134話 陽(はる)という名の息子
涼香は、ジャックとの子供に**「陽」**という名前をつけた。
世界を救うとか。
使命を背負うとか。
使徒だとか、選ばれた存在だとか。
そんな重たい言葉は、この子には関係ない。
ただ、そこにいて。
朝が来れば目を覚まし、
泣いて、笑って、転んで、また立ち上がる。
温かみのある、お日様のように。
理由もなく昇り、
誰に頼まれたわけでもなく照らす。
強くなくてもいい。
特別じゃなくてもいい。
誰かの期待に応える必要もない。
「生きているだけで、十分だよ」
涼香はそう語りかけるように、眠る息子の額にそっと手を置く。
ジャックは、その光景を静かに見つめていた。
――この子の未来を、鑑定しない。
――可能性を、言葉にしない。
この名前は、
予言ではなく、許しだ。
何者にもならなくていい。
ただ、今日を生きればいい。
陽が昇るように。
当たり前に、ここにいていい。
それが、二人がこの名前に込めた、
たったひとつの願いだった。
母子手帳がテーブルの上にある
義母がそっと置いていった、あの育児ノート。
ページの端は少し丸くなり、紙の色も新しくはない。
何度も開かれ、何度も閉じられてきた時間が、そこにある。
最初のページに書かれている文字を、もう一度読む。
「これは、正解ではありません
ただの記録です」
涼香は、深く息を吸った。
ペンを手に取る。
インクの色は、義母と同じ黒。
どこに書くか、少し迷ってから――
ノートの最後の、何も書かれていないページを開いた。
ゆっくりと、文字を綴る。
〇月〇日
今日、家に帰りました。
この子の名前は、**陽**です。
一文字一文字、確かめるように書く。
大きな願いは込めていません。
強くなれとも、特別になれとも思っていません。
ペン先が、ほんの一瞬止まる。
ただ、
今日と明日を、ちゃんと生きてほしい。
涼香は、少し笑った。
もし迷ったら、
このノートを読み返します。
不安になったら、
「不安になっていい」と書いてあったことを思い出します。
最後に、そっと一行。
この名前が、
この子の重荷になりませんように。
ペンを置くと、肩の力が抜けた。
そのとき、背後から気配がする。
「……書いた?」
ジャックだった。
「うん」
涼香は、ノートを閉じずに差し出す。
ジャックは黙って読み、何も言わずに頷いた。
それで十分だった。
義母から渡された言葉は、
今、陽の名前と一緒に、このノートに息づいている。
アドバイスでも、命令でもない。
ただの記録が、
今日からは「家族の歴史」になる。
涼香はノートを閉じ、棚にそっと置いた。
――いつか、陽が大きくなったら。
――このノートを手渡す日が来るかもしれない。
そのときは、きっとこう言うのだ。
「正解は書いてないよ」 「でも、私たちはちゃんと迷ってきた」
眠る陽のほうを見る。
静かな寝息。
当たり前の夜。
それでいい。
それがいい。
後書きという名のお願い
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