144話 涼香の不安―未来が決まる時
玄関の鍵が回る音は、ひどく小さかった。
それでも涼香には十分だった。
「……おかえり」
リビングの灯りは点けられていない。
ソファに座ったままの涼香の輪郭が、廊下の明かりに浮かぶ。
「まだ起きてたのか」
「起きてたんじゃない。待ってたの」
責める響きはない。
それが逆に、胸に重くのしかかる。
ジャックは上着を脱ぎ、鞄を床に置いた。
一息ついてから、涼香の正面に座る。
「今日も……遅かったわね」
「ああ。会議が長引いた」
「一月よ」
涼香は静かに言った。
「一月も経った。
その間に、“様子を見る”って選択肢、ほとんど消えたでしょう」
ジャックは否定しなかった。
「官邸の中でも、空気が変わってきてる。
信じるかどうかじゃない。“どう扱うか”の段階に入った」
涼香は目を伏せた。
「つまり……あなたをここに置いたままにしておくのは、危険だって判断ね」
「ああ」
短い返事だった。
「向こうに渡る話が、現実的になってきてる」
その言葉を聞いた瞬間、涼香の肩がわずかに揺れた。
「ねえ、ジャック」
声は低く、押し殺されている。
「選べているようで、実際は選べなくなってきてる。
そういう状況でしょう、今」
「……そうだな」
「最初は、
『ここで警告する』
『情報を渡す』
『備えさせる』
いろいろ道があった」
涼香は指を折るように言葉を並べる。
「でも今は、
“ここに留まる”は危険、
“何もしない”は許されない、
“向こうに行く”が一番現実的」
一つ、深く息を吐く。
「選択肢が減っていくのって、こんなに怖いのね」
ジャックは黙って聞いていた。
「あなたは強いわ。覚悟もある」
顔を上げ、真っ直ぐに見つめる。
「でも私は……置いていかれる感覚が消えない」
「置いていくつもりはない」
即座に返す。
「それでも」
涼香は首を振った。
「あなたの決断は、いつも“正しい”。
だからこそ、私はそこに感情を挟む余地がない気がして……」
言葉が詰まり、少し間が空く。
「怖いのは、未来そのものじゃない。
“戻れないところまで行ってしまう”って感覚」
ジャックは立ち上がり、涼香の前に座り直した。
「これからどうするか、まだ確定じゃない」
「でも、方向は決まってきてる」
「ああ」
認めた。
「だから、今のうちに話したかった」
涼香は、ゆっくりとうなずいた。
「私、逃げたいわけじゃない」
小さく、しかしはっきりと言う。
「ただ……心の準備が追いつかないだけ」
「無理に追いつかせなくていい」
ジャックは静かに言った。
「時間は少ない。でも、君の不安を無視して進むつもりはない」
涼香の目に、わずかに涙が滲む。
「選択肢が狭くなっても、
一人で決めないで」
その一言は、願いだった。
「分かった」
ジャックはそう答えた。
深夜の静けさの中で、
二人はまだ見えない“次の一歩”を、同じ場所から見つめていた。
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