145話 涼香の願い 1
深夜。
子供がようやく眠りについた後のリビングは、音が消えたように静かだった。
ソファに座る涼香の前に、ジャックは立ったままいた。
いつもなら隣に座る距離なのに、今日はそれができなかった。
ジャックの声は低く、淡々としていた。
感情を乗せれば、決断が揺らぐと分かっているからだ。
「俺は、計算した」
涼香は顔を上げる。
「確率だ」 「何もしない場合、生き残る人数」 「念話だけを使った場合」 「テレビを含めた場合」 「避難が間に合う場合、間に合わない場合」
数字の話をしているのに、涼香の胸は締めつけられていった。
「……結果は?」
ジャックは一度、視線を落とした。
「一番、多く生き残る選択をした」
その言葉が落ちた瞬間、涼香の中で何かが崩れた。
「……それだけ?」
声が震える。
「“それだけ”で決めたの?」
ジャックは答えなかった。
否定もしなかった。
涼香は立ち上がり、思わず胸元を押さえる。
「じゃあ……」 「今の幸せは、どこに行くの?」
言葉が、涙と一緒に溢れた。
「この家は?」 「この時間は?」 「あなたが、仕事から帰ってきて、何でもない顔でご飯を食べる毎日は?」
声が掠れる。
「陽は?」 「私たちの子供は、計算に入ってる?」
ジャックの拳が、ぎゅっと握られた。
「……入っている」
絞り出すような声。
「入れた上で、それでも……」
涼香は首を振る。
「そんなの、嫌」 「数字の中に、今の私たちを入れないで」
涙が頬を伝い、床に落ちる。
「私は……」 「ただ、静かに生きたかっただけなのに」
しばらく、沈黙が流れた。
やがてジャックは、ゆっくりと膝をつき、涼香と同じ目線になった。
「……俺もだ」
初めて、声が揺れた。
「でも、見えてしまった」 「何もしなかった未来で、笑ってた顔が、全部消えるのが」
涼香は唇を噛む。
「選ばされたのね……」 「あなたも」
ジャックは、わずかにうなずいた。
「誰かが選ばなきゃいけないなら」 「俺が憎まれる方がいい」
涼香は、嗚咽をこらえながら言った。
「それでも……」 「それでも、私は今の幸せを失うのが怖い」
ジャックは、そっと手を伸ばしたが、触れる直前で止めた。
「……すまない」
その一言に、涼香は首を振った。
「謝らないで」 「謝られる方が、つらい」
二人の間に残ったのは、
“正しい選択”と“守りたい日常”が、どうしても重ならないという現実だった。
そして――
その夜、涼香は泣き疲れて眠りにつき、
ジャックは一晩中、眠ることができなかった。
選んだのは確率。
失いかけているのは、かけがえのない今だった。
後書きという名のお願い
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