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後悔ばかりの男の逆転人生  作者: れんれん


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125話 新居に引っ越して、三ヶ月

湾岸の朝は、思ったより静かだった。

 高層階の窓から差し込む光はやわらかく、

 東京にいながら、少しだけ世界から切り離されたような感覚がある。

 キッチンでは、涼香がコーヒーを淹れていた。

「今日は早いんだね」

「うん、午前中はリモート」

 他愛もない、いつもの朝。

 ――なのに。

 ジャックは、理由もなく涼香を見ていた。

 違和感、というほど強くはない。

 ただ、胸の奥にひっかかる、微かな感覚。

(……一応、見るか)

 鑑定。

 無意識に、軽く。

 深く踏み込むつもりはなかった。

 ――次の瞬間。

 世界が、止まった。

【状態】

・妊娠:成立

・経過:初期

・母体状態:極めて良好

・胎児状態:安定

 ジャックは、息を止めていた。

 何度も鑑定を重ねたわけじゃない。

 それでも、見間違いではないと分かる。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。

(……本当に、来たんだな)

「ジャック?」

 涼香が、不思議そうにこちらを見る。

「どうしたの?」

 声が、少しだけ震えた。

「……涼香」

 慎重に、言葉を選ぶ。

「驚かせるかもしれないけど……聞いて」

 涼香は、マグカップを置いた。

 何かを察したように、背筋を伸ばす。

「うん」

「……子供が、できてる」

 空気が、一瞬で変わった。

「……え?」

 涼香の目が、大きくなる。

「今、なんて……」

「初期だけど、間違いない」

 余計なことは言わなかった。

 確信だけを、伝える。

 涼香は、しばらく言葉を失っていた。

 手が、無意識にお腹に触れる。

「……私、最近ちょっと眠いなとは思ってたけど」

 声が、かすれる。

「でも……まさか……」

 次の瞬間。

「……病院、行こう」

 涼香が、はっとして顔を上げる。

「今すぐ」

「会社は?」

「休む。全部後回し」

 迷いは、なかった。

「これは……

 一番大事な用事だから」

 涼香の目に、涙が滲む。

「……本当に?」

「当たり前だろ」

 ジャックは、そっと肩を抱いた。

「俺たちの子だ」

 慌ただしく支度をして、

 玄関を出る直前。

 涼香が、ふと立ち止まる。

「……ねえ、ジャック」

「ん?」

「怖いけど……

 ちょっと、嬉しい」

 その言葉に、

 ジャックは静かに笑った。

「俺もだ」

――扉一枚、世界が変わる距離

 病院へ向かう前。

 エレベーターを呼ぶ前に、ジャックは一度立ち止まった。

「……その前に」

 涼香を見る。

「言っておこう」

 隣の部屋。

 ほんの数歩先に、両親がいる。

 この距離が、

 今日ほど心強いと思ったことはなかった。

 インターホンを鳴らすと、すぐに足音。

「はーい」

 母の声。

 扉が開いて、いつもの笑顔。

「あら? 二人揃ってどうしたの、こんな時間に」

 父も奥から顔を出す。

「忘れ物か?」

「いえ……」

 涼香が一歩前に出た。

「ちょっと、話があって」

 リビングに通され、ソファに腰を下ろす。

 何気ない空間。

 この三ヶ月で、何度も来た場所。

 だからこそ――

 言葉を選ぶ時間が、やけに長く感じた。

「実は……」

 涼香は、深呼吸する。

 無意識に、お腹に手を添えた。

「まだ、病院で確定はしてないんだけど」

 母が、すっと姿勢を正す。

 父も、黙って耳を傾けた。

「……赤ちゃん、できたみたい」

 一瞬。

 音が消えた。

「……え?」

 母が、小さく声を漏らす。

「……今、なんて?」

 父は、言葉を失ったまま、涼香とジャックを交互に見る。

「初期だけど」

 ジャックが続ける。

「今日、これから病院に行くつもりです」

 次の瞬間。

「……っ」

 母が、口元を押さえた。

 目に、みるみる涙が溜まる。

「……本当に?」

「……おばあちゃん……?」

 声が、震えている。

「まだ確定じゃないから」

 涼香が慌てて言う。

「ぬか喜びかもしれなくて……」

「そんなこと、関係ないわよ……」

 母は、立ち上がって涼香の前に来た。

 そっと、手を取る。

「ありがとう……教えてくれて」

 父は、少し遅れて立ち上がった。

 咳払いを一つ。

「……そうか」

 それだけ。

 でも、目が赤い。

「……体、無理するな」

「何かあったら、すぐ言え」

 短い言葉に、全部が詰まっていた。

「隣でよかったな」

 父が、ぽつりと呟く。

「本当に……」

「じゃあ」

玄関で靴を履き終えた、その時だった。

「……待って」

 背後から、少し掠れた声。

 振り返ると、母が立っていた。

 さっきまで涙を拭いていたはずなのに、もう表情は切り替わっている。

「私も行く」

「え?」

 涼香が驚いて声を上げる。

「お母さん?」

「だって、初めてでしょ」

 当然のことのように言う。

「不安に決まってるじゃない」

「い、いや……」

 涼香は一瞬、ジャックを見る。

 迷惑じゃないか、という視線。

 でも、母はもう引く気がなかった。

「ジャックくん」

 母は、まっすぐ彼を見る。

「あなたが一緒にいるのは分かってる」

「でもね」

 一歩、涼香の横に並ぶ。

「娘の体のことは、母親が一番気になるの」

 父が、後ろで腕を組んだ。

「……まあ」

 小さく頷く。

「心配なのは、同じだ」

「でも、お父さんは留守番」

 母が即答する。

「誰かが家にいないと」

「帰ってきた時、落ち着けないでしょ」

 有無を言わせぬ判断だった。

「お母さん……」

 涼香の目が、少し潤む。

「ありがとう」

「当たり前よ」

 母は、涼香のコートを直してやる。

「まだ確定じゃないんだから、余計なことは考えない」

「ただ、先生の話を聞くだけ」

 ジャックが、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

「いいの」

 母は、にこっと笑う。

「こういう時は、家族で動くの」

 エレベーターに乗り込む。

 三人分の空間。

 さっきまで二人だった世界に、

 自然と“母”が加わっている。

「ねえ」

 母が、エレベーターの中で言う。

「病院の後、どうする?」

「帰る?」

「それとも、どこかで少し休む?」

 もう、未来の段取りを考えている。

 涼香は、思わず小さく笑った。

「……強いね」

「母親ですから」

 母は、きっぱり言った。

 ジャックは、そのやり取りを横で見ながら思う。

(この人が、隣に住んでる)

(……本当に、正解だった)

 エレベーターが、地上階に到着する。

 扉が開く瞬間。

 母は、涼香の手を握った。

「大丈夫」

「一緒に聞こう」

 その手は、少しだけ震えていた。

 それでも、離さなかった。

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