112話 帰還そして涼香の胸のうち
辺境伯邸の居間。
暖炉の火が静かに揺れ、夜の気配が屋敷に満ちていた。
フォニアジーク辺境伯は、肘掛け椅子に深く腰掛け、
その向かいに立つジャックと涼香を静かに見つめている。
「……そうか。
もう、戻る時か」
ジャックは一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「はい。少しの間、向こうへ行ってきます」
フォニアジークは、それ以上は聞かなかった。
いつからか、この家では“どこへ行くのか”“どれくらい戻らないのか”を
詮索しないのが暗黙の了解になっている。
「今回も、いつ戻るかは――」
と、父が言いかけると、
「分かりません」
ジャックは、いつものように穏やかに答えた。
母のサリーシャが、くすりと微笑む。
「ええ、ええ。そうでしょうね」
涼香に視線を向け、柔らかな声で続ける。
「ジャックは、昔からそうなの。
帰る時だけは、いつも迷いがない」
長男ジルフォニアが腕を組み、真面目な顔で言う。
「だが……今回は、二人だな」
「はい」
ジャックは頷く。
次男ロンドフェストは、にやりと笑った。
「へぇ。
じゃあ次に戻る時は……どうなるんだ?」
その言葉に、空気がふっと和らぐ。
ジャックは一瞬だけ涼香を見て、
それから家族に向き直り、肩をすくめた。
「さあ。
もしかしたら――一人、増えているかもしれません」
一拍の沈黙。
そして、サリーシャが目を丸くし、すぐに嬉しそうに口元を押さえた。
「まあ……」
フォニアジークは、ゆっくりと息を吐き、
深く、満足そうに頷いた。
「……その時は、
この家も、また少し賑やかになるな」
ジルフォニアはわずかに目を細め、
「覚悟はしておこう」と短く言い、
ロンドフェストは声を上げて笑った。
「いいね!
次は俺が一番に抱き上げるからな!」
涼香は驚きつつも、思わず笑ってしまう。
その様子を見て、ジャックも自然と笑顔になった。
「では……行ってきます」
フォニアジークは立ち上がり、
父としてではなく、当主として、しかし何より家族として言った。
「無事であれ。
そして――戻ってこい。
何人であろうとな」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
別れの言葉は、それだけで十分だった。
こうしてジャックと涼香は、
“いつものように”帰路につく。
けれど今回は、
未来が少しだけ、確かな重みを持ってそこにあった。
転移の光が消え、足元の感触が確かなものに変わった瞬間。
涼香は、ほんの少しだけ胸の奥がきゅっとするのを感じた。
戻ってきた。
――日常に。
見慣れた空気、聞き慣れた音。
便利で、安全で、当たり前の世界。
なのに。
(……さっきまで、あそこにいたのに)
辺境伯邸の暖炉の火。
家族の笑い声。
「いつ戻るかは聞かない」という、あの不思議な優しさ。
涼香は無意識に、自分の胸元を押さえていた。
何かを置いてきたような、
それでいて、ちゃんと持ち帰ってきたような、不思議な感覚。
(怖くなかった……)
異世界。
魔法。
精霊王。
創造神。
普通なら、夢だと思いたくなる出来事ばかりなのに、
向こうにいた時間のほうが、
どこか“息がしやすかった”ことに、今さら気づく。
(あの人たち……私を、最初から受け入れてくれてた)
ジャックの家族は、
異世界の人間である自分を、
「説明の必要な存在」として扱わなかった。
ただ、
ジャックの隣に立つ人として見てくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
涼香は、そっとジャックを見る。
変わらない横顔。
でも、その隣に立つ自分は、少し前とは確実に違う。
(私はもう……
“連れていかれる人”じゃない)
選んで、立って、歩いている。
生活魔法士と呼ばれ、
水の妖精王に微笑まれ、
家族に「また増えるかもしれない」と笑われて――
胸の奥に、静かで強い想いが灯る。
(帰る場所が、二つあるんだ)
どちらも大切で、
どちらも失いたくない。
そしてその真ん中に、
いつもジャックがいる。
涼香は小さく息を吐き、
心の中でそっと決める。
(……次に行くときは、
“連れていってもらう”んじゃない)
自分の足で、帰る。
そう思えたことが、
何よりも大きな変化だった。
ジャックがふと振り返る。
「どうした?」
涼香は微笑んだ。
少しだけ、強く。
「ううん。
ただ……帰ってきたな、って思って」
その言葉の中に、
たくさんの意味を込めながら。
日常は、また動き出す。
でも涼香の中にはもう、
確かに“世界を越えた記憶”が根付いていた。
それは、もう消えない。
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