はじまりはオナクラにて
──パンツの縫い目が尿道に食い込んで痛いほどチンポジが悪い時ってないかい?
会社の同僚である金光の送別会は、思いの外盛り上がることなく二十時過ぎには終了し、二次会もないまま解散となった。
既に有休消化期間に入っていた金光に合わせる形で、職場からはだいぶ離れた彼の地元の居酒屋で行われたため、参加人数も芳しくなく、会の途中からすでにお開きムードが漂っていたのだ。
妻の仁枝には帰りが遅くなると伝えていたし、せっかく町田まで来てそのまま帰るのも勿体ない。スマホで近くの風俗店を検索し、ネット上の口コミや風俗専門の掲示板の情報を吟味した上で、店舗型のオナクラ店『ラブTHEはんど』へ行くことにした。
駅前すぐのビルにその店はあった。軽く酔いを冷ますため、隣のマツキヨで一番安い六十八円のお茶を買い、一気に飲み干してからエレベーターで六階へ昇った。
受付の男はやたら肩幅が広く、Tシャツの袖口から色褪せたタトゥーが覗いていた。はじめは龍かと思ったが、よく見ると溺れたナマズみたいな造形だったので直視しないことにした。
日本ではタトゥーを入れるのに免許も資格も不要なため衛生管理が行き届いておらず、タトゥーを入れた日本人の多くがB型肝炎やC型肝炎に感染していて、下手すると梅毒やエイズなどの可能性すらあると、看護師の彼女を持つ友人から聞いたことがある。この男も何らかの感染症を患っているに違いない。
「女の子の指名はどうするね?」
はっきりとした沖縄訛りで、男はパウチ加工された女の子の写真を指し差し出した。上京してきたばかりなのか、それとも、沖縄出身であることに強いアイデンティティを持っているのか。
扇状に並べられた四枚の写真。いずれも制服を着ているが、当然女子高生が働いている訳がないので、実年齢は上なはずだ。しかし、どの子も無理なく似合っているように見えた。
風俗店の写真といえば加工が強めで、輪郭がシャープすぎたり、目がハムスターみたいにデカかったりするイメージがあるが、この店の写真は、加工一切なしの素材のままでプリントアウトされていた。俺はアダルトビデオのメーカーに勤務していたことがあり、散々パッケージデザインをしてきた経験から、写真をパッと見れば、それがどの程度のレタッチを施したものなのか即座に判断できる。無加工ゆえに粗も見えるが、その自然体な雰囲気には好感が持てたし、何より正直に勝負する店の姿勢が信用できた。
「やっぱり風俗はオナクラに限るな」
心の中で独りごちた。
オナクラとは、オナニークラブの略で、ざっくり言えば“手コキ専門の風俗店”だ。挿入はもちろん、フェラもない。手コキ抜きのみ、しかもオプションをつけなければキスも脱衣もなし。ソフトサービスが売りの業態である。
だからこそ、こういう店にはスレてない女の子が集まりやすい。ソープやデリヘルで働く覚悟はなく、キャバクラで高いホスピタリティを求められるのも苦手。でも、学費が足りないとか、留学資金が必要だとか、好きなアーティストのライブを日本全国どこでも追っかけたいといった、ごくありふれた理由を持った女の子が、最終的にオナクラを選ぶ。どこか人見知りだったり、内向的だったり、でも可愛くて実はクラスで一番人気だったけど、本人はそれを全然わかってなさそうな、そんな人間味の溢れる素人の女の子たち。そう、素人の女の子。オナクラで働く女の子は風俗嬢ではない。俺の理屈の上では、粘膜の接触を伴わないということは風俗には該当しないからだ。見知らぬ素人の女の子に合法的にちんちんを握ってもらえるのが、オナクラの最大の魅力である。
四人の中から最も新人の女の子、つまり、一番最近に入店した子を聞くと、金髪ボブカットの「ちえり」が、まさに今日、体験入店で入ったばかりだと教えてくれた。
確かによく見ると、その子の写真だけパウチ加工されておらず、プリントされた光沢紙のままだった。
金髪であるものの、ギャルっぽさは全く感じないすっぴんに近いナチュラルメイクで、笑顔が可愛かった。俺は躊躇いなく、ちえりに決めた。
「オプション、どうするね? 裏に書いてあるさ」
その言葉に従って写真を裏返すと、びっしりと項目が並んでいた。まるで回転寿司のメニュー表だった。
──1,000円
つばローション/言葉責め/服の上からパイもみ/お尻さわり/抱きつき/上半身においかぎ/下半身においかぎ/頭なでなで(女の子の)/足舐め(女の子の)/耳舐め(女の子の)/ワキ舐め(女の子の)/顔面踏み攻撃/ビンタ一発/けり一発/うでまくら/つば口垂らし/上半身ランジェリー/下半身ランジェリー/M字開脚
──1,500円
乳首舐め(お客様の)/添い寝/足コキ/あえぎ声/耳舐め(お客様の)/顔面騎乗
──2,000円
フレンチキス/ワキの下コキ/上半身ヌード(お触りなし)/パンツお持ち帰り
──2,500円
生乳揉み/下半身ヌード(お触りなし)/コスプレ各種/おしっこお持ち帰り(容器持参)
──3,000円
ディープキス/生乳揉み&吸い/オールヌード(お触りなし)/オナニー鑑賞/おしっこ見学
──3,500円
オールヌード/ピンクローター(女の子にあててOK)/女の子をビデオ撮影(5分以内顔以外)/プレイ録音(10分以内)
見ているだけで楽しくなるような字面が並ぶが、まだ本人と会ってもいないのに、どんなプレイをするかなんて決めようがなかった。しかし、オプションを何もつけないというのは、女の子にケチくさく思われそうで嫌だ。
せめて何かひとつは付けなくてはと思い、咄嗟に目についた「ワキ舐め(女の子の)」を選んだ。
実物のちえりは写真よりも可愛かった。整った綺麗な顔立ちだが、鼻筋が通っていないことであどけなさも感じ、親近感が湧く。150㎝に満たない小さな身長で愛嬌もあり、どこかのご当地アイドルとかにいそうな雰囲気だった。
接客中のキャラクターがまだ手探りなのか、ところどころに「です」「ます」が漏れ出していた。砕けた言葉を必死で使おうとしている感じが、育ちの良さや真面目さを際立たせる。
会話は妙に弾んだ。俺が投げかける些細なボケひとつひとつに、ちえりは声を上げて笑ってくれた。一緒にいる時間がとにかく楽しかった。
お笑いを見るのが趣味で、特にランパンプスが好きだという。かなりマイナーなコンビなので、俺が知っていたというだけで、彼女の瞳がパッと輝いた。実は俺も相当なお笑いフリークで、好きが高じて過去にアマチュアで漫才をやっていたこともあった。そして、そんな血を引いたのか、娘はまだ中学生なのに友達とコンビを組んでフリーの芸人として活動をしていた。興味のない人にはなんて事の無い情報だろうが、ちえりは身を乗り出し、尊敬の眼差しで俺を見つめてきた。
「お笑いやってたなんて、すごすぎる! 中学生で芸人なんて娘さんもサラブレッドですね」
「すごくもなんともないよ。一回だけM‐1グランプリで1回戦通過したことあるけど」
「それ、十分すごいですよ」
「ナイスアマチュア賞も獲った」
「えぇ! じゃあ、YouTubeでネタ観れるじゃん! コンビ名教えてください!」
水商売や風俗嬢特有のマニュアル通りな合いの手とは明らかに違う、気持ちのこもった共鳴がそこにはあった。
もちろん手コキもされたし、射精もした。だけど、その気持ちよさ以上に強く残ったのは、ちえりの声や笑顔だった。弾む様に耳に飛び込む幼さの残る高い声。かといって、ぶりっ子めいた舌足らずな感じではなく、明瞭で透明感のある愛らしい響き。そして、嘘のない自然にこぼれる微笑みに、目が合っただけで胸が高鳴った。
それだけで、手コキに匹敵する程の快感だった。
「初日でどんな人が来るのか不安だったけど、最後に鮭人さんみたいな人に会えて楽しかったです。この仕事、続けていけそうです。ありがとうございました」
ちえりはそう言って、礼儀正しくぺこりと頭を下げた。彼女にとってオナクラ出勤初日の最後の客が、俺だったのだ。
帰る間際になって「ワキ舐め(女の子の)」をし忘れていたことに気づいた。
「今、舐めてもいいかな?」
「えっ、今ですか?」
ちえりは少し動揺し、恥ずかしがりながら右肘を挙げて、半袖のブラウスを捲った。
その刹那、強烈な匂いがふっと立ち上がってきた。切り刻んだまま冷蔵庫に放置しておいた玉ねぎを直接鼻に突っ込んだような刺激臭で、甘ったるさと酸っぱさの入り混じった香りだった。
決して良い匂いではない。むしろ、普通の感覚なら顔を背けたくなるような生々しさがあった。
でもその時の俺は怯まなかった。むしろ、感動すらしていた。
「可愛い顔して、こんなにもワキガだったのか」
舐めると塩気と酸味が同時にやってきた。ワキガの匂いがそのまま味になっていて、エグ味の刺激によって舌が少しピリついた。うっすら漂う制汗剤の香りは嗅覚のバランスを乱し、ワキガを打ち消すどころか隠し味としてかえって匂いを際立たせていた。俺はその生々しい匂いを咀嚼するように舐めた。
ちえりはくすぐったいのか、恥ずかしいのか、俺が舐めている間中、ずっとケラケラと笑い声をあげた。情緒なんかこれっぽっちもなかったのに、それがたまらなく可愛かった。
俺は腋舐めを止めて、
「駅まで一緒に帰る?」
と訊いてみた。
ちえりは一瞬だけ驚いた顔をして、それから、
「私、精算とかあるので、マツキヨの前で待っててください」
と言った。
数十分後、マツキヨの前で再会した俺たちは、何気のない会話をしながら歩いた。駅からはどんどん離れていったのに、お互いになんの疑問も持たなかった。
そして、ごく自然にホテルへチェックインした。
ちえりはつい最近まで、WEB系の会社でWEBディレクターとして働いていたらしい。WEBディレクターと言えば聞こえはいいが、スケジュール管理や進行チェックのような雑務ばかりで、毎日ひたすら膨大なタスクに追われる日々だったという。ストレスと疲労で体調を崩し辞めることになり、風俗で働いていた友人に相談したところ『ラブTHEはんど』を紹介してもらい、試しに「ちょっとだけ」というつもりで体験入店してみたそうだ。
プロフィールでは二十歳となっているが、実年齢は二十五歳だった。それでも俺とは一回り以上も歳が離れている。
部屋に入ってすぐ、抱き合ってキスをして、服を脱がせた。
パンツを下ろした瞬間、ムワッとした生暖かいフェロモンが襲ってきた。
腋の匂いをさらに熟成させたような、生臭さと湿り気の増した、ねっとりとした淫らな匂いだった。ちえりは腋だけでなく、陰部のアポクリン汗腺も発達しているタイプだった。
まんこが臭い女、いわゆるスソガは日本人だと珍しく、数パーセント程度しかいない。これは、アダルトビデオ業界で働いていた際の知見による、かなり正確な数値だった。希少な珍味に出会えたような喜びがあった。
可愛らしい見た目とのギャップに胸を鷲掴みにされ、そのままの勢いでクンニリングスをしようと顔を近づけたら、
「やっ、やだ……恥ずかしい」
と、手で顔を押し返された。
「ダメなの?」
「今日は、ちょっとやだ」
もしかしたら匂いに自覚があったのかもしれないし、単に恥ずかしかっただけかもしれない。恥じらいながら拒絶する仕草と、徐々に室内全体へ充満していく酸っぱい匂いに、俺はいっそうムラムラしてきた。
きっと、ブルーチーズが美味い理由と同じなのだろう。腐敗ギリギリの発酵が生み出す禁断の香り。脳では警戒しつつも下半身が歓喜するという二重構造だった。それに加え、陰毛がやたら濃かった。
最近の若い子は脱毛していたり、せめて自分で整えていたりするものだが、彼女は完全にナチュラルな状態で生やしっぱなしにしていて、野生そのものだった。そこに妙な素朴さと垢抜けなさがあって、俺は逆に惹かれた。色気というよりも経験の少なさを物語る生活感があった。
クンニリングスは拒まれたので、舌の代わりに指でまんこを弄った。刺激するに従って、最初は透明だったまん汁が徐々に白っぽく濁ってくる。まん汁と空気が混ざって気泡が入り、光が乱反射しているせいなのか、それとも、膣内の常在菌や膣壁の角質が混ざっているためだろうか。
匂いもどんどんキツく濃くなっていく。どんなに強烈な匂いであっても、ちえりから発せられたものだと思うと胸がときめいた。
この匂いを愛せるのは世界で俺しかいない。俺しか知らない秘密の香りなんだ。そう思うとなんだか誇らしかった。
俺は、まん汁がべっとりこびりついて臭くなった自分の中指をベロベロに舐めて味わった。
そんなにもあるがままの彼女を好きになったにも関わらず、その夜、俺はセックスに失敗した。挿入まではしたが、勃起が中途半端で、最後までやり切れなかった。
店で一回抜いていたせいもあるが、それ以上に、彼女があまりに可愛くて、俺のちんちんがビビっていた気がする。
「ごめん。不甲斐ないセックスをしてしまって」
そう謝ると、ちえりは笑い始めた。
最初はクスクスと笑っていたのが、次第にゲラゲラに変わっていき、しまいには腹を抱えてベッドに倒れた。
「不甲斐ないセックスって……。やばい、語呂がよすぎる。流行りそうです」
ちえりは笑い続けた。笑ってもらえて俺も助かった。
終電はとっくに過ぎていたが、そのままホテルに泊まるのは躊躇われた。
俺は過去に、不倫がバレたことがあった。そのことが原因となり、最終的に勤めていたアダルトビデオメーカーからの転職を余儀なくされる程の事態となった。
相手が同じ会社の広報の女だったので、別れた後も同じ職場で働き続けるというのは、仁枝にとって許すことができなかったのだ。
しかも、その女は社内の複数名の男と同時に交際していて、俺との不倫が社内に知れ渡るのとほぼ同時に、その女と関係を持った他の男たちの噂話もあちこちで聞こえはじめ、アダルトビデオメーカーとはいえ流石に風紀が乱れ過ぎているということとなり、協議の末、俺もその女も退職することになった。
ちなみに、その女はその後、当時俺の上司だった人と結婚した。上司とも繋がっていたことに、もはや驚きはなかった。
そんな事件も経ていたため、仁枝は日々、俺の行動に疑いを持っている可能性があった。
iPhoneの「探す」というアプリで、GPSによる位置情報は共有されていた。
常にGPSを監視し続けることは不可能なので、短時間なら大丈夫だろうと判断してホテルまで来てしまったが、すでに三時間が過ぎている。このままこの場所に長居するのは危険過ぎた。
朝までちえりと過ごしたいのは山々だったが、タクシーを使って帰宅するのが賢明と思われた。
ちえりには事情を伝え、一緒には居られないことを謝ると、
「帰っちゃうんですか?」
と、涙目で言われた。
ドアノブに手をかけて今にも部屋から出ようとする俺のところまで、素っ裸のまま駆け寄ってきた。
その姿は、あまりにも愛おしかった。思わず全力で抱きしめてキスをした。
すがるように離さないちえりの腕を、心を鬼にして振り解き、ドアを開けた。
廊下から丸見えなのも気にせずに、全裸のちえりはじっと立ったまま、俺を見つめて涙を流した。
俺は一言「ごめん」とだけ呟いて、逃げるようにホテルから出た。
大通りまで出てタクシーを捕まえようとした瞬間、携帯が鳴った。仁枝からだった。
自分でもはっきりとわかるくらいに心拍数が上がった。ここで電話に出ないのは不自然すぎるが、今出たら確実に、電話越しからでも動揺が伝わってしまう。
瞬時に頭の中で状況を整理する。
送別会で遅くなるとは伝えている。二次会……いや、三次会でみんなでカラオケをしていたら終電が過ぎていたという設定にしよう。
気持ちを落ち着かせながら電話に出た。
「ごめんごめん! 今からタクシーで帰る!」
明らかに声が上擦っていた。
完全にやましいことがある人間の発声だった。
「いや、別に言ってもらえたら朝帰りでも構わないんだけど。どうかした?」
仁枝の冷めた声から、疑いの感情が伝わってくる。
「とりあえず帰るから、先に寝てていいよ!」
これ以上のボロが出ないようにと、早々に電話を切ってタクシーに乗り込む。
移動中の車内で対策を練る。
なぜ俺が動揺していたのか、理屈で説明する必要があった。
「送別会の後、男女2対2でカラオケしていた」
これでいこう。浮気よりは罪が軽くて、仁枝に対して後ろめたいシチュエーション。終電も過ぎてしまったため、「このままだと浮気だと思われてしまう」とテンパっていた、ということにしよう。
次は、匂いだ。鼻をクンクンさせてみたが、自分の匂いなのか、ちえりの匂いが残っているのか、正直よくわからなかった。普段より少し、汗臭さを感じるくらいだろうか。女性的な香水などの匂いとは違うので、浮気とは結びつきづらいと思われたが、油断は禁物だった。
運転手に指示し、自宅から少し離れたコンビニで降ろしてもらった。
タバコとライターを買う。タバコは一番安いechoにした。不慣れな手つきでタバコに火をつけ、煙を吸い込む。それを肺に入れずに吹き出しながら、煙を掻き集めて身体中に塗り込んでいく。
残ったタバコとライターをゴミ箱に捨て、早歩きで家に向かった。
家に入るのが怖かった。
以前の過ちで、仁枝のことを相当に傷つけてしまった。もう一度同じ痛みを負ったとしたら、仁枝はそれに耐えることができないだろうと思った。つまり、もし次、不倫が発覚した日には、仁枝が死ぬか、もしくは俺が殺されるか、そのどちらかだという恐怖があった。
覚悟を決めて玄関のドアを開けた。リビングの明かりが漏れている。中では仁枝が、無言で洗濯物を畳んでいた。
「仁枝ちゃん、ごめん! 送別会のあと、金光と女の子二人の、四人でカラオケ行ってた」
俺の声は緊張で掠れていた。
仁枝は手を止めず、ただ一言。
「それで、良い雰囲気になったりしたの?」
「そんなことは全くない。でも、よくなかったよね。カラオケという密室空間に女の子と行くというのは。それだけでも十分怪しいって思わせるよね。本当にごめん」
ありえない程の速度で心臓が鼓動し、体がガタガタと震えていた。
「別にいいんだよ、ちゃんと話してくれたら。隠すから怪しいって思うわけ。会社にこんな女の子がいるとか普段から話してくれたら、不安にもならないし」
仁枝の表情に、ほんのわずかな柔らかさが戻った気がした。俺の弁解を信じてくれたようだった。
しかし次の瞬間、彼女の顔面は再び硬直した。
「そのかわり」
畳んでいたTシャツを膝に乗せたまま、ハイライトを失った瞳で、俺を真っ直ぐ睨んで言った。
「モテたら殺すから」
落ち着き始めていた心拍数が再び加速した。不倫がバレたら確実に殺される。
「わかってる。カラオケ行ったってだけで、こんなに震えてるんだよ。やましいことなんて出来るわけないから。安心して」
震える手を仁枝の目の前に差し出して見せた。指先がぴくぴく震えていた。
「タバコ臭っ!」
「やっぱり? 隣で金光がずっと吸ってたからな。風呂、入ってくるよ」
どうにかその場は収まった。完全に嵐が去ったわけじゃないが、とりあえず通りは過ぎたように見えた。
風呂に浸かりながら、なおも体の震えが止まらなかった。心拍はまだ乱れている。こんな恐怖、二度と味わいたくない。
そもそも俺はただのおじさんに過ぎない。実年齢よりは若く見られることが多いが、別にイケメンではないし、金持ちでもなければ、話が特別うまいわけでもない。そんな俺が、ごく稀にとはいえ歳の離れた女の子と関係を持てるのは、そのチャンスを感じ取る力と、それを逃さない勇気があったからだ。
今夜のちえり状況で考えれば非常にわかりやすい。緊張感もあって過ごしてきたであろう体験入店の最後に、お笑いという共通の趣味で盛り上がり、気持ちが緩んでガードが取れた。さらに、ワキを舐められて笑ったことで完全に心が開いたその隙を見逃さず、俺は誘った。オナクラという非日常の体験によってちえりの判断能力が麻痺していたこともあり、年上の男性とホテルに行くという意外な展開すらも、すんなりと受け入れてしまったのだと思う。きっと、正常な状態の彼女なら、俺の様な男になびくはずもなかっただろう。
つまり、俺自身が強い意志を持って、浮気のチャンスを冷静に見送る能力を身に付けさえすれば、仁枝を心配させる様な展開は今後一生起こることはないのだ。
俺はもう浮気をしない。風俗にもオナクラにも行かない。そう、心に誓った。
風呂から上がると、仁枝はすでに布団の中で寝息を立てていた。電気は消えていて、部屋は静かだった。俺も隣の布団に潜り込んだ。
その時、スマホが小さく震えた。
《無事に帰れましたか?》
ちえりからのLINEだった。
心臓が跳ね、嬉しさと焦りが同時に波のように押し寄せる。背後の仁枝が動く気配はない。寝息がゆっくり一定のリズムを保っているのを確認し、スマホを腹のあたりに隠すようにして布団の中で返信を打った。
ホテルに置き去りされたちえりは、眠れずにいたらしい。
しばらくやり取りが続き、気がつけば朝が近づいていた。週末に会う約束をして、最後に「おやすみ」と送り合った。風呂場で立てた誓いは、あっけなく破られた。




