146話 涼香の願い 2
朝。
まだ完全に明るくなりきらない時間。
ドアが静かに開き、涼香がリビングに入ってきた。
腕の中には、眠たそうに目をこする陽がいる。
小さな体温。
規則正しい呼吸。
ジャックは、ソファに座ったまま一睡もできずにいた。
涼香は何も言わず、彼の前の椅子に腰を下ろす。
陽を抱き直し、背中をゆっくりとあやす。
その仕草は、昨日までと変わらない。
――いや、変わらないように“している”。
「……起きちゃったの」
ぽつりと、涼香が言った。
ジャックはうなずくだけだった。
陽は、二人の緊張など知らない。
涼香の胸に顔を埋め、またうとうとし始める。
その姿を見て、涼香は静かに息を吸った。
「ね」
声は穏やかだった。
「あなたが選んだこと、分かる」 「確率で考えたことも、逃げじゃないって」
昨夜の涙の跡は、もうなかった。
代わりにあるのは、覚悟だ。
「でも……」
涼香は、陽の頭に頬を寄せた。
「この子は、数字じゃない」
視線が、ジャックに向く。
「あなたが“一番多く助かる方”を選ぶなら」 「私は“一番失ってはいけないもの”を守りたい」
少し間を置いて、言葉を選ぶ。
「だから、条件がある」
陽が、むにゃっと小さく声を出した。
涼香は優しく背中を叩く。
「一つ目」 「何かを救ったら、必ず私に話して」
「成功でも失敗でもいい」 「あなたが一人で背負う顔を、陽に見せたくない」
ジャックの喉が鳴った。
「二つ目」 「私と陽を、置いていく前提で考えないで」
「帰れなくなる可能性があるなら」 「その時は“帰れない”って言って」 「勝手に決めないで」
涼香の声は震えていない。
「三つ目」
一瞬、言葉が詰まる。
「あなたが神様みたいになるなら……私は止める」
はっきりと、そう言った。
「世界を救っても」 「この子の父親であることを忘れたら、意味がない」
陽が目を開け、きょとんとした顔で二人を見た。
その視線に、涼香の表情が少しだけ崩れる。
「この子が大きくなったとき」 「父親の顔を、思い出せるようにして」
沈黙。
ジャックは、ゆっくりと立ち上がり、二人の前に膝をついた。
「……約束する」
短く、しかし迷いのない声。
「俺は、選択をする」 「でも……帰る場所は、ここだ」
涼香は、ようやく小さくうなずいた。
「それなら」 「行ってきて」
それは、送り出す言葉であり、
同時に、戻る場所を示す言葉だった。
陽は何も知らず、涼香の腕の中で、また静かに眠りにつく。
その温もりを抱いたまま、涼香は思った。
――静かに暮らす未来は、もう戻らない。
――でも、守る形は、まだ選べる。
朝の光が、ゆっくりと部屋を満たしていった
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