第31話「行けたら行く」
五月の風が、ほんのり汗ばむ肌に心地よかった。
今日は朝から雲ひとつない快晴。空の青がやけに眩しくて、初夏に近い空気だった。
昨日、陽菜から「試合見に来て!」と送られてきたRINE。
「行けたら行く」と返したけれど、結局律儀に来てしまった。
公園に併設された市営コートにつくと、すでに人で賑わっている。
コートの外には荷物や水筒が並び、保護者たちの話し声とシューズが地面を踏む音が混ざり合っている。
俺は周囲を軽く見渡したあと、観客席の端に腰を下ろした。
アルミのベンチがひんやりと冷たい。
まだ試合前のようで、いくつものコートで選手たちがウォーミングアップをしている。
「ナイス!」「次!」と掛け声が飛び交い、ラケットに当たるボールの乾いた音が規則的に響いていた。
そんな中、ひときわ通る耳に馴染んだ声が届いた。
「ナイスショット! もう一球いくよ!」
白いユニフォームの小さな背中。
髪を高く結んだ陽菜が、元気いっぱいにサーブ練習をしていた。
ラケットを振り抜くたび、風を切る音が小気味よく響く。フォームもきれいで、ボールが弧を描いて相手コートへ吸い込まれていった。
いつもは明るくおちゃらけているのに、今は真剣な顔でボールを追っている。
(……頑張ってるな)
そんなことを思いながら見入っていると、ふと陽菜がこちらを振り返る。視線がぶつかり、彼女が目を丸くしたかと思うと――ぱっと花が咲くように笑って手を振った。
不意を突かれて、俺も思わず軽く手を上げて返す。なぜか背筋がむずがゆくなった。
やがてアップを終えた陽菜が、タオルで首筋の汗を拭きながら小走りでこちらに来る。
顔は汗で少し光っていて、それでもいつものように明るい笑顔だった。
「ほんとに来てくれたんだ! ありがとっ」
「……まあ、暇だったし」
気恥ずかしさを誤魔化すように答えると、陽菜は口元を緩めて笑った。
「ふふっ、素直じゃないな〜」
その瞬間、背後から声が飛ぶ。
「陽菜〜、彼氏〜?」
「ち、ちがうってば!」
振り返ると、同じテニス部の女子たちがこちらを見てニヤニヤしている。陽菜は真っ赤になって両手をぶんぶん振った。
「もうっ、やめてよ!」
そう言いながら、ちらっと俺の方を見る。
目が合いそうになって、俺はつい視線をそらした。居心地が悪いというより、何となく気まずい。
「とにかく、応援よろしくね! 私、がんばるから!」
「……お、おう」
声が裏返りそうになって、咳払いでごまかす。陽菜はそんな俺を見て笑うと、またコートへ駆け戻っていった。
白いユニフォームが陽射しに揺れて、眩しく見えた。
* * *
午前中の試合は順調だった。
陽菜は一、二回戦を危なげなく突破していく。
あの小さな体のどこにそんな力があるのかと思うほど、サーブは鋭く、ラリーは粘り強い。
声を張り上げながらも、表情には迷いがなかった。
観客席の端から見ているだけの俺にも、その熱は伝わってきた。コートの中で動く陽菜は、本当に生き生きとしていた。
昼休憩を挟み、三回戦は午後から行われるらしい。
俺はコンビニで買ったパンを片手に、観客席のベンチに腰を下ろして食べていた。
しばらくすると、陽菜がタオルを肩にかけたまま走ってきた。
「どう? どう? 二回も勝っちゃったよ!」
「ああ、すごいな」
俺は素直にそう答えた。
「でも次の相手、めっちゃ強いんだよね……」
さっきまでの明るさが少ししぼんで、陽菜は手元のペットボトルをいじる。
「まあ、頑張れ。やれることをやればいいだけ、だろ?」
「……そうだね!」
ぱっと笑顔を取り戻し、陽菜は背筋を伸ばす。
「じゃあ、行ってくるよ!」と声を残して、再びコートへ走っていった。
――そして三回戦。
周囲の話を聞く限り、相手は大会でも優勝候補と呼ばれる選手らしい。
最初のゲームこそ互角だったが、相手の正確なコントロールとスピードに次第に押されていく。
それでも陽菜は諦めなかった。ボールを追い、ギリギリまで踏み込んで、滑り込みながら打ち返す。
スカートの裾が風に揺れ、ラケットの打球音が空気を震わせる。
額の汗が光り、それでも表情には焦りよりも笑顔があった。
結果はストレート負け。
内容を見れば本当に僅差だったが、スコアの数字は冷たく結果だけを示していた。
だが、試合が終わったあと、ネット越しに相手と握手を交わす陽菜の姿には、悔しさよりも清々しさがあった。
俺は観客席を降り、フェンスの外で彼女が出てくるのを待つ。タオルで顔を押さえながら陽菜が現れ、俺に気づくと少しだけ笑った。
「惜しかったな」
「うん……でも、全力出せたから悔いはないよ。次は勝つ!」
その言葉が妙にまっすぐで、俺は思わず口角を上げる。
「流石だな」
「え?」
「そういうとこ、陽菜っぽい」
陽菜はきょとんとしたあと、照れくさそうに頬をかいた。
「……それ、褒めてる?」
「さあな」
俺が軽く肩をすくめると、陽菜は唇を尖らせて笑う。
それから特に言葉もなく、俺たちは並んで観客席に戻った。まだ続く試合を、二人で黙って見つめる。
風が少し強まり、ネットがかすかに揺れる。ボールの弾む音と審判の声が響く。
誰かが全力で何かに打ち込む姿――それを、こうして見るのは久しぶりだ。
(いや……俺が、見ようとしなかっただけか)
そんな考えが浮かんで、思わず自嘲めいた笑みが出る。
隣を見ると、陽菜は真剣な表情でコートを見つめていた。きっと少しでも何かを吸収しようとしているのだろう。
その横顔がまぶしく見えて、ほんの少し、遠くへ行ってしまったように感じる。
「ん? なんかついてる?」
視線に気づいた陽菜が首を傾げた。
「あ、ああ。髪に何かついてるぞ。そこ」
反射的に誤魔化すと、陽菜は慌てて指先で髪を払う。
「えっ、嘘、どこどこ?」
その必死な姿がどこか小動物を想起させ、思わず苦笑が漏れる。
――やっぱり、いつもの陽菜だな。
少しだけ肩の力が抜けた。
* * *
すべての試合が終わり、夕方の会場には静けさが戻っていた。風の音と、遠くでボールを片付ける音だけが響いている。
陽菜はミーティングがあると言って、少し前に部員たちのもとへ戻っていった。
俺はベンチに腰を下ろしたまま、コートの照り返しが薄れていくのをぼんやり眺めていた。
(……そろそろ帰るか)
名残惜しさを感じつつも腰を上げる。そのとき、フェンスの向こうでミーティングを終えた陽菜の姿が目に入った。
陽菜はこちらに気づくと他の部員と少し話してから、スポーツバッグを揺らしながらこちらへ駆けてくる。
「悠斗、一緒に帰ろ!」
「ほかの部員と帰らなくていいのか?」
「今日は現地解散だから大丈夫。ちょっと冷やかされたけどね」
苦笑いしながら、陽菜は前髪を指でかき上げる。汗のあとがまだ少し残っていて、それが少しだけ色っぽく映った。
(って何を考えてるだ俺は)
頭を切り替えて口を開く。
「ん、なら帰るか」
「うん!」
並んで歩き出す。公園を離れた途端、静けさの中に生活の匂いが戻ってきた。
夕飯の香りが風に混じり、家々の窓から明かりが漏れている。
「あー、悔しい!」
陽菜が両腕を空に伸ばして、思い切り息を吐いた。
「さっき悔いはないって言ってただろ」
「それはそれ、これはこれ! 今思えば“ああしとけばよかったな”とか山ほど出てくるんだよ。帰ったら反省会だね!」
ケロッとした口調に、思わず苦笑が漏れる。その明るさに、試合中の真剣な表情が少し重なって見えた。
しばらく言葉を交わさないまま歩く。
街灯がひとつ、またひとつ灯りはじめたころ、陽菜がぽつりとつぶやいた。
「……来てくれてありがと。ほんとは来てくれないと思ってた」
「……そうか」
素直に返すと、陽菜は少しだけ歩調を緩め、視線を足元に落とした。
「悠斗、やっぱり少し変わったね」
「え?」
「前より楽しそう。……なんか、いいことあった?」
急にそんなことを言われて、答えに詰まる。ごまかすように息を吐き、口角を上げた。
「そう見えるか?」
「うん。なんというか、顔が柔らかくなったよ」
夕焼けが沈みかけた空の下、陽菜の横顔が穏やかに照らされている。頬がわずかに赤く、どこか照れくさそうだった。
俺は何も言わず、足元に伸びる二人の影を見つめた。
並んでいるのに、少しだけ距離がある――そんな影。
分かれ道に差しかかると、陽菜が振り向いた。
「また試合あるとき、呼ぶね」
「……行けたら行くよ」
「またそれ〜。でも、ちゃんと期待しとく。……今日も勇気出たよ、ありがとね」
笑顔でそう言うと、陽菜はバッグを背負い直し、軽く手を振った。そのまま夕焼けの中を歩き出す。
長く伸びた影がかすかに俺の足元と重なり、すぐに離れた。
俺はしばらくその背中を見送っていた。




