118話前夜、母と涼香が二人きりで話す夜
披露宴前夜。
ホテルの一室。 間接照明だけが灯り、カーテンの向こうには湾岸の夜景が静かに広がっている。
ベッドの端に、涼香は腰掛けていた。 ドレスの最終フィッティングを終え、髪を下ろしたまま。
母は、ソファに座り、湯気の立つハーブティーを二つ用意してくれた。
「緊張してる?」
母が、カップを差し出す。
「……少し」
「そうよね」
母は、涼香の隣に腰を下ろした。
しばらく、言葉はなかった。 遠くで車の音が、波みたいに聞こえる。
「小さい頃ね」
母が、ふっと笑った。
「涼香、よく一人で考え込む子だった」
「……そうだった?」
「うん」 「言わないけど、ちゃんと考えてる子」
涼香は、カップを両手で包みながら頷く。
「だからね」 「ジャックさんのこと、すぐ分かったの」
「何が?」
「この人なら、大丈夫って」
涼香は、少し驚いた顔で母を見る。
「反対しないの、早かったでしょ?」
「……うん」
「条件とか、肩書きとかじゃなくて」
母は、涼香の手をそっと取る。
「涼香が“楽そう”だったから」
その言葉に、胸の奥がきゅっとなる。
「無理して笑ってない顔」 「それが一番」
涼香の目が、少し潤む。
「……私、ちゃんとできるかな」
母は、即答しなかった。 少し考えてから、静かに言う。
「できなくていいの」
「え?」
「夫婦ってね」 「ちゃんとできない時があって、当たり前なの」
母は、少し照れたように笑う。
「お父さんとだって、何度もぶつかったわ」
「そうなの?」
「そりゃそうよ」
二人で、小さく笑った。
「でもね」 「続けたいって思える人となら」
母は、涼香の肩に、そっと頭を預ける。
「それで、十分」
涼香は、母の温もりを感じながら、ぽつりと言う。
「……離れるの、寂しい?」
母は、一瞬だけ目を閉じた。
「寂しくないって言ったら、嘘」
「……」
「でもね」 「それ以上に、嬉しい」
母は、涼香の髪を撫でる。
「涼香が選んだ人生を」 「ちゃんと、自分の足で歩いてるから」
涼香の涙が、静かにこぼれた。
「……ありがとう」
「うん」
母は、何も言わず、ただ一緒に座っている。
時計の針が進む音だけが、部屋に響く。
「明日ね」
母が、最後に言った。
「泣いてもいいけど」
涼香は、笑いながら答える。
「多分、泣く」
「そうでしょうね」
二人で、顔を見合わせて笑う。
「でも、笑顔で行きなさい」
母は、優しく言った。
「あなたは、もう大丈夫」
窓の外、夜景は変わらず輝いている。
その光の中で――
涼香は、ゆっくりと未来を受け取った
披露宴当日・控室での涼香
控室は、思ったより静かだった。
白い壁、柔らかな照明。 ドレスの裾が床に広がり、空調の音だけが、一定のリズムで流れている。
鏡の前に座る涼香は、動かなかった。
鏡に映る自分は――
いつもより、少しだけ遠い。
「……私、こんな顔してたっけ」
ぽつりと、独り言。
ウェディングドレスは、母と何度も話し合って決めたもの。 派手すぎず、でも、きちんと「花嫁」だと分かる一着。
胸元に手を当てると、心臓が少し早い。
(緊張、してる)
深呼吸をしても、完全には落ち着かない。
コンコン。
ノックの音。
「どうぞ」
入ってきたのは、ヘアメイクスタッフではなく――母だった。
「綺麗よ」
それだけ言って、微笑む。
「……ありがとう」
母は、涼香の背後に立ち、鏡越しに目を合わせた。
「逃げたくなってない?」
「……ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
母は、軽く笑う。
「でもね」
肩に、そっと手が置かれる。
「逃げたい時に、隣にいてくれる人がいるなら」 「それは、幸せってことよ」
涼香は、ゆっくり頷いた。
「ジャックさん、今ごろどうしてると思う?」
「……もっと緊張してる」
「でしょうね」
二人で、くすっと笑う。
控室の時計を見る。 あと、十五分。
スタッフが、ドア越しに声をかける。
「白石様、まもなくです」
「はい」
返事は、思ったよりはっきりしていた。
母は、涼香の手を取る。
「涼香」
「うん」
「何があっても」 「帰ってきていい場所は、ちゃんとあるから」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
「でも」
母は、にこっと笑う。
「今日は、行ってきなさい」
扉が開く。 廊下の向こうに、光とざわめき。
涼香は、最後に鏡を見る。
そこにいるのは――
迷いも、不安も、全部抱えたままの自分。
でも。
(大丈夫)
誰かに言われたからじゃない。 自分で、そう思えた。
「……行ってきます」
母は、頷いた。
涼香は、一歩、前に出る。
人生で一番静かな覚悟を胸に――
披露宴会場へと、歩き出した
後書きという名のお願い
下の★マークのタップと感想とブックマークもお願いします。
今後の励みになります。




