2話 赤子の檻(ゆりかご)
――見えない。
それが、この世界で最初に理解したことだった。
まぶたは開いているはずなのに、輪郭は滲み、色は溶け合っている。上下も距離も判別できず、ただ明暗だけがゆっくりと揺れていた。
(そうか……赤子の視界は、こういうものだったな)
思考だけは、やけに澄んでいる。
過疎枠の配信者として、後悔ばかりを抱えて死んだ壮年の男。その記憶も感情も、欠けることなくここにある。
だが身体は違った。
腕を動かそうとしても、勝手に震えるだけ。
言葉を発しようとしても、喉から漏れるのは意味を持たない泣き声だけ。
「お腹、空いたのかな」
女の声がした。
次の瞬間、ふわりと世界が包まれる。柔らかく、温かく、どこか懐かしい匂い。
(母親……か)
そう理解した途端、胸の奥が僅かに痛んだ。
前の人生で、彼は親と距離を取り続けてきた。期待に応えられない自分が怖くて、向き合うことから逃げたまま、時間だけを失った。
(今度は、息子としてやり直すわけか)
皮肉だが、不思議と嫌悪感はなかった。
◆
この世界での生活は、完全な受け身だった。
泣けば抱かれ、眠れば寝かされ、起きれば声をかけられる。自分の意思で選べるものは、何一つない。
(……檻だな)
男はそう定義した。
柔らかく、温かく、愛情に満ちた檻。
前世では、自由だけはあった。だが、誰にも守られてはいなかった。
(だからこそ、わかる)
この檻は、悪くない。
◆
そして、ある瞬間だった。
泣き声が、止まった。
いや――世界そのものが、止まっていた。
揺れていたカーテンも、母の瞬きも、空気の流れすら静止している。
(……来たか)
白い世界で授かった、唯一のギフト。
――時空魔法。
意識的に使ったわけではない。ただ、感情が大きく揺れた拍子に“触れてしまった”感覚だった。
(制御は、できていないな)
思考だけが動く世界で、男は慎重に意識を巡らせた。
すると、ほんの刹那――
時間が、わずかに巻き戻る。
次の瞬間、世界は何事もなかったかのように動き出した。
「……っ」
当然、声にはならない。
(短時間の停止と、ごく僅かな巻き戻し)
(しかも無意識発動……制約だらけだ)
だが、男は理解していた。
(それでいい)
前世で彼が失い続けたものは、時間だった。
ならば今度は――
(時間を、味方につける)
この檻を出る日は、必ず来る。
それまでに、できることを一つずつ積み重ねていけばいい。
泣くことしかできない赤子の内側で、
確かな意志だけが、静かに燃えていた。
――逆転人生は、まだ音も立てずに始まったばかりだ。




