「戦場ロマンス」シリーズ_まえがき
ある日、師匠のおともで古書店に行った。
師匠がそこの店主と話をしている間、僕は手持無沙汰で本棚を眺めていた。
書籍の並べ方には、その店の知への態度をかいま見ることができる。
たとえば、ある大手古書店の、僕が縄張りとしているいくつかの店舗ではマンガがタイトル順に並べられるようになった。
確かにタイトルだけを頼りに探しに来る人もいるだろう。でもそれは知識の享受法としてはあまりにも断片的だ。
その大手古書店もかつては僕の行くすべての店で、まず出版社で分類し、掲載誌ごとに分け、そして作者名で並べられていた。知の分類に完璧なものなど存在しないが、これは満足できる並べ方だった。
マンガは出版社や掲載誌ごとにカラーがある。同じ作者なら、当然のごとく似た作風の作品があるだろう。この並べ方であれば、読者は目的の作品を起点として、未知の傑作へと文脈の糸をたどって到達することができる。
マンガをタイトルで並べると、知の関連性が失われ、断片化してしまう。
作品を商品名だけで分類し、内容にも作者にも関心を払わないというのはマンガに対する敬意が感じられない。マンガ文化に対する冒涜のようにすら僕には感じられるのだ。
この古書店の棚はまずジャンルで分類し、そして作者名で並べてあった。専門書も小説もマンガも関係なかった。
石野裕子の新書、植村英一のハードカバー、梅本二十二時のマンガ、そして梅本弘、大久保公雄、齋木伸生、中山雅洋、古谷カヲルと並んでいた。店主の知の混沌と体系の哲学が感じられる。
僕はその本の列の最後の本を手に取った。古谷カヲル『銀白の戦記』とあった。知らない作者だった。
箱から出し、ハトロン紙を破かないように丁寧にページをめくって、少し読んでみた。指先に伝わる紙の重みと、そこに刻まれた硬質な戦史の文体。それは一瞬で僕を戦場へと引きずり込んだ。
集中して文字を追っていると、いつの間にやら師匠が脇からのぞき込んでいた。
「古谷カヲルか。のぶも目が肥えてきたね。良い本だよ。譲ってもらいなさい」
師匠のその声で、買うことが決まってしまった。
貧乏書生の当時の僕にとって、その本の値札の金額は一週間分の食費に等しかった。
だが、「譲ってもらいなさい」という師匠の言葉は、この本を受け継ぐ責任を託されたような響きがあった。師匠の目にかなった一冊を断るという選択肢は、当時の僕には存在しなかった。
数年前に亡くなった師匠の思い出に浸りながら、あの一週間分の食費のもとを取るために、この『銀白の戦記』を僕なりの視点で再構築し、新たな物語として執筆することにした。
あの、ひたすらに知識を貪り、師匠の背中を追った懐かしい日々は、僕にとっての探求のロマンスの時代だったと、今になって強く思う。




