第14話 三日月の実
駆け出したい気持ちはやまやまだったが、
水が引いた後の地表は、
事実上の巨大な沼地と化していた。
柔らかく崩れやすい泥に、
一歩踏み出すたびに深く足を取られる。
ハイランドスピアホーンの蹄は硬く小さい。
固い大地を駆けるには適しているが、この泥の上では一歩一歩が落とし穴のようだった。
踏み込んでは引き抜くという果てしない繰り返しの中で、僕は何度もチミダリとアガサに泥の中から救い出された。
そうしてようやく辿り着いた苗木の所在――あの、樹々に囲まれた小さな空地。
周囲の樹々は、
幹の半ばまで泥に埋もれていた。
アガサは心配そうにそれらの樹の状態を確認している。
僕は魂の糸を追い、
苗木の位置を特定すると、
無我夢中で土を掘り返し始めた。
アガサとチミダリは不可解そうにしていたが、それでも僕に合わせて一緒に泥を掻き出してくれた。
僕は大水の中で眠り続け、
ヘドロと河砂に覆われていた。
一昼夜が過ぎ、
僕の休眠は一筋の朝光によって遮られた。
意識が覚醒する。
全身泥まみれだったが、
葉の裏にある気孔を通じて、
再び新鮮な空気を吸い込んだ。
目の前には、
極度の衰弱と飢餓に陥った二人と一頭。
彼らは僕を必要としている。
【スキル発動:結実Lv 1 】
MP 40 / 44
スキルメニューを操作し、まずは腹持ちの良さそうな果実を探す。
果実は僕の枝の上でゆっくりと育ち、熟し、やがて誘うような芳香を放ち始めた。
「これは……また見たこともない果実だな」
チミダリがその一房を摘み取る。
「三日月のような形と色……
『三日月の実』と呼びましょう」
アガサは感謝と敬虔な祈りを込めて、
その一本を受け取った。
まさか、
バナナにこれほど風雅な名前をつけるとは。
チミダリが一本を手に取り、
大きくかじりついた。
「……食感は少し渋いが、皮が厚いな。
だが、中の身はとても甘くて香ばしい」
バナナは皮を剥いて食べるものなんだよ!
どうやら僕が自ら食べ方の手本を示す必要があるらしい。
小鹿が歩み寄り、
片足でバナナの端を踏んで、
口で器用に皮を剥ぎ取ってみせた。
白い果肉を露出させ、一口でかじる。
……ああ、
どうやらこの小鹿も離乳の時期のようだ。
考えてみれば、数分で産まれた個体が数ヶ月も授乳を必要とする方が不自然か。
アガサは僕を真似て「三日月の実」の皮を剥き、一口味わった。
驚きと感動が、言葉にするまでもなく彼女の表情から溢れ出していた。
【重要イベント達成:洪水】
イベント経験値 +60
経験値:129 / 256
僕はまた少しだけ上へと成長した。
枝は伸び、根はさらに深く、
広く張り巡らされていく。
「……生き延びたんだな」
チミダリが感慨深げにその場に膝をついた。
「でも……私の故郷が……」
アガサが堪えきれずに涙をこぼす。
「きっと、生きている奴はいる。
僕たちのように耐え抜いた奴が、
必ずどこかにいるはずだ」
チミダリは優しく彼女を抱き寄せた。
「……ええ。急いで探しに行きましょう。
彼らには助けが必要よ!」
アガサは切実な表情でチミダリの肩を掴んだ。
……そんな体で大丈夫なのか。
一晩中雨に打たれ、休息も取らず、
食べたのはバナナ一本だけだというのに。
もっと何か食べさせなければと考えている間に、
二人はまだ食べ終えていない「三日月の実」を手に取り、
濁流に呑まれた村の一つへと足早に駆け出していった。
……バナナ一房だけで救助に行こうなんて、
無茶すぎる!
このまま死なせるわけにはいかない。
ふと、僕はマーフィーが恋しくなった。
彼ならこんな時、
どんな「意地悪な善行」を積んだだろうか。
どんな皮肉で僕たちを鼓舞しただろうか。
僕の天導虫と小鹿が、二人の後を追う。
天導虫の視点から、
遠方の村の惨状が見えた。
倒壊した家屋、
泥の中に横たわる物言わぬ体、
そして微かな助けを求める声。
チミダリとアガサに耐えられるだろうか。
彼らまでもが、
救助を待つ側になってしまわないだろうか。
分からない。
だが、僕にできる限りの方法で彼らを守らなければならないことは分かっている。
たとえ僕が一本の樹であり、
一頭の小鹿であり、
一匹の小さな虫に過ぎなかったとしても。
僕は彼らの力になる。
同時に、
僕は空いている二本目の枝で、
新しい生命の育成を開始した。
災害の現場だ。
……鋭敏な鼻を持つ個体がもう一匹いれば、きっと役に立つはずだ。
MP 16……15……14……。
激減していくMPを見つめ、
僕は即座に自分を冥想状態へと強制した。
二本目の枝にある胎盤が成長を始めている。
中では狼の仔が蠢いているのを感じる。
あともう少しで、この子が仲間に加わる。
今度はより成熟した個体として産まれてきてほしい。
助けを必要としている人は、あまりにも多いのだから。
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