第40話「スポーツ大会①」
今年もよろしくお願いします!
七月の初め。
ジトジトと気分の沈むような梅雨の空気もようやく落ち着き、季節は夏へと移り始めていた。
窓の外では気の早いセミが鳴き、放課後の教室にその声が淡く響いている。
「それじゃあ、佐原と朝霧。頼んだぞー」
先生が軽い調子で言い残し、教室のドアを閉めた。
黒板には『スポーツ大会・種目アンケート』の文字。白いチョークの粉が縁取られたまま、夕陽の光を受けてかすかに輝いている。
「じゃあ、始めましょうか」
朝霧さんはそう言いながら、アンケート用紙の束を整えて机に広げた。
今日のホームルームで回収したばかりの、スポーツ大会希望種目アンケートだ。
彼女の動きはいつも無駄がない、綺麗な所作。
俺も向かいに座り、ノートに即席の集計表を作った。ペンの先で正の字を並べていく。
「じゃあ、読み上げますね。まずは男子。サッカー、バスケ、テニス、バレー……」
「サッカー、バスケ、テニス……」
紙をめくる音が、静かな教室にやわらかく響く。
しばらく作業が続いたところで、朝霧さんがふっと息をついた。
「けっこう分かれていますね」
「確かに」
この学校のスポーツ大会は、全学年・全クラスのアンケートを集計して一番人気の競技を選ぶ仕組みだ。
建前は「生徒の自主性重視」だが、実際はほぼ恒例のスポーツになりがちらしい。
「男子はサッカー、女子はテニス……になりそうですね」
「まあ、うちのクラスはサッカー部と女テニのメンバーが多いからな」
朝霧さんは集計の束を裏返し、端を揃えてから整然と積み上げる。
俺はその様子を見ながら、無意識に呟いた。
「サッカー、か……」
自分でも驚くほど小さな声だった。
けれど、その言葉が教室の静けさに吸い込まれるように響く。
「……そういえば、以前やっていたって言ってましたね?」
「ああ。中学まで、ね」
何でもないふうを装ったつもりが、声がわずかに固くなってしまった。
朝霧さんも気づいたのか、少しだけ間を置いて柔らかく笑う。
「じゃあ、提出に行きましょうか。他のクラスの結果次第ではまだどうなるか分かりませんし」
「ああ、そうだな」
気を取り直して立ち上がる。
二人で書類を手に、生徒会室へ向かった。
廊下の空気は少し蒸していて、遠くから運動部の掛け声が響いている。
(まあ、サッカーになりそうだな……)
例年の選択種目を思い浮かべながら、こっそりため息をついた。
* * *
数日後。全校に競技結果が発表された。
男子はサッカー、女子はバスケットボール。予想通りの展開だ。
「やっぱりサッカーになったか……」
思わずこぼした俺のつぶやきに、朝霧さんが微笑む。
「……とりあえず、メンバー表を仮で作っておきましょう。各クラス、事前に提出が必要みたいです」
「了解。男子は一チーム、女子は二チーム出せるんだよな」
「はい。バスケ部の人たちは均等に分けてほしいとのことだったので、すでに話を聞いて大まかにまとめてあります」
「さすが。手際いいな」
「こういうのは女子の方が話が通りやすいですから」
「確かに。助かるよ」
「いえいえ」
そんな感じで軽く雑談を交えつつ、二人で名簿に印をつけていく。
机の上の用紙には、マーカーの色が並び、少しずつ形が見えてきた。
「これで仮のメンバー表は完成、かな。あとはクラスに配って大きな反対意見が出なければ正式決定かな」
「そうですね。当日は暑くなりそうですし、交代要員も含めて準備しておきましょう」
「だな。給水係も忘れずに作っとこう」
そんな具合に作業を進めていくと、思っていたより早く終わった。
「これで今日の分は終わり、かな」
「はい。思ったより早く片づきましたね」
朝霧さんはボールペンをカチリと鳴らし、軽く伸びをした。
その動きに合わせて、髪が肩のあたりでふわりと揺れる。
「こうやって作業が早く終わると、ちょっと得した気分になりますね」
「わかる。俺も同感」
俺が笑うと、朝霧さんもふっと笑みを返す。
笑うときに少しだけ下がる目尻。その柔らかい表情は、見ているだけでなんだか癒された。
(また、サッカーをやることになるとはな……)
区切りをつけたつもりの過去が、静かに背中を押してくる。
まだ走れるだろうか。
確かめるように、靴のつま先で床を軽く押した。
「来週は忙しくなりそうですね」
朝霧さんが立ち上がり、ファイルを胸に抱える。
窓から差し込む夕陽が髪を透かして、輪郭を淡く染めた。
「そうだな。準備も練習も、いろいろあるし」
「……佐原君がサッカーしてるところ、副委員長としてしっかり見届けますね」
「それは応援してくれるって意味か?」
「たぶん?」
「たぶんって何だよ」
二人で小さく笑う。
彼女が気遣ってくれているのが分かって、少し嬉しかった。
片づけを終え、鞄を肩にかけて校門へ向かう。
並んで歩く帰り道。分かれ道に差しかかったところで、朝霧さんがふと立ち止まった。
「佐原君」
「ん?」
「無理は……しないでくださいね」
その言葉に、一瞬だけ息が止まる。軽く笑い返しながら、俺は短く答えた。
「……たぶん、大丈夫だと思う」
「なら、よかった」
朝霧さんはいたずらっぽく目を細め、「それでは」と会釈をして歩き出した。
夕陽に照らされた背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
(やるなら、ちゃんとやりたいよな)
小さく息を吐いて、その後ろ姿を見送る。
風が少しだけ強く吹き、グラウンドからボールを蹴る音が聞こえた。
俺は最後に一度だけその方向を見てから、帰り道についた。




