松茂良という男
ちえりと関係を持ち始めて一年が過ぎた頃、ちえりが髪をかき上げた拍子に、うなじの下あたりに紫色の斑点が見えた。それは、噛まれた痕に間違いなかった。俺には見覚えがあったのだ。
二十年近く前、現在の妻である仁枝と、初めて二人きりで過ごした夜、彼女の内に秘めているマゾヒズムを直感的に感じていた俺は、仁枝の身体中をとにかく噛んだ。仁枝は痛がりながらも、明らかに感じていて、あそこはビショビショに濡れていた。
それなのに挿入はしなかった。それは、「セックスをお預けにした方が沼らせることができそう」という俺なりの打算だった。
翌朝、仁枝からメールが来た。
《身体中が痣だらけです。征服された感、あります》
丁寧に、痣の写真まで添付されていた。
仁枝は噛まれるのが好きで、痣の痛みを悦びに変える女だった。
俺の目論見は当たり、仁枝は俺にベタ惚れになった。
あの時と同じ噛み跡がちえりにある。俺は浮気だと確信しつつ「どうしたの?」と訊くと、ちえりは「わかんない」とだけ言って、すぐに話をそらした。
そっぽを向いたちえりの腕を掴み、服を捲りながら全身を確認していくと、首や肩、二の腕から胸、太ももに至るまで、身体中に噛み痕が点在していた。もはや隠そうという意思すらも感じられず、ハードな夜の営みの匂わせとしてむしろ気づかれることを望んでいるかの様に、あけすけに残っていた。
仁枝と同様に、ちえりも噛まれることに快感を覚えるタイプだったのだろうか。そんな訳はない。俺は、相手が自分の性的嗜好を曝け出せるような関係づくりを何より大切にしている。もしその様な性癖をちえりが持っていたのなら、俺が気づかないはずがなかった。
問いただすと、ちえりは言った。
「痛いのは嫌。でも、松茂良さんが、喜んでくれるから」
相手はやはり松茂良だった。
松茂良は拒んでもやめてくれない。だから仕方なく受け入れているのだという。
さらに話を聞けば、松茂良との最初のセックスも、無理矢理だったそうだ。
以前からちえりへの好意を露骨に隠さなくなっていた松茂良と一緒に帰ることになったのだが、話が盛り上がって、結局部屋にまで上げてしまったらしい。しばらく一緒に話していたところを押し倒され、強引にパンツを下ろされ、指を突っ込まれた。下手くそな手マンによる出血は二日間も続いたという。それでも、ちえりは松茂良との関係を続けている。
話を聞きながら、俺の頭は沸騰しそうだった。怒りというより、理不尽さに理解が追い付かなかった。
「なんで、そんなことが起きて、今もその男と付き合ってるんだよ」
と叫びたかったが、俺は感情を必死で押し殺した。
「警察に行こう」
もはや浮気云々ではなかった。暴力で始まった関係を、恋愛と呼んでいい筈がない。
俺は、法的知識も総動員して説得を試みた。
「不同意性交罪は非親告罪なんだ。証拠さえあれば、俺ひとりでも動ける」
でも、ちえりは泣きそうな顔で言った。
「やめて。お願いだから。わたし、松茂良さんのこと大好きなんだよ」
その瞬間、全身の力が抜けて、そのまま崩れ落ちそうになった。
「それは、自分の感情にフィルターをかけて好きだと勘違いしているだけだ。ストックホルム症候群といって、防衛本能として加害者に好意を向けてしまうんだよ。ナターシャ・カンプシュ事件って聞いたことない? 八年間も監禁されてきた少女が、犯人の男にある種の愛情を抱いていたって話。それと一緒だよ」
「変なこと言うのはやめて! 頭がおかしくなる!」
これ以上話しても、俺への拒否反応が高まるばかりで逆効果になりそうだった。
それに、終電の時間が近づいていた。死にたくなるほどの虚無感を抱えたまま、俺は家族のもとに帰らなければならなかった。
ちえりがもし、他に彼氏をつくって幸せになるのなら本望だと、本気で思っていた。いつかは俺から離れて、もっと普通の男とまともな恋愛をして、ずっと笑顔で過ごせる日が来ることを願っていた。
だが、それが松茂良となると話はまったく別だった。オナクラ店のスタッフという時点で、ろくな男じゃないことくらい容易に想像がついた。
俺はアダルトビデオ業界で働いていたこともあるので、少しはそういう世界の裏側に明るい。モデルプロダクションのマネージャー、制作会社の監督やAD。ああいう連中に、まともな男はほとんどいなかった。だいたい、元半グレが頂点に立って、周りを不良上がりの腰巾着が囲む。中にはカタギもいたけれど、ほとんどが社会不適合者。まともな企業じゃ使い物にならず、命令されたことを言われた通りにしかできない低学歴の男たちだ。
風俗業界も似たようなものだ。むしろ、もっと深く反社会的勢力と繋がっている。覚醒剤で逮捕されたAV男優が風俗店のスタッフに転身していたり、詐欺で前科のある奴が受付をやっていたり、もしくはリストラされた中年がこき使われていたり。地に堕ちた人間たちが流れ着く最後の吹き溜まり。それが風俗店のスタッフという職業だ。そんな場所に、ちえりが身を置いている。それだけでも胸がつぶれそうだった。
松茂良は三十歳だと聞いた。どうせ前科持ちの元チーマーか、将来女衒を夢見る勘違いの不良だろう。まともなわけがない。
第一、タトゥーを入れている時点で、俺の中ではもうアウトだった。
俺が中学の時、全く勉強ができないうえに教室でセックスしたのがバレて停学になったアホなカップルいたのだが、そいつらは授業中に書道道具の墨汁とコンパスの針だか裁縫道具のまち針だかを使ってお互いのイニシャルのタトゥーを入れ合っていた。偏見だと思われても仕方ないが、俺にとってのタトゥーというのは、バカの象徴みたいなものだった。
そもそも日本の刺青ってのは、もともとヤクザが堅気じゃないことを世間に知らしめるために彫るものだった。痛みに耐える根性と、世間からの断絶を受け入れる覚悟の証。見せつけることで威圧する、無言の脅しを意味していた。
もちろん、海外は違う。ポリネシアのタトゥー文化は神聖な儀式の一環だったし、アメリカでは戦場へ向かう兵士たちのメッセージから始まり、やがてロックやパンクやヒップホップと結びついて、自由とか反抗とか自己表現の象徴になっていった。だから海外の人はタトゥーに対して怖いという発想がそもそもない。
今の日本では、その海外のノリを真似てファッション感覚で入れている奴がほとんどだが、土台には「刺青=ヤクザ」というイメージがこびりついている。つまり、どっかで「俺ってちょっと悪くて怖いんだぜ」というアピールが入っている訳で、カッコいいどころか痛々しくて仕方ない。
そもそも、デザイン的に良いなと思えるタトゥーを見たことがない。どれもこれも似たり寄ったりのテンプレの組み合わせみたいなものばかりで、変な模様とか、龍とか虎とか、肘の角度を利用して蜘蛛の巣のタトゥーとか、正直意味がわからない。「それ、本当に良いと思って入れてるの?」っていう謎なセンスのものばかりだ。
タトゥーは恒久的に身体に残るものなので、長期的美意識に基づいたデザインが必要になる。つまり、いま優れていると思っているデザインが十年後も良いと思えるのかという話だ。それは単にデザインの普遍性の問題ではなく、タトゥーが自分の信念や価値観を身体に刻むモノなのだとすれば、十年前に入れたタトゥーを今でも気に入っているならそれは自分が成長していないことの証明になってしまう。人は成長し価値観が変わる生き物なので、完全に満足するタトゥーなど理論上存在しなくなる。
実際、若気の至りで入れたタトゥーを消す人が増えているそうだが、それは自分の価値観の変化を認める成熟的行動だと思うし、逆に何年も前のタトゥーをそのまま恥ずかしげもなくほったらかしにしているのは、自己評価や成長の相対化が欠けている情けない状態としか思えない。
どうせ、「自己表現」だとか「想いを刻む」だとかもっともらしい理屈でタトゥーを入れている連中も、結局は「なんかカッコいいっぽい」という漠然とした気持ちしかないのだと思う。
万が一、本気でデザインが気に入っていてその想いは一生変わらないと考えているのなら、身体にお絵描きするなんて馬鹿な真似はせずに、そのイラストのTシャツを5着くらい作って、毎日着回ししたら良い。一度入れてしまえば否が応でも消すことのできないタトゥーよりも、着替えられるのに同じTシャツを頑なに着続ける方がよっぽど覚悟を感じる。
かつて俗世間と決別する覚悟の印だった刺青が、今じゃノリと度胸試しの延長でしかなくなっている訳だ。だから俺は常日頃から、タトゥーを入れている人を冷めた目で見ていた。
広島の連続保険金殺人事件で死刑囚となっている大山清隆の息子、大山寛人氏。彼は全身に刺青を入れているが、それは「自分はもう普通の人生を送らない」という覚悟を込めてのことだ。自分に幸せが訪れないように、敢えて刺青を入れたのだ。あれくらいの決意を持ってタトゥーを入れている人は滅多にいないだろう。ましてや、松茂良の溺れたナマズのタトゥーに、そんな覚悟や意味があるとは到底思えなかった。
アダルトビデオとか風俗といった性産業に従事する男たちは、一見するとやたらと女性に優しい。撮影現場や、店の待機室では、「寒くない?」とか「喉、渇いてない?」などと、いちいち気を利かせては、毛布をかけたり、ペットボトルにわざわざストローまで刺して差し出してきたりする。
だが、それを優しさとして受け取るのは、かなり危うい。あくまで、商品に対する接し方に過ぎないからだ。
彼らにとって、女の子は所詮、飯の種でしかない。キャストが機嫌を損ねれば商売に響く。だから彼らは、笑うし褒めるし気を遣う。そして、女の子たちは、それが本当の優しさだと勘違いする。だが、彼らが女を利用して生きている者たちだということを忘れてはならない。裏では、容赦のない言葉が飛び交っているものだ。
「化粧濃いよな」
「胸がもうちょいあればな」
「今日はいつにも増して腋のニオイきつかった」
「愛嬌がねぇんだよな」
細かく粗探ししながらスタッフ同士で笑い合う。
「だって容姿と態度で商売してんだろ? 評価して何が悪いの?」
と、自分たちを正当化しながら。
業界にはびこる男たちのそんなやり取りに当初は激しい嫌悪感を覚えたものの、それらが常識としてまかり通る異常な環境に身を置くうちに、当時の俺も次第に感覚が麻痺していった。つまり、業界に長く留まる男ほど、ミソジニーが血肉化し、息をするのと変わらない無意識さでマンスプレイニングを垂れ流すようになるのだ。
さらに、この類の男は、女をコントロールするのが本当にうまい。どいつもこいつも付き合い始めはもれなく優しく、花束を持ってきたり、朝まで電話したり、「俺には、お前しかいないさ!」などとドラマで覚えた言葉で泣かせてきたり、まるで中学生みたいな純情さを演出してくる。
だが、交際が続くに従って隠しきれない本性があらわになる。束縛は強く、嫉妬深い、支配欲と独占欲の塊。それでいて自分は朝まで飲んだり、風俗に行ったり、浮気した後で「お前が一番さ!」ってな寝言を平気で言う。モラハラは当たり前に行うが、たいてい暴力の一歩手前で器用に止まる。相手の自尊心を奪い、外界との接点を断ち、まるで鳥籠に女を閉じ込めるようにして、自分のものにするのがうまいのだ。
そういう連中は最終的に、彼女の恥丘に自分の名前のタトゥーを入れさせる。
そうやって自分への忠誠心を確かめさせておいて、飲み会の場では、「俺、独占欲が強いからさー」などと武勇伝として語ってくる。しかも、それを愛情だと本気で信じ、自分は優しい男なのだと疑わないからタチが悪い。
それが、女を恋愛や愛情の対象というより、結局は手段として見ている奴ら、つまり、性風俗の世界で働く男たちの特徴だ。
人の悪意に触れることなく育ち、疑うことを知らない世間知らずなちえりは、無色透明な水のような存在だった。あまりに純粋すぎるがゆえに、注がれるコップに合わせて自らの形をどうとでも変えてしまう。だから、俺のような少し歪なコップにもすぐに順応して簡単に不倫相手になった 松茂良という汚泥の沈んだコップに入ればきっと、二度と戻れない色に濁ってしまうだろう。
このままだと、いつかちえりの恥丘に松茂良の名前が刻まれる。それだけは何としてでも避けなければならない。
そんなことをぐるぐる考えながら、気がついたらもう自宅のドアの前に立っていた。鍵を差し込む手が震えた。
帰宅すると、仁枝が迎えてくれた。
意気消沈した気持ちを隠しきれない俺に、「しゃけちゃん、どうしたの?」と優しく声をかけてくれたが、声が出なかった。この時、俺は放心状態だった。仁枝と目を合わせることすらできなかった。
仁枝は少しの沈黙の後、「あのさ、聞きたいことがあるんだけど」と何かを言いかけたが、続けずに、
「やっぱりいいや」
と言った。
仁枝の頬から涙がひとしずく垂れ落ちるのが見えた。俺はそれを見なかったふりをして、何も言わなかった。
もしかすると、俺の浮気に気付いたのかもしれない。
ちえりに熱を上げている間、俺が仁枝に向けていた愛情は明らかに希薄になっていた。それが無自覚のうちに態度や言葉に現れていたとしても不思議ではない。さらに、今の俺が纏っているこの陰鬱な空気。ただ仕事で疲れたのとは違う、他の女に心を乱され、傷ついた男だけが放つ独特の哀愁を、仁枝は敏感に嗅ぎ取ったのかもしれない。確固たる証拠はないとは思うが、積み重なった違和感とこの決定的な空気感によって、理屈よりも先に真実に触れてしまった可能性は否めなかった。
しかし、そんなことより、俺の頭はちえりのことで一杯になっていた。浮気がバレたら仁枝に殺されるという恐怖など、どうでも良くなっていた。
それよりも、仁枝を失う恐怖の方が、何倍も大きかった。
その後も、今まで通りちえりは俺との逢瀬を重ねつつ、松茂良との関係も続けていた。
ある日、ちえりと外で食事を済ませた後、彼女の部屋に行くと、洗面所の棚に小型の電マが無造作に立て掛けられていた。松茂良と使ったものに間違いなかった。
「これ……」
言葉に詰まる俺を見て、ちえりはすぐに察したらしく、バツが悪そうに目を逸らした。だが、笑いにしてやり過ごす方向へと瞬時に切り替えたのか、努めて明るい口調で言った。
「電マって別に好きじゃないんだよね。強すぎるし、イッたフリしてすぐ止めてもらった」
一応、俺に気を遣ってくれたのだろうが、問題は電マが好きとか好きじゃないとかではなく、わざわざ電マを購入して、二人でそれを使ったという事実だ。
どうやら、ちえりが家を出たあと、几帳面な松茂良が洗って干したらしい。松茂良に電マを押し当てられて感じているちえり。その情景が、頭の中で映像になって流れてくる。俺は気が狂いそうだった。
さらに視線を滑らせると、電マの横には見慣れない歯ブラシが立っていた。松茂良のものだろう。
俺はその歯ブラシを見た瞬間、考える間もなく、ズボンに手をかけて、パンツごと一気に膝まで下ろし、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
ちえりが「ちょっと、やめてよ」と言いながら俺の手を掴んだが、止めるほどの力ではなかった。たぶん、俺に対する後ろめたさと罪悪感から、本気で止めることはできなかったのだろう。
俺は静かに、その歯ブラシで自分の肛門を擦った。
ゴシゴシ、シュッ、シュッ。
ゴシゴシ、シュッ、シュッ。
敢えてリズミカルに歯ブラシを往復させていると、中原中也の『サーカス』のフレーズが浮かぶ。
ゆあーんゆよーんゆやゆよん
ゴシゴシシュッシュゴシシュッシュ
俺のうんカスが付いた歯ブラシでいつか松茂良が歯磨きするのかと思うと、心がすうっと軽くなった。歯磨き粉のミントの爽快感と一緒に、俺の肛門の名残を口腔内で味わえばいい。
なんだか笑えてきた。肛門に柔らかい毛先が触れる物理的なくすぐったさと、浮気相手に復讐しているその行動の滑稽さ。そして、脳裏に浮かぶ中原中也。あまりにもコメディな状況だった。
俺はケタケタと笑い声を上げながら肛門を磨き続けた。
だが、その笑いはいつしか、嗚咽と区別がつかなくなっていた。
松茂良とのセックスも、生で挿れて、膣内射精で終わるのが常だと聞いた。
俺と付き合い出した頃、ちえりは生理が不規則で、産婦人科に通うようになった。医者に言われてピルを飲みはじめ、生理周期が整っていった。おかげで仕事のスケジュールも立てやすくなったらしい。
俺は内心、都合が良いと思った。ちえりがピルを飲んでいるなら、こっちも遠慮なく中に出せる。
最初はゴムを付けていたけれど、雰囲気で流されたりして徐々に付けないタイミングが増え、気づけばいつの間にか生で挿れて、そのまま中に出すようになっていた。
でも、俺にとって生中出しというのは、特別な意味があった。相手の体の中に、自分自身を刻み込むような行為。「俺だけのものだ」という存在証明のようなものだった。
それを、松茂良にも許しているというのが、どうしても許せなかった。松茂良の精液と俺の精液がちえりの体の中で混ざっているのを想像すると、気持ちが悪くなってきて、思わず小ゲロを吐いてしまった程だ。
だから俺は、十二個入りの最も分厚いコンドームを一箱、念入りに選んで買って、ドラッグストアで入れてもらった紙袋ごとちえりに渡した。
「頼むから、松茂良とする時はちゃんと付けてくれ」
土下座するほどの勢いで頭を下げた。情けなくても、そうするしかなかった。
なのに、それでもちえりは松茂良との中出しをやめてはくれなかった。
案の定、松茂良は前科持ちだった。
天願マングーズという地元チームの元副総長だったらしく、傷害罪などで、これまでに五回も逮捕されているという。
それを知ったちえりは、流石に驚いたらしい。
怖くなって別れてくれるかと思いきや、期待通りにはならなかった。
「前科持ちでもいい人はいるし、過去の話だし」
「過去の話」で済まされる回数ではない。五回も逮捕されていたら、六回目が起きてもなんの不思議もない。
暴力が習慣になっているということだし、人間の性根のクセみたいなものだ。そんな奴と一緒にいたら、次に巻き込まれるのは、ちえりかもしれない。
一回や二回なら、まだ更生の余地も考えられるが、五回じゃもう無理だろう。
普通の人間は、暴力なんて振るわない。子供ならまだしも、倫理も秩序も学んだ大人には、手を挙げるという発想そのものが普通はそもそも頭に浮かばない。しかし、暴力が当たり前の世界で育った人間は、後からいくら倫理を学び直しても、身体の奥底に暴力という選択肢が染みついている。
まともな大人なら、怒りや復讐心が湧いたとしても、「殴りたい」と思いはするかもしれないが、実際に手は出さない。まずは理性が働くし、その次に法律が抑止力となる。だけど、五回も逮捕されているということは、その法律すら効いていないということだ。頭ではなく、骨の髄まで暴力が沁み込んでいる証拠だ。
しかも松茂良は、幼い頃から空手や格闘技をやっていたらしい。俺も、小学一年生の頃から大学を卒業するまで空手を習っていたから分かるが、武道というのは、自分の強さを誇示するためのものでは決してない。それを人に使うなんて、正当防衛でもなければあり得ない、恥ずべきことだ。
だが、松茂良はそれをやった訳だ。しかも一度や二度じゃなく、実際に逮捕されただけで五回も。
といった話を、俺が真剣に語っても、ちえりは全く動じなかった。
「それでも今は優しいし」
そんな風に軽く流して、松茂良との付き合いをやめようとしなかった。
悪い奴らの常として、松茂良も当然のように大麻を嗜んでいた。それを知ったちえりが松茂良を嫌いになるのではと願った。
なにせ、カナダで大麻を吸った友人の話をしただけで過度な拒否反応を示したちえりだ。
しかし、実際にはそうはいかなかった。
「お母さんも一緒に吸ってたって言ってたから。多分、大丈夫なんだと思う」
育ちが良すぎる弊害が出た。
母親を心から敬愛しているが故の考え、「お母さんと一緒なら大丈夫」だった。全てのお母さんが正しいとまっすぐに信じているのだ。
俺は内心無駄だと悟りながらも大麻の危険性を説いた。
「確かに、アルコールやタバコと比べて依存性は低いという意見はある。でも、大麻なんて五十年以上も前から国際条約で規制されてるんだぜ? そんなもんが安全な訳ないだろ」
「そうなの? 医療用大麻はほとんどの国で認められているのに、違法な日本はおかしいって松茂良さんが言ってたよ」
「出たよ。大麻を吸いたい奴らの常套句『医療用大麻』。医療用大麻の合法化を本気で進めたいのなら、まず大麻を吸うのをやめろっての。嗜好用大麻をやっている奴が医療用大麻が違法なのはおかしいって意見するのは、頓珍漢にも程がある」
「どこが? なにが頓珍漢なの?」
「だから、医療用大麻と嗜好用大麻を恣意的に混同させてるってことだよ」
「よくわかんない。もういいよ。私は松茂良さんが正しいと思う」
俺の不安も、怒りも、心配も、全てがちえりには届かなかった。
それにしても、母親と一緒に大麻を吸っているってどういう状況だよ。松茂良の家庭は母親公認マリファナ同好会かなんかなのか。
ちえりは、松茂良と俺を比較するようなことをよく言った。
「松茂良さんの方が背が低いからキスしやすい」
「ちんちんは鮭人さんの方が好き」
「松茂良さんのは、シリコン入ってるのに包茎なの。変じゃない? なんでそっちの手術を先にしなかったんだろう」
あまりにも無邪気に、悪意なく言うのだった。
その度に、俺は感情を殺してできるだけ笑った。
俺はもう、松茂良に負けないように必死だった。ちえりに会うたび、「大好きだよ」と何度も伝えた。それはほとんど命乞いのようなものだったが、ちえりは俺の言葉を喜んで受け入れた。
「嬉しい。鮭人さんはちゃんと言葉で伝えてくれるから」
松茂良はそういう言葉を滅多に口にしないらしかった。
ちえりは松茂良の真似をして、沖縄弁っぽくこう言った。
「『愛してるとか好きとかさー、慣れてきたら言わんなるさ? それが寂しいからさ、最初からあんまり言わんようにしてるわけさー』って」
バカじゃねえの、と思った。
恋なんて、いつ終わるかわからない。だからこそ、言葉にして惜しみなく伝えるべきなのだ。今日が最後になるかもしれないのだから。
俺の愛は常に情けないほど剥き出しだった。まるで犬だった。舐められても、蹴られても、しっぽを振って、ただ好かれたくて、吠えることもできずに。俺は、犬になっていた。




