第34話「心地よい放課後①」
週明けの月曜日。放課後のチャイムが鳴り終わってしばらく経つ。
校舎の廊下には、部活へ向かう生徒たちの足音や掛け声が遠くから届いていた。
一方で教室の中は、まるで別世界のように静かだ。
窓から差し込む夕陽が机の上を斜めに照らし、白い紙に淡い橙の色を落としている。
「学級委員の仕事を頼みたいから、放課後に職員室へ寄ってくれ」
そんな担任の言葉で呼び出された俺と朝霧さんは、職員室でプリントの束を受け取り、教室へ戻ってきた。
内容は、スポーツ大会や学園祭など——今後の学校行事に関する年間スケジュールの作成。
先生たちの下準備を手伝うようにとの依頼だった。
「えっと……大きなイベントとしては、七月のスポーツ大会と十月の学園祭ですね」
朝霧さんが、受け取った資料を整えながら確認する。
紙をめくる指先が光を受けて、白く際立って見えた。思わず目が留まるほど、静かで丁寧な仕草だ。
「じゃあ、朝霧さんは行事の一覧をまとめてくれる? 俺は準備のスケジュールを整理してみる」
「わかりました」
仕事を分担した後、それぞれ席に腰を下ろし、ペンを取る。
教室には紙をめくる音とボールペンの走る音だけが響き、静かな時間が流れた。
窓の外からは、グラウンドで練習する運動部の掛け声が遠くに混じる。
無言だけど、気まずくない。この静けさが、少し心地いい。
「……こういう作業、意外と好きかもしれません」
作業の途中、ふと顔を上げた朝霧さんが、そう言って控えめに微笑んだ。
夕陽が髪に反射して、黒髪がゆるやかに煌めいている。
「単純な作業ですけど、整理しているとなんだか頭の中まで整う気がして、スッキリするというか」
「真面目だな、朝霧さんは」
そう言うと、彼女は一瞬だけ目を瞬かせて、照れたように小さく笑う。
「そうかもしれません。でも……佐原君も、十分真面目だと思いますよ」
――真面目、か。
前にも陽菜から言われたが、自分ではあまりそうは思えない。自己評価と他者評価が乖離している場合はどちらが正しいのだろうか。
「いや、俺は流れで委員長になっちゃっただけだし、仕方なくやってるだけだよ」
「それでも、きちんとやってますよね。そういうの、偉いと思います」
優しい声に、思わず視線を逸らす。
そのまま机上のプリントを整えるふりをして、照れ隠しのようにペンを動かした。
それきり会話は途切れ、再び静寂が戻る。
窓の外では夕焼けが少しずつ色を変え、教室の壁に淡い影を伸ばしていった。
ペン先を動かしながら、ふと思う。
こうしてふたりで作業をしているだけなのに、心が落ち着く。
それが不思議だった。
* * *
資料の整理が一区切りしたころ、教室の時計はもう五時半を回っていた。西の空はすでに淡い朱から群青へと移り変わり、窓の外にはゆっくりと夜が滲み始めている。
外から聞こえる運動部の掛け声やボールの音もだんだんと小さくなっている。
静かな教室は少しいつもと違う様に感じた。
「……なんだか、誰もいない教室って不思議な感じですね」
プリントを束ねながら、朝霧さんがぽつりとつぶやく。俺と同じようなことを考えていたようだ。
「確かに。ちょっと新鮮かも」
「はい。……なんというか、日常と非日常が入り混じっているというか、そんな感じがします」
彼女はプリントを一枚ずつ丁寧にそろえ、ふっと微笑んだ。
そんな折、彼女はペンを置いて小さく息を吐いた。ふと、それまでの穏やかな空気が少しだけ沈む。
そして、心の奥から零れるように言葉が続いた。
「転校する前って、いつも不安なんです。環境が変わるのもそうですけど、また一から人間関係を作らなきゃって思うと……正直、少し怖くて」
机の上の紙に視線を落としたまま、静かな声で続ける。
「でも、ここに来てからはずっと楽しいことばかりで。……自分でもびっくりしてます」
「そう? 朝霧さんはコミュ力もあるし、どこでもうまくやっていけそうだけど」
思ったままを口にすると、彼女は首を横に振った。
「そんなことないですよ。あまり積極的な性格ではないですし……。それに、どうせ友達を作ってもまた転校でリセットされるって、どこかで考えていたのかもしれません」
その言葉を聞いて、少し違和感があった。
今まで明るく落ち着いた印象しかなかった彼女の姿と重ならなかったからだ。
朝霧さんはすぐに表情を和らげ、優しく微笑んだ。
「でも今回は違いました。陽菜ちゃんも、美羽ちゃんも、乃亜ちゃんも……神谷君もみんな優しくて。毎日が本当に楽しいです」
「それならよかった」
自然にそんな言葉が口をつく。
彼女は小さく笑みを深め、ほんの一拍置いて言った。
「……特に、佐原君のおかげです」
「え?」
不意に向けられた言葉に、思わず顔を上げた。
「最初に声をかけてくれたのも佐原君でしたし。案内してもらったり、みんなを紹介してもらったり。“夢中探し部”で一緒にいろんなことをしているうちに、気づいたら毎日が楽しくなっていて……」
「そのきっかけをくれたのは全部、佐原君、ですよ?」
そう言って微笑む彼女の横顔が、夕闇に照らされてやわらかく輝く。
その綺麗な笑顔に胸の奥がわずかに高鳴った。
「い、いや……俺なんか別に何もしてないって」
慌てて顔を逸らす。
「ふふ。謙虚さも、佐原君らしいですね」
くすっと笑うその声は、静まり返った教室の中で、どこか耳元に近く響いた。
「すみません、暗い話をしてしまって」
「いや、全然いいよ。友達のこと知れるのって、悪くないし」
そう答えると、朝霧さんは一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
そして、小さく息を漏らすように何かをつぶやく。
「……そういうところだよ」
「え? ごめん、今なんて?」
聞き取れなかった俺が首をかしげると、朝霧さんは慌てたように笑って手を振った。
「な、なんでもないです!」
そう言って、いたずらっぽく口角を上げる。
からかうようなその表情が、いつもの穏やかな彼女と少し違って見えた。
何となく気になりながらも、俺は言葉を飲み込んでペンを握り直す。
蛍光灯の下で、ふたりの手元だけが静かに動き続けた。




