にも入り、歯磨きを済ませてもまだ、仁枝は帰ってこなかった。

 真風彦を二階の寝室に連れて行き、寝かしつけていると、遂に泣き出した。

「ママが帰ってこない」

 俺は、連絡もよこさず一向に帰る気配のない仁枝に腹が立ってきた。

 泣きじゃくる真風彦を動画で撮影し、「流石に帰ってきてくれ」と仁枝に送りつけた。

 真風彦はもちろん、真衣莉も寝静まった深夜になって、玄関のドアが開いた音がした。

 やっと仁枝が帰ってきたか、と二階から降りてくると、ママ友を二人連れていた。

 一人は髪の毛をバチバチに巻いていて、もう一人はおしゃれメガネにスウェット上下という、よくわからん組み合わせだった。

 俺の顔を見るなり、その二人は鋭い視線を向けてきた。明らかに俺を睨んでいた。

 一体、俺が何をしたというのか。いや、何をしたかは俺が一番よくわかっている。だが、部外者のお前たちに何がわかるというのだ。 何も知らない他人が、「あんたが全ての元凶ね」などという顔で、俺を軽蔑することなど許されるはずがない。

「いま、藤竹くんとは話したく無くて。申し訳ないけど、二人を連れてきた」

 結婚する前からずっと「しゃけちゃん」って呼んでくれていた仁枝が、俺のことを「藤竹くん」と呼んだ。そっちだって同じ藤竹だというのに、もう旧姓に戻ったつもりでいるのか。

「ちょっと待ってくれよ。こんな夜中に、こんな人数で、感情的に決めることじゃないだろ。まずは夫婦で冷静に話すべきだ」

 三人からの圧に負けない様に、俺はつい声を荒げてしまった。

 その瞬間、巻き髪が鬼の首を取ったみたいに言ってきた。

「は? 何そのモラハラ発言。今、感情的になってるのはあんただけだからね?」

 おしゃれメガネの方も食い気味で同調してくる。

「女ってか弱いんですよ。そういうのわからないと父親失格ですよ」

 そいつは離婚経験者だった。

 真衣莉の友達の母親で、モラハラ気質の旦那と去年別れたと聞いていた。

 こいつが何から何まで仁枝に入れ知恵していたに違いない。

「嫌いになってから別れたら、二度と連絡も取れなくなる。だから、本気で嫌い合う前の今、別れるべきなんです」

 聞いたような、でも一理あるような絶妙なことを、もっともらしい口調で言ってくる。

 しかし、このまま「確かにあなたの言う通りですね」と受け入れるのは癪だし、三人対一で責め立てられている状況に苛立っているのもあり、ひとまず仁枝の弱点を突いてみた。

「仁枝さ、この前、会社の飲み会だって言って朝帰りしてきた時、GPS止めてたよね? 別に俺は浮気されてたとしても全然許せるから、それならそうって言ってくれない? 正直にさ」

 三人の女たちは顔を見合わせてから、同時に深いため息をついた。

「それね、たぶん私の家に泊まりに来た時だと思います。あなたのことについて、朝まで相談されてました。仁枝さん、ずっと泣いてました」

「あんたね、自分のこと棚に上げて仁枝のこと疑ってたの? よくそんな口が利けるね。人間のクズだね」

 ママ友二人から伝えられた事実によって、さらに俺の立場が悪くなった。

 俺だって分かっていた。仁枝が浮気なんてする女じゃないってことくらい。

 不倫している後ろめたさを仁枝にも重ねてしまい、勝手に浮気を疑っていただけだった。人間のクズと言われても、反論の余地はなかった。

 もはや、離婚を思いとどまらせる程の説得力ある主張をすることは不可能だった。

 心を入れ替えて家族を第一に残りの人生を誠実に生きていくと宣言すれば、まだ望みはある気もした。しかし、それもズルいと思った。

 今さら誠意を見せて家族に戻るというのは、ちえりに捨てられそうになって、帰る場所を探しているだけの身勝手な言い分に過ぎない。そんな自分の保身のために仁枝をもう一度苦しめるというのは、散々自分勝手にやってきた俺ですら、流石にできなかった。

 俺は、離婚に同意するしかなかった。

 仁枝はその場で離婚届を差し出してきた。妙に落ち着いた気持ちで、俺はそれに記入をしたが、ママ友二人に見られている緊張感からか自分の名前を書き損じてしまった。すると、仁枝がもう一枚の離婚届を差し出してきた。

 あらかじめ何枚も用意していたらしい。

 十八年前、婚姻届に記入した時、何箇所も書き間違えたのを仁枝は覚えていたのだ。

 いくつも訂正印が押された婚姻届を見て、役所の窓口で職員に笑われたあの日、俺は高熱を出していた。

 フラフラになりながらも、どうしても二人で婚姻届を出したくて、仁枝と手をつないで役所に向かった。

 提出した帰りに、駅前の立ち食いそばを食べた。

 店を出ると、どこからかレミオロメンの『粉雪』が流れていた。

 熱があっても金はなかった。だけど、俺たちは笑顔で希望に満ちていた。

 十八年経って、その二人は離婚届を書いている。

 雰囲気がしんみりし過ぎていたので、ほっこり終わらせたくて最後に一発、ボケてみた。

「別れても、たまにはセックスしようぜ!」

 逆効果だった。場は凍りついた。愛想笑いすら起きなかった。

 すべてにおいて、何をどう考えても、悪いのは俺だった。


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