第44話「ソフトクリームは甘い」
スポーツ大会から一週間が過ぎた。
あの騒ぎもひと段落して、黒板の端には、次の行事の予定表が新しく貼られている。
夏の陽射しは少しずつ強くなり、窓際の席だと、じわりと背中に汗がにじむ日も増えてきた。
チャイムが鳴ってから、もうしばらく。
クラスメイトたちはそれぞれの部活へ向かい、教室を出ていった。
廊下のほうからは運動部の掛け声や、吹奏楽のチューニングの音がかすかに届く。さっきまでのざわめきが嘘みたいに、教室の中は静かだった。
そんな中、教室の端っこ。
向かい合った二つの机をくっつけて、俺と朝霧さんはプリントの束とにらめっこしていた。
「これで提出分は大丈夫そうですね」
ホチキスを机に置きながら、朝霧さんが顔を上げる。
「思ったより早く終わったな」
「……ですね」
彼女がファイルを閉じると、ぱたん、と軽い音が響いた。静かな教室に、その音がやけにくっきりと残る。
朝霧さんは、そのまま窓の外へ視線を流した。太陽は、まだ沈みそうにない高さだ。
一日の長さは変わらないのに、明るい時間が長いと、少しだけ得をした気になる。
提出は明日だし、今日はこのまま真っ直ぐ帰れそうだ――と、ぼんやり考える。
同じように外を眺めていた朝霧さんと、ふいに目が合った。
「大分、日も長くなりましたね」
「そうだな」
相づちを打つと、朝霧さんは指先でペンをくるりと弄びながら、少しだけ溜めてから口を開いた。
「せっかくだし、どこか寄り道していきません?」
「え?」
ペンが止まり、今度はまっすぐ俺を見る。
その一言に、思わず手が止まった。
(二人で寄り道って……いや、落ち着け。変な意味じゃないだろ)
脳内で全力でツッコミを入れつつ、口だけはなんとか動かす。
「あ、ああ……じゃあ、どっか歩いてみるか」
しどろもどろになりかけながら返すと、朝霧さんは、ほっとしたように小さくうなずいた。
「はい」
柔らかく笑うその仕草が、なぜかいつもより眩しく見えて、俺は思わず視線を落とす。
机の上のプリントを揃えて机にしまい、椅子を引いて立ち上がった。
「じゃ、行くか」
「はい。どこ行きましょうか」
二人で教室のドアを閉めて廊下に出る。
さっきまで聞こえていた部活の声が少し遠くなって、代わりに、俺たちの足音だけが床に規則的に響く。
放課後の喧騒が、どこか別世界みたいに感じた。
* * *
「行き先はお任せしても良いですか?」
階段を降りながら、朝霧さんが首を傾けて尋ねてくる。
「そうだな……」
俺は少し考え込む。街中とショッピングモールは、この前みんなで行ったばかりだ。
他に、放課後でも行きやすくて、そこそこ雰囲気のある場所――。
「あ」
一か所、思い浮かんだ。ここから歩いて行けて、観光地っぽいけど人が多すぎるわけでもない、あの場所。
「ちょっと歩くけど、大丈夫?」
「はい、時間ならまだまだありますし。運動不足解消にもなりますしね」
そう言って、朝霧さんは小さく拳を握った。
「じゃあ、ついてきて」
「了解です!」
学校から歩いて十分と少し。
狭い住宅地の道を抜けて、ゆるやかな坂を下っていくと、目的地が見えてくる。
石畳の道路に、古い町家が左右に並んでいた。格子戸の家、土壁、低い軒。
現代の住宅が立ち並ぶ中で、そこだけ江戸時代からタイムスリップしてきたような異質な雰囲気を放つ。
「ここは柳町通り。昔ながらの街並みがウリなんだ」
「わあ、初めて来ました。……ほんとに周りと雰囲気が全然違いますね」
朝霧さんは立ち止まり、ゆっくりとあたりを見回す。目線が上へ下へと動いて、細かいところまで確かめているのが分かった。
「食べ物とかお酒とか、けっこう売ってる。観光で来る人も多いんだよ」
「なるほど……こういう場所、なんだか落ち着きますね」
風が通り抜け、軒先の提灯が小さく揺れる。
平日だからか、通りを歩く人影はまばらで、観光地にしては静かな空気が流れていた。
「とりあえず、少し歩いてみようか」
「はい!」
そう言って、俺たちは並んで歩きだした。
特に意識したわけでもないのに、歩幅が自然と揃う。足音のリズムも、不思議とぴたりと合っていた。
古い酒蔵を改装したらしい建物の前を通ると、入口に甘酒の看板が出ている。
少し先には、雑貨屋やカフェがいくつか並んでいた。木で組まれた看板や、手書きのメニューが、どの店もそれぞれ個性を主張している。
道端の少し開けたスペースに、丸くなっている猫が一匹。
毛並みのいい三毛猫が、石畳の上でのんびりと寝転がっていた。
「……かわいい」
小さく漏れた声に気づいて振り向くと、朝霧さんが足を止めて猫を見ていた。
猫は一度だけこちらをちらりと見て、また目を閉じる。人間なんて気にしていないと言わんばかりの態度だ。
「人に慣れてそうだな、こいつ」
「ここら辺のボス猫さんなのかもしれません」
そう言って、柔らかい表情でふふっと笑う。
さらに少し行くと、古い木の看板がかかったパン屋の前を通りかかる。
扉の隙間から、焼きたてのパンの香りがふわりと漂ってきた。
「いい匂いですね」
「天然酵母の店らしいよ。人気あるみたい」
「美味しそうですね。……ただ夕飯前にパンは、ちょっと重いかもしれませんね」
「そうだな」
俺が相づちを打つと、朝霧さんは名残惜しそうに看板を一度振り返ってから、また歩きだした。
通りの中ほどまで進んだところで、「ソフトクリーム」の文字が目に入る。
白いのぼり旗が風に揺れていた。
「わ、ソフトクリームです」
同じように旗を見た朝霧さんが、ぱっと顔を明るくさせる。
「食う? ここの、けっこう有名な牧場の牛乳を使ってて、めちゃくちゃ美味いんだ」
俺は旗に書いてある牧場名を指さしながら説明した。
「そうなんですか?」
「ああ。一度食べたら、他のソフトクリームが物足りなくなる……かも」
半分冗談のつもりで言うと、朝霧さんは小さく目を丸くした。
「そこまでですか!? なんだか楽しみになってきました」
「まあ、百聞は一見に如かずってことで」
店先の券売機でチケットを二枚買い、カウンターに出す。
奥の機械から、冷たいソフトクリームがくるくるとコーンに盛られていく。
受け取ったソフトクリームを両手で支えながら、朝霧さんがちらりとこちらを見た。
「ここは奢りで」
「えっ、そんな悪いですよ」
「ちょっとカッコつけさせてよ。また今度別の何かで返してくれればいいからさ」
朝霧さんは少し考えこむ素振りのあと微笑みながら頷いた。
「じゃあ、ありがたくいただきますね。お礼はいずれ」
「うん」
店の脇にある木のベンチに並んで腰をおろし、それぞれのソフトクリームを一口ずつ、丁寧に舐める。
舌に触れた瞬間、濃い牛乳の味が口の中に広がった。
「やっぱり美味いな」
「本当ですね。なんというか、すごく濃いミルクの味がします」
コーンを持つ手のあたりに、ふわっと冷気がかかる。
しばらく、二人とも黙ったまま、夢中になってゆっくりとソフトクリームを食べ続けた。
さっきまで歩いて汗をかいた分、ソフトクリームの冷たさがちょうどよく感じる。
遠くから聞こえる観光客の話し声が、BGMみたいに耳に入ってきた。
「……こういう時間って、いいですね」
周りの店先や空を眺めながら、朝霧さんがぽつりと言う。
「こういう時間?」
「何かを頑張ってるわけでもなくて、ただぼーっとしているっていうか。すみません、上手く言えないんですけど」
言葉を探しているのか、朝霧さんはコーンの先を見つめたまま、少し眉を寄せた。
でも、なんとなく言いたいことは分かる。
「あー、分かるかも。何もしてないけど、ちゃんと何かしてるみたいな。そういう時間、最近ちょっと大事だなって思ってた」
コーンを軽くかじりながら、そう返す。
「ですです。ずっと気を張ってると、疲れちゃいますから」
朝霧さんは、小さくうなずいてから続けた。
「……佐原くん、スポーツ大会の時、頑張ってましたもんね。少し休憩、ですね」
「……ああ」
自分が頑張っていたと言われるのは、どうにもこそばゆい。ソフトクリームの先を見つめるふりをしながら、曖昧に返事をする。
「ふふ……でもあの時の佐原くん、すごく楽しそうでした」
「……そう見えた?」
「ええ」
素直に断言されて、今度は何と返すか迷っているうちに、タイミングを逃してしまう。
それからしばらく、お互い無言の時間が続いた。
(でも、朝霧さんとだと、こういう無言も変に気まずくならないんだよな)
そんなことを思いながら、俺たちは並んでソフトクリームを食べきった。
* * *
その後も、柳町通りをぶらぶらと散策した。小さな雑貨屋をひやかしつつ、置いてある小物や、店先のポップを眺める。
気がつけば、空はだいぶ色を変えていた。
石畳の上には、俺と朝霧さんの影が、少しだけ長く伸びている。
「夕方って、少し寂しさを感じますけど……きれいですよね」
橙色に染まる空を見上げながら、朝霧さんがぽつりとこぼした。
「そうだな」
通りを吹き抜けてくる風が、さっきより少し涼しく感じる。
足音だけが規則的に続いて、自然と会話の間に沈黙が挟まった。
「この通り、すごく楽しかったです。なんというか、時間がゆったり流れているというか」
「気に入ってもらえてよかったよ」
朝霧さんが笑顔で言い、俺は横でうなずく。
「……それに、こうして二人で歩くのも、楽しかったです」
通りを抜け、信号待ちで立ち止まったとき。歩道の端に並んで立ちながら、彼女がそう付け加えた。
思わず顔を見ると、夕焼けのせいだけじゃなさそうな赤みが、頬に少しだけ差している。
それを見たら、なんとなく言葉も素直に出てきた。
「俺も楽しかったよ。また行こうか」
信号機が青に変わる。
朝霧さんは一拍おいてから、こくりとうなずいた。
「……はい」
その横顔には、控えめな笑みが浮かんでいる。
駅前へ続く交差点まで戻ると、そこがちょうどいつもの分かれ道だった。
「それじゃあ、ここで。気をつけて」
「佐原くんも、気をつけてください」
一度だけ目が合う。
どちらからともなく視線を外し、それぞれの方向へ歩き出そうとしたところで、朝霧さんがくるりと振り返った。
「……また、明日」
そう言って、小さく手を振る。
「ああ、また」
短く答えると、朝霧さんは満足そうにうなずいて、前を向いて歩きだした。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺はなんとなく、その場に立ち尽くしていた。




