113話 ふとした瞬間にリフレッシュ
午前中の会議が終わり、涼香は自席に戻って、そっと肩を回した。
暖房の効いたオフィス。
人の多さと緊張で、じんわりと背中に汗がにじんでいる。
(あぁ……ちょっと気持ち悪いな)
いつものこと。
そう思った、その瞬間だった。
――無意識に、ほんの少しだけ「こうなったらいいな」と思った。
シャワーを浴びたあとの、あの感じ。
さっぱりして、肌が軽くなる感覚。
次の瞬間。
すぅ……っと、風とも水ともつかない何かが、体をなぞった。
(……え?)
一瞬で、ベタつきが消えた。
服はそのまま、髪も乱れていないのに、
体だけが「洗い流された」みたいに軽い。
涼香は、固まった。
(……いまの)
心臓が、どくんと鳴る。
周囲を見渡す。
同僚たちは誰も気づいていない。
キーボードの音、コピー機の作動音、いつものオフィス。
(まさか……)
そっと、手のひらを見つめる。
(……リフレッシュ、使っちゃった?)
ぞわっと背筋が震えたあと、
同時に、笑いそうになるのを必死でこらえる。
(うそ……仕事中に……)
でも――
体は確かに楽だった。
集中力が戻り、呼吸が深くなる。
頭も、すっと冴えている。
(……便利すぎるでしょ)
思わず、心の中でツッコミを入れる。
ジャックの言葉が、脳裏によみがえる。
「難しく考えなくていい。
生活で使える魔法が、一番強いから」
(ほんとに、その通りかも)
誰にも気づかれず、
誰の邪魔にもならず、
ただ“自分を整える”だけ。
涼香は、背筋を伸ばしてパソコンに向き直った。
(……でも、気をつけないと)
無意識で出るのは、さすがに危ない。
ここは異世界じゃない。
そう思いながらも――
口元が、ほんの少し緩む。
(帰ったら……ジャックに言おう)
「仕事中に使っちゃった」って。
きっと、あの人は困った顔をしてから、
最後には笑う。
涼香はキーボードを打ちながら、
静かに胸の奥で思った。
(私、本当に二つの世界を生き始めてるんだ)
それを実感した、
何でもない平日の、ほんの一瞬だった。
その日の夜。
夕食を終えて、二人でソファに並んで座っていた。
テレビはついているけれど、内容はほとんど頭に入っていない。
涼香は、少し迷ってから口を開いた。
「……ねえ、ジャック」
「ん?」
ジャックは気軽に返事をしながら、マグカップに口をつける。
「今日ね……仕事中に……」
そこで一瞬、言葉を切る。
「……リフレッシュ、使っちゃった」
一拍。
そして――
「……は?」
マグカップを持ったまま、ジャックが固まった。
「え、今なんて?」
「だから……会議のあと、無意識に……」
涼香は申し訳なさそうに、でもどこか照れた笑顔で言う。
「一瞬で、さっぱりして……誰にも気づかれなかった」
ジャックは、しばらく涼香を見つめていたが――
次の瞬間、額に手を当てた。
「あぁ……やっぱり」
「やっぱりって?」
「無意識発動か……生活魔法、完成度高すぎだろ……」
完全に予想はしていた、という顔だった。
「怒ってる……?」
涼香が恐る恐る聞くと、
ジャックはすぐに首を振る。
「いや、全然」
むしろ、少し困ったように笑う。
「すごいなって思ってる」
その言葉に、涼香は目を瞬かせた。
「普通さ、魔法って“使おう”って意識しないと出ないんだ」
「……うん」
「でもそれ、涼香の場合は“こうなったらいいな”って感覚だけで出てる」
ジャックは、指を一本立てる。
「しかも周囲に影響ゼロ。痕跡なし。本人だけ対象」
「……それ、危なくないの?」
「いや、逆」
即答だった。
「一番安全で、一番難しい」
涼香は、思わず息を呑む。
「……そんなに?」
「うん」
ジャックは、真剣な目で涼香を見る。
「戦闘魔法は派手だし分かりやすい。
でも生活魔法でそこまで精密なのは、才能がないと無理だ」
そして、ふっと表情を緩めた。
「……仕事中に使っちゃうくらい、自然に染み込んでるのが証拠だ」
涼香は、少し照れくさそうに肩をすくめる。
「じゃあ……怒られない?」
「怒るわけないだろ」
そう言って、ジャックは軽く涼香の頭に手を置いた。
「ただし」
「……ただし?」
「地球では、使う場所は選ぼう」
二人で顔を見合わせて、くすっと笑う。
「でもな」
ジャックは、少しだけ声を落とした。
「そういう“無意識に誰かを助ける魔法”を作れる人は、
向こうじゃ本当に大事にされる」
涼香は、その意味を噛みしめる。
「……私、ちゃんとついていけてる?」
「ついていくどころか」
ジャックは、はっきり言った。
「俺の想像、軽く超えてきてる」
涼香の胸が、じんわりと温かくなる。
「……そっか」
ジャックはソファに深く座り直し、冗談めかして付け足す。
「そのうち、“仕事効率アップ”とか作るなよ?」
「やめて、ほんとに作れそうだから」
二人は声を出して笑った。
涼香は思う。
(この人に話してよかった)
そしてジャックも、胸の奥で思っていた。
(生活魔法士……やっぱり、とんでもない存在になるな)
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