37話 18才、出発を告げる夜
夕飯が終わったあとだった。
食器の音が一つ、二つと止み、居間に残ったのは湯気の消えかけた湯呑みと、少し重たい沈黙。
ジャックはその沈黙を、自分から壊した。
「……話がある」
母が顔を上げ、父は何も言わずに続きを待つ。
この家では、“本気の話”の前に余計な言葉はいらなかった。
「俺、もう一度――向こうへ行く」
一瞬、時計の秒針の音だけがはっきり聞こえた。
母はすぐには何も言わなかった。
怒りも、驚きも、否定もない。ただ、指先が少しだけ震えた。
「……いつから決めてたの?」
「ずっとだよ。戻ってきた日から」
父が、低く息を吐いた。
「十八で働けるようになるまで、待ってたってことか?」
「うん。勝手に消える気はなかったから」
その言葉で、母の目が伏せられる。
彼女は分かっていた。止めても止まらない類の決意だと。
「向こうで……ちゃんと、生きていけるの?」
「生きてる。もう“行方不明”じゃない」
ジャックはそう言って、わずかに笑った。
「考えがある、前回お世話になった人に会いに行くよ
そして実績を積むんだよ、社会人として、税金を納めて」
向こうじゃ俺のことを、ちゃんと“人間”として扱ってくれる
それはこの世界への不満ではなかった。
向こうにも、同じ重さの人生があるという事実の表明だった。
父はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「戻ってくる気はあるのか」
「ある。約束したろ」
「……いつだ」
「分からない。でも、戻る。
帰る場所があるって分かってるから、行ける」
母が、静かに立ち上がった。
台所へ行き、棚の奥から包みを一つ取り出す。
「これ……持っていきなさい」
中身は、見慣れた布。
子どもの頃、熱を出したときに額に当てられた手拭いだった。
「向こうの世界に洗濯機があるかは知らないけど」
少し笑って、そして言った。
「それでも、これは“家族の匂い”だから」
ジャックは受け取って、深く頭を下げた。
「……行ってくる」
父は何も言わず、ただ肩に手を置いた。
母は最後まで笑顔を崩さなかった。
玄関を出る直前、背中にかけられた声。
「ジャック」
「なに?」
「向こうで何になろうといい。
でも――生きて帰ってきなさい」
「うん」
扉が閉まる。
18才。
社会人として働ける年齢。
そして、二つの世界に居場所を持つ男が、再び境界を越える夜だった




