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逢瀬の日々

 それ以来、ちえりと俺は毎週のように映画を見に行った。

 元々俺は映画が好きで、学生時代は映画監督になろうと思っていた程だった。

 普段から映画はよく観に行くので、そのために休日に出かけることは不自然ではなかった。映画を観たという事実があれば、それは十分なアリバイとなるし、感想の一つや二つを口にすれば信憑性は保たれる。

 初めて二人で見た映画は、松居大悟監督の『ちょっと思い出しただけ』だった。

 上映後、ちえりと二人で新宿のサザンテラスを歩いた。この頃はまだコロナ禍で、街を歩く人たちは皆、マスクをしていた。もちろん、俺もちえりも常につけていた。

「冒頭でさ、タクシーの車窓から、マスクを外してキスを交わすカップルの姿が一瞬映ったの気づいた?」

「ありましたよね。なんか妙に生々しかったけど、あれって、実際のカップルだったんですかね」

「流石に隠し撮りってことはないと思うけど、それくらいのリアリティがあったよね。キスするためにマスクを外すのって、なんかエロかったな」

 そう言いながら俺は立ち止まって、彼女のマスクの紐に指をかけた。ちえりは目を閉じたまま、俺の方を向いた。マスクを外し、そのまま俺はキスをした。人々が行き交うのも憚らず、何度も唇を重ねた。世界中でソーシャルディスタンスが叫ばれていた最中に、俺たちは人混みのど真ん中で、濃厚接触していた。

 他にも、とにかくたくさんの映画を観た。

 名画座に通って『コミック雑誌なんかいらない』『戦場のメリークリスマス』『GONIN』といった80年代の邦画の名作を観たり、新作は『ビリーバーズ』『さかなのこ』『ドキュメント サニーデイ・サービス』など、単館系の映画をよく観た。

 大木裕之監督の『エクスタシーの涙・恥淫』というやけにマニアックな珍作を観るために、わざわざ北千住から歩いて十五分もかかる小さな上映スペースにまで足を運んだこともあった。

 映画の後は、もちろんホテルに行ってセックスをした。GPS対策のために、スマホは映画館のチラシ置き場のチラシの奥そこに忍ばせておいた。そうすれば、俺はまだ映画を観ていることになる。セックスを済ませたら戻ってきて回収するという流れだ。

 時には映画館で彼女の太ももに手を這わせ、ショーツ越しにしばらく撫でてから、巧みに指を滑らせ、濡れたまんこの中を刺激した。ホテルではなかなかイカないちえりが、映画館だとあっさりイク。

「ホテルだとイカなきゃって思って緊張する。映画館だと、映画を見てるついでみたいな感じで、気が逸れてるからイケる」

 と、ちえりは自分で分析して語った。

 ピッチャーマウンドに立ってマイクロフォンを投げつける内田裕也を観ながら、雨の中流れるちあきなおみの『紅い花』を聴きながら、ちえりは絶頂に達した。

 セックスの相性は、遺伝子レベルでぴったりだった。これ以上の相手はもう二度と現れないんじゃないかと本気で思った。ちえりと何度か会ううちに、俺の身体はすっかり条件付けされてしまった。ちえりの匂いを嗅いだだけで、反射的に下半身に血が集まる。電車の中で、ふいにあの匂いを感じて興奮したら、隣のおっさんが片手をつり革に上げていただけだった、なんてことも度々起きるようになった。


 ちえりというのは、もちろん本名じゃなくて源氏名だ。

「さくらんぼみたいにちっちゃくて可愛らしいから、チェリーって呼びたさーね。だから、ちえりでどうね?」

 と言って名前を決めたのは、スタッフの松茂良(まつもら)だった。受付にいた、ナマズタトゥーの梅毒患者だ。

 たしかに、ちえりは小さくて、甘酸っぱくて、触れれば潰れてしまいそうな儚さを持っていた。さくらんぼに由来するその名前は、妙に的を射ていた。ちえりもその名前をいたく気に入っていて、松茂良のセンスを褒めた。

「ひと目見ただけでちえりって名付けた松茂良さんすごくないですか? わたし、いつもさくらんぼ柄のパジャマ着てるんだよ。なんだか見透かされてるみたい。髪の毛を染め直したのも誰よりも先に気づいてくれるし、よく人のこと見てるんだよね」

 そんな話を聞けば、俺は少なからず嫉妬したが、誰にも内緒で働いているオナクラでの出来事を話せる唯一の相手が俺なのだと思うと、悪くない気分でもあった。

「店長も松茂良さんのことは本当に信用してるの。お店の女の子から誘われることもあるらしいんだけど、ちゃんと全部断ってるし、店長に報告してるんだって」

 そうは言っても、所詮はナマズのタトゥーだぜ。十中八九、梅毒患者だぜ。そう思っても、口にはしなかった。


 ちえりと過ごす時間は、とにかく癒されて、心がほぐれていくようだった。

 仕事でどれだけヘトヘトに疲れていても、ちえりと会えば不思議と力が湧いた。ぎゅっと抱きしめて、少し甲高くて甘く可愛い声を聞くだけで、すべての悩みや疲れが吹き飛んだ。

 時々、ちえりの部屋で過ごすこともあった。

 K-popグループ「SEVENTEEN」のグッズで埋め尽くされた部屋は、常にちえりの匂いが充満していて、中に入っただけでちんこが勃起した。

 GPSの問題があり長居はできないため、短めに事を終えると、ちえりは必ず駅まで見送ってくれた。

 改札で人目も憚らずにキスをして、名残惜しみながら電車に乗って帰った。

 不倫には違いなかったけれど、できるかぎり誠実であろうと努めてきた。

 妻の仁枝とは、長男の真風彦が生まれて以降、かれこれ五年はセックスなんてしていなかった。最近ではセックスどころかキスもしていない。オナニーだってちえり一本。ちえりでしか抜かなかった。俺のオカズは全てちえりだった。

 最初はちえりとのセックスを自分のスマホで撮影していたが、それはあまりにリスクが高かった。なにせ、家族共有で使用している自宅のPCと自動で同期されてしまうのだ。たとえ非表示フォルダに移動させたとしても、PCからなら入れてしまうので無意味だった。

 だからそのうちに、撮影はちえりのスマホで行い、俺がヌキたくなったタイミングでLINEで送ってもらう方式に落ち着いた。再生後は、俺が「たくさん出たよ」と報告し、ちえりがその動画を確実に削除する。俺たちはそれを「ちえにー」と呼んでいた。

「ちえにーしたい」とLINEを送ると、夜でも昼でもハメ撮り動画がポンと送られてくる。会えない日が続くと、いてもたってもいられなくなって、会社のトイレにこもってちえにーをした。

「次に会える日まで、必ず毎日ちえにーする」という目標を立てて、二人で実践した時もあった。

 たまに夜遅く、家族全員が完全に寝静まっていて、起きてくる可能性がゼロに等しいと判断できた時に限っては、ビデオ通話でオナニーの見せ合いをした。

 恥もプライドも全部かなぐり捨てて、精神的にも素っ裸になってオナる姿を、お互い晒し合った。

 俺は本当にちえり以外では射精しなかった。それが俺なりの精一杯の誠実さだった。

 ただ、それでもちえりは、ふとした拍子に不満を滲ませた。

 たとえば、俺の歩幅が広すぎて足並みが揃わないとか、そんな些細なことで口論になると、急に核心に触れるようなことを言い出す。

「わたしって鮭人さんにとってなんなんですか?」

「彼女だと思ってるよ」

 本心で返しても、ちえりの顔は曇ったままだった。

「でも、奥さんがいるのに彼女って、おかしくないですか? 私は鮭人さんのこと、彼氏だなんて言えないよ」

 ちえりは本来、倫理観があるまともな子だった。家族を大事にしているし、浮気なんて、するのもされるのも想像したことすらなかったという。一般的な善悪の基準を自分の判断にも当てはめている、良識的な女の子だった。

 以前、カナダへ旅行に行った友人のエピソードをちえりに話したことがあった。

「カナダって政府公認の大麻ショップがあって、成人なら誰でも買えるらしいんだ。村重さんも買って、宿泊先のホテルで吸ってみたんだって。体は重くなるけど、心はふわっと楽になって、ゆったりした世界に浸る感じらしい。大麻を吸ってセックスするとめちゃくちゃ良いってよく聞くじゃん? 村重さんは相手がいなかったから一人でしてみたんだって。トイレで。そしたら想像以上に気持ち良くて、急いでその感覚をスマホにメモしたんだって。シラフに戻って読み返したら、『どぴゅどぴゅどぴゅーっ!』とだけ書いてあったらしい」

 面白トークのつもりだったが、ちえりは無反応だった。

「面白くない? スマホのメモに『どぴゅどぴゅどぴゅーっ!』って」

「違法薬物の使用をふざけて話すのは不謹慎だと思います」

 トークがつまらなかった訳でも、オチが聞き取れなかった訳でもなく、単純に大麻への拒否反応だった。

 日本に持ち帰ったり日本国内で使用するのは当然違法だが、カナダでは合法で、日本人でも使用可能であることを丁寧に説明した。それでも彼女は納得できないようだった。その時、俺は心の底から、この子は本当に育ちが良くて純粋無垢な子なのだと尊く思った。ちえりを大切にしなければならないと改めて心に誓った瞬間だった。

 友人の紹介とはいえすんなりオナクラで働き始めたのも、出会ったばかりの中年客と警戒心もなくホテルへついて来たのも、決してちえりの倫理観が希薄だったからではなく、愛されて育ったがゆえに、他者への無防備な信頼というものが築かれていたからに違いない。

 そして、素直にスマホでちえにー用の動画を送ってくるのも、映画館でエクスタシーに達するのも、決して淫乱だからではなく、人の悪意に触れた経験が乏しいがゆえに、俺の剝き出しの欲望さえも好意として無邪気に受け入れているだけなのだ。

 しかし、ちえり自身が、そんな逸脱した行動と本来持っていた良識との乖離に戸惑いを覚え始めているのを、俺はほのかに感じるようになっていた。


 この頃、娘の真衣莉が芸人として売れ始めていた。

 女子中学生の漫才コンビという物珍しさも手伝って、YouTubeにアップされたネタ動画はあっという間に百万回再生を超え、バズった。途端にテレビ局や制作会社からも連絡が入るようになり、バラエティ番組への出演が続いた。

 お笑い好きのちえりは、もちろん俺の娘の活躍ぶりを知っていた。

 ちえりとホテルでダラダラ過ごしている最中に、なんとなくつけていたテレビから、真衣莉たちの話題が流れてきた。番組MCが「最近は中学生でも漫才やってますからね~」なんて軽口を叩いたのに合わせて、テレビ画面の右下に真衣莉の宣材写真がパッと表示された。

 真衣莉が出る番組は一通りチェックしていたけれど、ワイプ写真にまで気を配ることはできていない。完全な不意打ちだった。

 ちえりの前で子どもたちの話をするのは、禁句というほどじゃないにしても、できるだけ避けてきた。ちえりが俺の家庭を想像するのが嫌なのが態度で伝わってきていたからだ。

 自分の娘の写真が、ラブホのテレビに映し出されるなんて、予想だにしていなかった。ちえりは黙って画面を見つめていた。俺は空気を変えようと思い、わざとおちゃらけて言った。

「最近ちょっと売れ始めてるんだよね。テレビもちょこちょこ出ててさ。そのうち俺より稼ぐかもよ」

 それが気に障ったのか、ちえりは明らかに不機嫌になった。

「子どもで笑いを取るって、ズルくないですか?」

 芸人としての娘を否定してきた。それまでにも、ネットやSNSでは似たような批判はいくつも見かけてきた。しかしそれは、くだらない無責任でナンセンスな書き込みに過ぎなかった。ちえりの口からそれを聞かされるとは思わなかった。俺は癒されるためにちえりに会いに来ているのに、なんでこんな刃で切りつけられなきゃならないんだ。

「お笑い、特に漫才ってのは、演者の個性や生き様をネタにして笑いを取るのが基本なの。子どもが子どもであることを武器にするのがズルいなら、EXITがチャラさで笑い取るのもズルいし、濱田祐太郎が目が見えないことで笑いを取るのもズルいって話になるよ」

 俺は、正論で殴った。

 頭では理解していた。女が求めているのは論より共感、もしくは抱擁だということくらい。だが、感情が先走って言わずにはいられなかった。

 ちえりの顔が歪み、目元が濡れていた。

「わたしだって、本気でズルいと思って言ったわけじゃないよ。わたしの気持ちも、ちょっとはわかってよ。鮭人さんのお子さんを、いきなりあんな風に見せられてさ。可愛い子だなって思ったよ。でも、それが辛いのもわかってもらいたいです」

 彼女はきっと、俺の娘に嫉妬しているわけではなかった。気になりつつも想像することを避けてきた俺の家庭という現実を、テレビを通じて唐突に突きつけられたことが、あまりにもショックだったのだろう。

「つらい思いをさせてるなら、別れるよ。ちえりには幸せになってほしい。ほんとにそう思ってる」

 俺はそう伝えた。

「ちゃんとした彼氏をつくりたいなら、いつでも言ってほしい。俺は身を引くから」

 それが偽らざる気持ちだった。

 もちろん、仁枝に対する後ろめたさもあった。仁枝をこれ以上傷つけたくないし、二人の子どもを捨てる気もなかった。ちえりにすがりつくような真似は、決してしないつもりでいた。だが、ちえりは泣きそうな顔で言った。

「そんな気持ちで付き合われるのも腹が立つ。私は、彼氏つくるつもりなんてないから」

 ちえりは俺に本気になってくれている。それがわかって嬉しかったが、同時にその純粋さが痛いほど申し訳なくて、胸が張り裂けそうだった。ちえりと一緒になるつもりはないのだから、いつかは別れが来るのだ。

 だからこそ、ちえりにはこの先を生きる力をつけて欲しいと思った。

 オナクラでいつまでも働いていられるわけがない。もう二十六歳になっていた。決して若いとは言えない年齢だ。どこかで社会に出る準備をさせてやらなきゃいけない。せめて一人でも生きていけるようにと、彼女の将来を考えた。

 ちえりが本当にやりたかったのは、音楽や映像の世界に関わる仕事だった。学生時代の就職活動では、総合エンタメ系の会社を目指して説明会に足を運び、いくつもエントリーを出したらしい。

 その頃にちえりが使っていた手帳を見せてもらったことがある。

 全てのページが手書きのメモで埋められていて、自分の将来を夢見て真面目に一生懸命学んでいる姿が浮かんできた。

 しかし、実際に内定を得られたのは本来目指していたのとは異なるWEB系の制作会社で、しかも三年足らずで退職することになり、現在はオナクラ勤務。理想と現実の違いなんてよくある話だが、こんなにも勤勉で、自分の意思で活動していたちえりが、今では流されるままに生きているだけの様な気がして、やるせ無い気持ちになった。

 今からでも、ちえりが本当に心から好きなことを仕事にできないものだろうか。

 俺は、アダルトビデオ業界を辞めた後、一般企業向けの映像制作を行う会社で働き、イベント映像や製品紹介ビデオなどのプロデューサーをやっていた。ちえりの目指していたエンタメ志向とは若干異なるが、近い職種だし、ある程度の知識はある。ちえりを再就職に導けるはずだと思った。

 ちえりは特に音楽が好きだった。音楽に関わる仕事をしたいと話していた。だから、レコーディングスタジオを経営している知り合いに連絡して、「バイトでもお手伝いでもいいから、使ってやってくれないか」と頼んだ。当然、いきなり雇うという話にはならなかったけれど、「雑用くらいならいつでもウェルカムだよ」と言ってもらえた。

 オナクラの仕事はシフトの融通がきくし、高収入でもある。その仕事を続けながら、たとえ安くても音楽の現場で実際に手を動かし、少しずつ専門的な知識や技術を身につけていけば、将来、必ず役に立つ。

 それ以外にも、音響制作や映像制作に関する求人を見つけては、「ここ応募してみようよ」と励ました。履歴書や職務経歴書も、レンタルルームを借りて二人で一緒に作成した。 パソコンに顔を近づけてキーボードを叩くちえりの横顔を眺めながら、「そこはもっと具体的に書いたほうがアピールになるよ」と教えるたび、「なるほど。やっぱり鮭人さんはすごいです」と感心しながら、ちえりは素直に打ち直した。

 だが、狭い個室で肩を寄せ合っていると、その匂いと体温にやられて理性はどこかへ去り、監視カメラがあるのも構わずに俺たちはセックスをした。むしろ、この監視カメラの向こうで誰かに見られているのでは、というスリルと背徳感に、より興奮を煽られた。

 後日、部屋の持ち主からお怒りのメッセージと共に、思いっきりクンニしている最中のスクショまで送られてきて焦ったが、言われるがままに罰金3万円をPayPayで送金して事なきを得たのも、二人だけの共犯めいた良い思い出となった。

 そんなトラブルもあったものの、志望動機の添削から面接の練習まで、俺はまるで保護者のように彼女の人生を背負おうとしていた。自分への損得勘定なんて一切抜きに、本当の意味でちえりを支えたかった。

 結果はどこも採用とはならなかったが、あの狭い部屋で未来の話をしていた時間は、セックスとは全く異なる、純粋な心地良さがあった。


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