76話 初めて影から顕現するフェンリル(東京)
夜の東京は、光で満ちていた。
無数の窓、途切れない車の列、遠くで鳴るサイレン。
人の営みが折り重なり、眠らない街を形作っている。
ジャックは高層マンションの一室、照明を落としたリビングに立っていた。
足元に伸びる影が、いつもより濃い。
「……来られるか?」
独り言のように呟いたその瞬間、影が揺れた。
違和感ではない。
確信だった。
床に落ちた影が、平面であることをやめる。
闇が、厚みを持ち、深さを持ち、まるで“向こう側”へと続く穴のように歪んでいく。
空気が、重くなった。
低い唸り声が、部屋の奥からではなく――影の底から響く。
次の瞬間。
影が裂けた。
闇を押し広げるように、巨大な前脚が現れる。
爪は鋼鉄のように硬く、床に触れた瞬間、鈍い音を立てた。
続いて現れたのは、銀色の毛並み。
月光のように冷たく、しかし確かな生命の熱を宿した毛が、ゆっくりと空間に溢れ出す。
そして――
姿を現した。
体高、三メートルを優に超える巨狼。
首から背にかけて流れる鬣は、まるで風そのものを纏っているかのように揺れ、
鋭く裂けた口元から覗く牙は、獣のものではない。
神獣のそれだ。
金色に輝く瞳が、東京の夜景を映し込む。
ビルの光、遠くの塔、無数の人の命。
フェンリルは一歩、前に出た。
その動きだけで、部屋の空気が震えた。
威圧ではない。
暴力でもない。
――存在そのものが、世界をねじ伏せる重さ。
「……ここが、お前の世界か」
声は低く、重く、直接頭の内側に響いた。
フェンリルは窓の外を見下ろす。
小さく見える車、人間、街。
だが、その眼差しに侮りはなかった。
「弱く、脆く……それでも、満ちている」
ゆっくりと振り返り、ジャックを見る。
「この世界に、我を招いた理由。
それを聞こう」
ジャックは、静かに息を吐いた。
恐怖はない。
あるのは、覚悟だけだった。
「約束だ。
一緒に在るための、解決策を持ってきた」
フェンリルの尾が、ゆっくりと揺れる。
「――ならば聞こう、人の子よ」
東京の夜。
人知れず、神話が現代に降り立った瞬間だった。




