第39話「勉強会④」
午後。雨上がりの湿った風が、少し冷たく頬をかすめていく。
窓の外には薄曇りの光。昼食のあとの賑やかさもすっかり落ち着き、部屋にはシャーペンの音だけが響いていた。
ノートをめくるたびに紙の擦れる音がして、静かな集中の空気が流れている。
「……うわ、また間違えたー!」
陽菜がペンを放り出して机に突っ伏した。ちらっとノートを覗く。
「さっきと同じだ。ここの符号が逆」
「えっ、あーほんとだ! なんでこうなるの〜!」
頬をふくらませる陽菜に苦笑していると、隣から柔らかな声が届いた。
「でも、いいペースですね。さっきよりずっと速く解けてますよ」
朝霧さんの穏やかなフォローに、陽菜がぱっと顔を上げる。
「澄玲ちゃん、ほんと優しい!」
その直後、陽菜がじとっとした目でこちらを見る。
「なんだよ」
「いやぁ、飴と鞭ってこういうことなのかなって思って」
「なんだそりゃ」
「鞭担当:佐原悠斗」
「勝手に配役するな」
こいつはもう手遅れだ。放っておこう。
そんなやり取りを横目に、朝霧さんがペンを動かしながら、悪戯っぽく口を開いた。
「……でも陽菜ちゃん、佐原君に教わってるとき楽しそうですよね。もしかして、私が“鞭”ですか?」
「そそそそ、そんなことないよ!?」
陽菜が慌てて手を振る。耳まで真っ赤だ。
「ふふっ、冗談ですよ」
「も〜、心臓に悪いからやめてぇ」
陽菜が胸を押さえて大げさに息をつく。その横で、乃亜が小さな声でつぶやいた。
「……やっぱり強敵、かなぁ」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん、なんでもないでーす」
視線を逸らしてごまかす乃亜。
よく分からないが、妙に含みのある言い方だった。
ふと顔を上げると、颯真と木崎さんが何やらニヤニヤしてこちらを見ている。
居心地が悪くなって、俺は再びノートに視線を落とした。
……こういう空気は勉強より集中力がいる。
* * *
陽がゆっくりと傾き始め、時計の針は五時を指していた。
さすがにみんなも集中の糸が緩み始めたのか、雑談が増えている。
「そろそろ終わりにするか」
そう告げると、机の上の参考書が一冊、また一冊と閉じられていく。
「はぁ〜、終わったぁ!」
陽菜が両手を上げて伸びをする。
「勉強して笑って食べて……最高の日!」
「ポジティブなまとめだな」
颯真が苦笑し、木崎さんも「確かに」と頷く。
「私も楽しかったです。いつもと違う環境で勉強するのも、いいものですね」
朝霧さんが小さく微笑みながら言う。その一言に、自然と全員の口元が緩んだ。
「まあ、たまにはいいな。人に教えるのも勉強になるし」
「お兄ちゃん、教え方上手で助かったよ!」
乃亜が褒めてくる。悪い気はしない。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、机の上にオレンジ色の帯を作っていた。
「あとは来週がテストじゃなければ、もっと最高だったんだけどな〜」
陽菜がうんざりした声で言う。
「それじゃ、勉強会の意味ないだろ」
俺が突っ込むと、笑いが広がった。
やがて各々が荷物をまとめ、帰り支度を始める。
「じゃあ、また学校でね!」
「おつかれー!」
玄関で靴を履く音、ドアの開く音、そして楽しげな笑い声。
ひとり、またひとりと帰っていき、家の中が少し静かになった。
* * *
気づけば、リビングには乃亜だけが残っていた。
当然のように椅子から立ち上がり、食器を集め始める。
「お兄ちゃん、片付け手伝うよ〜」
「いいって。疲れただろ、少し休めよ」
「だめ。こういうのはすぐやらないと!」
エプロンをつけ直し、テキパキと食器を運ぶ乃亜。
俺は苦笑して立ち上がった。
「まあ……助かるけどな」
「それが聞ければ十分!」
得意げに笑って、乃亜は蛇口をひねる。
俺は横でグラスを拭きながら、ふと昼間の賑やかさを思い出していた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今日、なんかすごくいい日だったね」
「……ああ、そうだな」
小さく笑いながら答える。窓の外では、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
* * *
数日後。
長かったテスト期間が終わり、結果の張り出しの日がやってきた。
廊下の掲示板の前には、人だかりができていた。
「うわっ、夢中探し部の平均点たかくない?」
陽菜が掲示を見上げて叫ぶ。
「悠斗三位、美羽ちゃん五位、澄玲ちゃん八位……って、みんな優秀じゃん!」
「俺、ギリ赤点回避!」
颯真が両手を広げ、ほっとしたように笑う。
「あー、佐原君に負けたかぁ」
木崎さんが少し悔しそうに肩を落とした。
「たまたまだよ。今回は運が良かっただけ」
「いやいや、努力はちゃんと結果に出るんだって」
陽菜が感心したように言い、朝霧さんが隣でそっと微笑む。
「やっぱり……佐原君はすごいですね」
「いや、暇だから勉強してるだけって感じだし」
照れ隠しにそう言ったものの、顔が少し熱くなる。
「ま、赤点なかったからヨシってことで!」
陽菜が両手で丸を作る。
その明るい声に、全員の笑いが重なった。
廊下を通り抜ける風が髪をかすかに揺らす。
テストの緊張も、放課後の余韻も、やわらかく溶けていった。




