第37話「勉強会②」
土曜の朝。外はあいにくの雨だった。
しとしとと降り続く雨が、庭の木々を淡く濡らしている。葉を叩く雫の音が、一定のリズムで静かな家に響いていた。
部屋を出てリビングへ行くと、朝食だけがテーブルの上に並んでいた。
親はすでに出かけたようで、家の中には人の気配がない。
「いただきます」
手を合わせ、箸を取ったそのとき――「ピンポーン」とチャイムが鳴った。
続いてガチャッと鍵を開ける音がして、玄関から誰かが入ってくる気配。
「おはよう! お兄ちゃん!」
明るい声とともに、乃亜がリビングに顔を出した。
「……お前、さすがに来るの早すぎないか?」
思わずため息をつく。
「だって心配だったんだもん。お兄ちゃん、寝坊するかと思って」
「するかっ」
乃亜はぺろっと舌を出し、いたずらっぽく笑う。苦笑いがこぼれた。
「あっ、ご飯まだなの? あーん、してあげようか?」
「いらん、いらん」
「えー、残念。じゃあテレビ見てるね!」
リモコンを握った乃亜が、朝のドラマをつける。
さっきまでの静けさはどこへやら――いきなり賑やかな一日の始まりを予感させた。
* * *
朝食を終え、身支度を整えたころには、時計の針は十時半を指していた。
「そろそろ時間だね」
乃亜が呟いたちょうどそのタイミングで、再びチャイムが鳴る。
玄関を開けると、朝霧さんと陽菜が並んで立っていた。
「おはようございます、佐原君」
朝霧さんは靴をそろえ、丁寧に頭を下げる。
「おはよ! お菓子持ってきたよ! ポテチとかチョコとか!」
陽菜が大袋を掲げて満面の笑み。
「朝からハイテンションだな……」
「だって勉強会だよ? テンション上げてかないと!」
「方向性、間違ってないか?」
俺が呆れたように言うと、背後から乃亜の声が飛んだ。
「あ、陽菜ちゃんと朝霧先輩だ。おはようございます!」
「乃亜ちゃんもおはようございます。早いですね」
朝霧さんが少し驚いたように目を丸くする。
「こいつ、八時には来てたよ」
「えぇっ、早すぎ!」
陽菜も思わず笑い出す。
「まあまあ、入って入って」
乃亜が当然のように二人を促す。
「なんでお前が仕切ってるんだ」
「私の第二の家みたいなものだからね!」
どや顔で言う乃亜に、朝霧さんと陽菜が声を合わせて笑った。
* * *
しばらくして、チャイムが再びなる。
ドアを開けると傘をたたきながら、颯真と木崎さんが姿を現した。
「雨、やばいぞ」
颯真が靴を脱ぎながらぼやく。
「おはよう~。へぇ、ここが佐原君の家か」
木崎さんが興味深そうに見渡した。
「おはよう。みんな先に来てるよ。中、どうぞ」
「お邪魔しまーす!」
これでメンバーが全員そろった。
リビングとダイニングのテーブルに教科書やノートを広げる。
和やかな空気の中で、“夢中探し部・勉強会”がいよいよスタートした。
――が、開始五分。
「わかんない〜!」
「早っ!?」
陽菜がノートを抱えて叫ぶ。
「まだ一ページ目だぞ」
「出だしでつまずくタイプなんですぅ」
俺が呆れていると、朝霧さんがそっと微笑んだ。
「ここはこうですね」
「澄玲ちゃん〜〜! 流石優しい!」
「い、いえ。そこまで言われるほどでは……」
「朝霧さん、陽菜をあまり甘やかさないほうがいいぞ」
颯真がぼそっと茶々を入れる。
「うるさい、脳筋は黙ってて!」
「の、脳筋……」
思わず苦笑した颯真の顔に、美羽が吹き出した。
「ほんと、漫才してるみたいだね」
そんな調子でも、みんな手は動いている。
いつの間にか自然とペアができていた。
俺と乃亜、朝霧さんと陽菜、木崎さんと颯真。
基本的に“成績上位と下位の組み合わせ”という、わかりやすい構図だ。
ちなみに乃亜は決して出来が悪いわけではない。
一年生にとって初めての定期テストなので、主に要点の見極めを聞きに来ているだけだった。
各ペアで問題を解きながら、教えたり笑ったり。
雰囲気はまるで休み時間の教室のように賑やかだ。
「お兄ちゃん、ここの化学式って……」
「ああ、ここはこう考えると楽だぞ」
「なるほど。さっすが私のお兄ちゃんだね!」
「なんでお前が得意げなんだ……」
乃亜が胸を張り、俺は呆れ半分でため息をつく。
一方、朝霧さんと陽菜のペアは、英語の長文を前に格闘しているようだ。
朝霧さんがペンで単語を示し、文の構造を丁寧に説明する。
陽菜は最初こそ真面目にメモを取っていたが、しばらくすると「うへぇ〜」と頭を抱えていた。
「む、難しい……澄玲ちゃんの教え方が分かりやすくて助かったよ……」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
朝霧さんが小さく笑う。その穏やかな横顔が、まるで本物の教師のようだなと思った。
俺は自分の問題を進めながら、ふと声をかける。
「朝霧さん、教えてばっかで大丈夫?」
彼女はすぐに首を横に振る。
「大丈夫ですよ。教える方が、むしろ復習になりますし」
「ならいいけど。陽菜、こっちにも聞いていいからな」
「うっ、だって悠斗厳しいんだもん……」
「もちろん、ビシバシいくぞ」
そんな掛け合いに、周囲の笑いがこぼれた。
しばらくして俺は、英語の問題で少し迷い、朝霧さんの席へ向かう。
「ここの構文、どっちの訳が自然だと思う?」
「えっと……多分、こっちの方が自然だと思います」
彼女がノートを覗き込み、指先で示した瞬間――わずかに触れた指先。
その一瞬、心臓が小さく跳ねた。彼女も息を飲み、静止したように動きを止める。
互いに目を逸らすのと、陽菜の声が上がるのはほぼ同時だった。
「あー、頭が破裂しそう。糖分補給!」
自分で持ってきたチョコを口に放り込む陽菜。
その声で、張りつめた空気がすっと緩む。
俺も朝霧さんも、何事もなかったようにノートへ視線を戻した。
(……今の、ちょっとドキッとしたな)
お礼を言って席に戻る。
それからも勉強はゆるやかに進み、笑い声が絶えなかった。
教えたり教わったり、少しずつ集中のリズムが整っていく。
昼が近づいたころ、陽菜が顔を上げてぽつりと呟いた。
「ねぇ気づいちゃったんだけど、『夢中探し部』って万能すぎない? 勉強も遊びも、なんでもできるよ!」
颯真が笑って肩をすくめる。
「まあ、こういうゆるい集まりも悪くないよな」
木崎さんも頷き、クッキーをつまみながら言った。
「確かに。なんか青春っぽいかも!」
朝霧さんも柔らかく微笑む。
「……そうですね。私も、みなさんと過ごす時間は好きかもしれません」
その言葉に、一瞬だけ静かな間が落ちた。
雨の音が窓越しにやわらかく響き、笑い声の余韻を包み込む。
そして次の瞬間、陽菜が勢いよく立ち上がる。
「よーし、気合入った! この調子でがんばろ!」
「いや、そろそろ飯にしようぜ」
俺の言葉に、陽菜が盛大にずっこけた。
「ちょっと! 水を差さないでよ!」
それを見た全員が笑い出す。
こうして勉強会は、ゆるくて賑やかな空気のまま、昼休憩へと突入した。




