第36話「勉強会①」
帰りのホームルームの終わりを告げるチャイムの余韻が、まだ教室の中に薄く残っていた。
窓の外はどんよりと曇り、白い雲が低く垂れ込めている。
六月に入り、梅雨入り前の何とも言えない湿気が漂う季節だ。
――そしてテストの季節でもある。
いつものように陽菜が俺の机にやってきて、額をべちゃっとくっつけた。
「うわ〜もうテストとか無理〜!」
「まだ始まってもないのになんでそんな悲観的なんだ」
俺がプリントをそろえながら答えると、陽菜は顔だけこちらに向けて、目をギラッと光らせた。
「頭がもうオーバーヒートしてるの!」
「お前の場合、頭が常に夏だからすぐオーバーヒートするんじゃないか?」
いつの間にかやってきていた颯真がすかさずツッコむ。後ろから伸びた長い腕が、陽菜の頭を軽くコツンと叩いた。
「失礼な! 私の頭はいつも凪いでいるよ! まるで海のようにね」
「やっぱり夏のこと考えてるじゃねーか」
思わず笑ってしまう。ふと横を見ると、朝霧さんもクスクスと口元に手を当て、上品に笑っていた。
「でも今回はマジでヤバいよ。英語の先生、範囲倍に増してきてるし」
陽菜が上体を起こし、英語の教科書を指でつつく。
「今のうちに復習しておけば、きっと何とかなりますよ」
朝霧さんは穏やかに微笑み、諭すように言った。その落ち着いた声は、教室のざわめきの中でも不思議とよく通る。
「澄玲ちゃんは勉強できるの?」
「うーん、あまり苦手に感じたことはないかもしれません」
「そりゃ、編入試験受かるくらいなんだから成績いいだろ」
俺が言うと、陽菜は机に突っ伏したまま「うぅ……」と子犬のように唸った。
「勉強できる人の“何とかなる”って言葉は一番信用できない!」
その大きな声に、一瞬だけ教室のざわめきがすっと薄まる。何人かの視線がこちらを向いた。
「あっ! そうだ!」
だが陽菜はそんな空気をものともしない。急に立ち上がり、パァンと手を叩いた。
「みんなで勉強会しよ!」
「お前のテンション、緩急激しすぎかよ……」
「勢いは大事! でしょ!?」
持っていたペンをくるくる回しながら、陽菜は小さく跳ねる。そのエネルギーだけは見習いたい。
「まあ、確かに勉強会は悪くない。今週はテスト週間で部活ないしな」
颯真が肩を回しながら言った。意外と乗り気である。
「さっすが颯ちゃん! 話が早い! じゃあ場所は……悠斗ん家とかどう?」
「え、俺ん家?」
気づけば話が勝手に進んでいる。まあ、一人で勉強するだけよりかは気分転換にはなるか。
「……別にいいけど」
そう考え了承する。ちょうど週末は親がいないと言っていたし、その点でも問題はない。
「けってーい! 澄玲ちゃんも空いてる?」
視線が集まる。朝霧さんは少しだけ頷き、唇の端をやわらかく上げた。
「はい、大丈夫ですよ。お友達と勉強会って初めてなので、ちょっと楽しみです」
その言葉に、陽菜が「可愛い〜!」と叫んで抱きつく。俺と颯真は目を合わせ、苦笑をこぼした。
「どうせなら『夢中探し部』の活動ってことにしよう! というわけで美羽ちゃんと乃亜ちゃんにも声かけるね!」
あれよあれよと陽菜が勝手にメンバーを増やしていく。
俺たちの間で自然と生まれた、あのゆるい活動。何かに夢中になれるものを探す——という名目の、曖昧な集まり。
「あんま多いと家に入らないぞ」
「六人くらいなら大丈夫でしょ?」
「まあ……そうだけど」
家の広さを正確に把握しているあたり、さすが幼馴染だ。俺は観念してため息をつく。
言うが早いか、陽菜はもうスマホを取り出していた。親指が軽快に動き、通知音がピコッと跳ねる。
「今、グループに投げた! 土曜のお昼前からね!」
すぐに返信が届く。
乃亜:行きたい!
美羽:もち行くよ~!
「全員参加決定! お土産は持ってくから。ね、颯ちゃん?」
「ああ、期待しとけ」
陽菜と颯真はノリノリだ。
「えっと、本当に大丈夫ですか? ご迷惑ではないでしょうか……?」
そんな二人をよそに朝霧さんは少し心配そうに尋ねてきた。遠慮がない奴らに囲まれていたからか、その慎ましさに新鮮さを感じる。
「大丈夫だよ。朝霧さんも良かったら気にせず参加して」
俺はフッと笑ってそう答えた。
「ならよかったです。当日はよろしくお願いしますね」
そんなこんなであっという間に週末の予定が決まる。
――問題は本当に勉強になるのかだが……。
黒板の端を見ると、「定期考査まで7日」と担任が書いた白い文字。日付の横には、誰かのいたずら書きの笑顔マーク。
(まあ普段から勉強しているし、一日くらいどうにかなるか)
そう自分を納得させた。
「で、勉強会、具体的に何やるんだ?」
「とりま英語! 範囲倍増の仇を取る!」
「仇って……復習じゃなくて復讐する気かよ」
俺が指摘すると、陽菜は「さすが悠斗! ナイスツッコミ!」と舌を出した。
「でも、実際英語は難しそうですし、良いと思いますよ」
朝霧さんが鞄からノートを取り出す。ページを開いた瞬間、整った文字と見やすい色分けが目に入った。
余白の取り方も無駄がなく、必要な情報だけが的確に並んでいる。見た瞬間に「出来る人のノート」だとわかる。
「うわ、ノート美し……。それ、後で見せてもらえると助かるかも」
「もちろんいいですよ」
陽菜が身を乗り出して頼むと、朝霧さんは嬉しそうにうなずいた。
「他の教科は?」
「土曜に“わからないとこ持ち寄り”でいいんじゃない?」
「賛成。俺は数列がちょっと怪しい」
「私は物理が少し……」
朝霧さんが言い、陽菜が胸を張って言い放つ。
「じゃあ私は全部!」
「胸張るとこじゃないから」
「ほんとのことなのに〜」
陽菜が項垂れる。見ていて飽きない。
そんなやり取りの最中、机の下でスマホが震えた。RINEグループの通知だ。
乃亜:私はちょっと早めに行くね!
美羽:佐原君の家わかんないから颯くん連れてって~。
颯真:ああ、迎えに行くよ。
スクロールして俺も返す。
悠斗:乃亜>了解
陽菜:テンション上がってきた!
澄玲:私も、なんだか楽しみになってきました。
悠斗:あくまで勉強会だからな。
そう打ちながらも、心のどこかで自分も楽しみにしていることに気づいていた。
顔を上げると、朝霧さんと目が合った。見透かされた気がして、思わず視線をそらす。
彼女は何も言わず、小さく笑った。
「ねえ、当日BGMどうする? 静かすぎると眠くなるからさ」
陽菜が再び話題を振る。
「環境音くらいならアリなんじゃないか。歌詞ありは集中切れるし」
「雨の音とか?」
「それは眠くなるやつ」
「じゃあ、カフェっぽいBGM!」
後ろで颯真が吹き出す。
「お前、勉強会をカフェにするな」
朝霧さんは少し考えて、「私はどちらでも」と穏やかに言った。
窓の外では、重い雲の隙間から、淡い光が床に落ちた。
六月の初め。テスト一週間前。俺たちの計画が、また一つ立ち上がった。




