95話 何気ない日常の中で深まる愛
特別なことは、何も起きなかった。
朝、同じ時間に起きて、
コーヒーを淹れる音がして、
「おはよう」と言葉を交わす。
それだけ。
けれど、ジャックにとっては、
その一つひとつが、前よりもずっと大切だった。
涼香がカップを持つ仕草。
少し眠そうな目。
髪を耳にかける、何気ない癖。
(……こんな瞬間を、守りたいんだな)
ジャックは、ふとした拍子にそう思う。
出かける前、
「今日は寒いよ」と涼香が言えば、
ジャックは何も言わず、上着を差し出す。
それに対して、
「ありがとう」と小さく笑う涼香。
言葉は少ない。
でも、気遣いは自然に増えていく。
スーパーで並んで歩くとき、
人混みでは、無意識に涼香を内側にかばうように立つ。
涼香もまた、
ジャックが少し疲れた顔をしていれば、
「無理しないで」と、そっと声をかける。
(守ってるつもりだったのに……
いつの間にか、支えられてる)
そう気づいて、ジャックは少しだけ笑う。
夜、ソファに並んで座り、
同じ番組を見て、
同じところで小さく笑う。
手をつなぐこともあるし、
ただ隣にいるだけの日もある。
それで、十分だった。
(恋って、
こんなに静かでいいんだな)
胸が高鳴る瞬間は、確かにある。
でもそれ以上に、
心が落ち着いている時間のほうが長い。
涼香がふと呟く。
「ジャックといると、安心する」
その一言で、
ジャックの胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(ああ……これだ)
愛は、劇的なものじゃない。
毎日を、同じ方向を向いて、
少しずつ重ねていくこと。
それを、失いたくないと思うこと。
ジャックは、涼香の手をそっと握り直す。
強くはない。
でも、離す気はない。
何気ない日常。
何も起きない一日。
その中で、
二人の愛は、確かに深く、静かに育っていった。
休日の午後。
二人で並んでキッチンに立ち、簡単な昼食を作っていたときのこと。
涼香が手を滑らせ、
包丁を置いたまま、少し困ったように言う。
「……あ、ごめん。ちょっと失敗しちゃった」
ジャックは、何でもないようにそれを見ると、
笑って言った。
「大丈夫だよ。じゃあ、こっちは俺がやるね」
責めるでもなく、
気を遣わせるでもなく、
ただ自然に役割を引き受ける。
その背中を見た瞬間、
涼香の胸の奥で、何かが静かに“定まった”。
(……あ)
理由は、きっと説明できない。
大きな約束をされたわけでも、
未来の話をしたわけでもない。
ただ――
この人は、問題が起きたとき、
こうやって静かに受け止める人なんだ、と。
一緒に困って、
一緒に笑って、
一緒に乗り越える人なんだ、と。
(……この人となら)
楽しいときだけじゃなくて、
うまくいかない日も、
疲れて何も話したくない夜も。
それでも、
隣にいる姿が、自然に想像できた。
ジャックが振り返り、
「どうしたの?」と首をかしげる。
涼香は少しだけ照れて、
でもはっきりと微笑んだ。
「……ううん。なんでもない」
けれど、心の中では、
もう答えは出ていた。
(この人と、生きていく)
恋人だから、じゃない。
優しいから、だけでもない。
この人の“当たり前”の中に、
自分の居場所があると感じたから。
涼香はそっと、
ジャックの袖をつかむ。
「ねえ、今日はこのあと、どこか行こうか」
「いいね」
その短い会話だけで、十分だった。
未来はまだ、白紙かもしれない。
でも、
一緒に書いていく相手は、もう決まった。
涼香は、胸の奥で静かに思う。
(この人となら、
きっと、どんな日常も大切にできる)
そうして、
彼女はもう迷わなかった。
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