第35話「心地よい放課後②」
時計の針が六時に近づいたころ、書類の整理もようやく終盤に差しかかっていた。
外はすでに薄暗く、静まり返った教室に、紙をめくる音とペンのかすかな走りだけが響く。
——けれど、この穏やかな時間を終わらせるのが、惜しいと思ってしまっていたのかもしれない。
気づけば、無意識に口を開いていた。
「……俺もさ、中学でサッカーやめてから、なんか空虚さが抜けなくて」
ペン先を見つめながら、ぽつりと漏らす。
言ってから少し後悔した。普段の俺なら、まず人に話さないことだ。
たぶん、さっきの朝霧さんの話に触発されたのだろう。
「でも最近は……俺も、まあ、楽しいかも」
曖昧に締めくくると、朝霧さんが手を止め、静かにこちらを見た。
その視線は真剣で、どこか優しかった。
「それは、『夢中探し部』のおかげですか?」
「あー、そうかも。多分、みんなのおかげだよ」
陽菜や颯真、乃亜——サッカーをやめてから少しずつ遠ざかっていた距離が、最近また近づいてきた気がする。
そこに自然と溶け込む朝霧さん。不思議と、出会ってまだ間もないとは思えなかった。
さらに、颯真の彼女である木崎さんも加わってから、グループの雰囲気は一層にぎやかになった。
そんな日々の積み重ねが、止まっていた時間を少し溶かしてくれたのかもしれない。
「なら、私と同じですね」
朝霧さんは小さく微笑みながら、素直に頷いた。その声が、静かな教室にやわらかく響く。
少し気恥ずかしくなって、冗談めかして話題をずらす。
「まあ、それまでが灰色の高校生活過ぎたのかも。あとは……颯真みたいに彼女ができれば、完璧かもな」
軽口のつもりで言うと、朝霧さんはペンを動かしていた手をそっと止めた。
そして、何かを確かめるようにこちらを見つめる。
「佐原君は……彼女、欲しいんですか?」
「ま、まあ健全な男子高生だし、人並みくらいには」
そう答えると、彼女は数秒だけ沈黙したあと、唇の端をわずかに上げた。
「なるほど……なら、そう遠くないうちにできるかもしれないですね」
「え!? それってどういう……」
予想外の返しに思わず声が裏返る。
朝霧さんはいたずらっぽく目を細めて、ペロッと舌を出した。
「それは内緒です」
その仕草があまりにも無防備で、胸が一瞬跳ねる。
「……からかうなよ」
思わず視線を逸らした。
頬がじんわりと熱くなるのを感じながら、窓の外に目を向ける。
「ふふ……そうやって照れる佐原君、なんだか新鮮です」
朝霧さんが、柔らかく笑いながらそう言った。
* * *
ようやく作業が終わったのは六時を少し過ぎた頃だった。
外はすでに夜の気配を帯び、教室には蛍光灯の白い光が静かに広がっている。
書類をまとめ終え、最後のプリントをファイルに挟むと、張りつめていた空気がふっと緩んだ。
「これで、終わりですね」
朝霧さんが小さく息をつきながら、手元の資料を閉じる。その肩の動きに合わせて、黒髪がさらりと揺れた。
「思ったより時間かかっちゃったな。助かったよ、朝霧さん」
「いえ、私の仕事でもありますから。……でも、佐原君とお話ししているうちに、少しそっちに夢中になってしまったかもしれません」
穏やかな笑みとともにそう言って、彼女はふと視線を下げた。
机に落ちた影が、蛍光灯の光に揺れて、静かな教室の空気をより穏やかに見せる。
少しの沈黙のあと、彼女はペンを指先で転がしながら、声のトーンを落とした。
「せっかくなので、もう一つだけ……ちょっと暗い話をしてもいいですか?」
その声音はためらいを含みつつも、どこか決意のようなものを帯びていた。
お互いに過去の話をして、心の距離が少しだけ近づいたせいかもしれない。
「もちろん。何でも聞くよ」
自然とそう返すと、朝霧さんはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして、わずかに息を整えてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……実は私、男子がちょっと苦手なんです」
「……そうなのか?」
意外だなと思いながら聞き返す。目の前の女の子にそんな印象を持っていなかったからだ。
「はい。昔から、男子にからかわれることが多くて」
朝霧さんは少し遠くを見つめ、耳にかかった髪をそっとかき上げる。
光を受けた横顔が、どこか懐かしさを帯びて見えた。
「あー……」
小学生男子特有の、好きな子ほどからかうやつだろう。でも、された側にとってはただの嫌な記憶でしかない。
「中学に入ってからはそれも減ったんですけど、今度は急に告白されるようになって」
彼女の言葉は淡々としていたが、目元に少しだけ戸惑いの影があった。
「でも、ほとんど話したことのない人からいきなり告白されても、どうしていいか分からなくて。結局、断ってばかりでした」
「まあ……よく知らない相手と付き合うのは難しいよな」
そう答えると、朝霧さんは小さく頷いた。
「ですよね。でも周りは“なんで断るの?”って雰囲気で。それがしんどくて、現実逃避みたいにゲームにのめり込んでいったんです」
「それはちょっと意外だ」
でも前に一緒にプレイした時の手慣れた操作を思い出すと、妙に納得もした。
「だけど、そこでも少し嫌なことがあって。それが重なって、男子とは距離を置くようになってしまいました」
その言葉で、だいたい察した。
ネットの世界でも、女の子だと分かるとしつこく絡んでくるやつがいる。朝霧さんも、そういう経験をしたのだろう。
「なんだか……人生って難しいな」
気の利いたことは言えず、少し考えた末、出てきたのはそんな無難な言葉。
それを聞いた朝霧さんが、ふっと笑う。
けれどすぐに表情を変え、まっすぐにこちらを見た。
「でも、佐原君は大丈夫です」
その瞳に、穏やかさと少しの強さが宿っていた。
真剣さの中に、信頼のようなものが混じっている気がする。
「俺、なんかしたっけ……?」
思い当たる節が無い俺は首を傾げた。
朝霧さんは小さく息を吐き、唇に人差し指を当てた。
「ふふふ、そのうち分かるかもしれません」
どうやら教えてくれる気はないようだ。
冗談めかした声とともに、蛍光灯の光が黒髪を透かしてきらりと揺れる。
「……さあ、そろそろ帰りましょうか」
朝霧さんの穏やかな声で、ようやく我に返る。
「あ、ああ……」
俺たちは立ち上がり、それぞれ荷物をまとめた。
「今日、佐原君とお話しできて……良かったです」
帰り支度をしながら、彼女がふと呟く。
その声音に、ほんの少し名残惜しさが混じっている気がしたのは、自惚れだろうか。
「ああ、俺も。朝霧さんと一緒だと沈黙が苦にならないっていうか。なんか出会ったばかりの気がしないよ」
自然に口から出た言葉に、自分でも少し驚く。
けれど朝霧さんは何も言わず、静かに微笑んだ。
窓の外では、夜空に一番星が滲み始めている。
二人で並んで教室を出る。
言葉は少なくても、胸の奥にやさしい余韻が残った。
——こういう放課後も“青春”というのだろうか。
俺はそんな事を考えていた。




