第29話「わたしのお兄ちゃん」
――九条乃亜 視点
GW初日の夜。
長野への小旅行から帰ってきて、ご飯とお風呂を済ませたあと、ベッドにそのままダイブした。
心地よい疲れに包まれながら、自然と今日の出来事を思い返す。
出会ったばかりだけど、朝霧先輩は思っていたより話しやすくていい人だった。
陽菜ちゃんや颯真くんとも久しぶりに遊べて――そして何より、お兄ちゃんと一緒にどこかへ行けたのが嬉しかった。
(楽しかったな)
そんなことを思いながら、私はスマホを手に取る。
夢中探し部のグループRINEを開くと、通知が一気に流れ込んできた。
みんなが次々と今日の写真をアルバムに追加しているところらしい。
私も負けじと、撮りためた写真をアップロードしていく。一通り投稿を終えて、スクロールしながらみんなの写真を見ていった。
善光寺の集合写真、アップルパイを頬張る陽菜ちゃん、ふざけたポーズの颯真くん。
どれも今日の空気がそのまま詰まっているみたいで、自然と頬がゆるむ。
――けれど、途中で手が止まった。
見覚えのない一枚があったのだ。
電車の中で眠るお兄ちゃんと、その肩に寄りかかる朝霧先輩。
どうやら、私が寝ている間に颯真くんが撮ったらしい。
「……いいなぁ」
思わず小さく声が漏れた。まるで恋人みたいな距離感で、ほんの少しだけ胸がざわつく。
私は画面を見つめたまま、指を動かした。
乃亜:朝霧先輩ずるい! お兄ちゃんの肩、安くないよ!?
送信ボタンを押したあと、じんわりと胸の奥がチクリと痛んだ。
――多分、嫉妬。
けれど、そのあとすぐに、別の写真が目に入る。お兄ちゃんが笑っている一枚。
いつもの仏頂面じゃなくて、心から楽しそうに笑っている。
少し照れくさそうな笑顔は、昔から変わらない。
「……お兄ちゃん、最近たのしそう」
ぽつりとつぶやくと、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
そういえば、こんなふうに笑うお兄ちゃんを見たのは、いったいどれくらいぶりだろう。
スマホの画面を見つめながら、私は自然と笑みをこぼしていた。
――まるで、あの頃みたい。
そんな言葉が頭に浮かび、ゆっくりとまぶたを閉じる。
気づけば、幼い日の光景を思い浮かべていた。
* * *
私が“お兄ちゃん”と出会ったのは、まだ保育園のころだ。
その頃はまだ“悠斗くん”と呼んでいた。
うちの両親は共働きで、朝から晩まで家にいないことが多かった。
だから私は、よく隣の佐原家に預けられていた。当時は佐原のおばさんが家で仕事をしていたからだ。
その家にはひとつ年上の男の子――悠斗くんがいた。
けれど、幼い私は預けられることが気に入らなかった。どうして自分だけパパとママに遊んでもらえないのか。そんな理不尽を、子どもながらに抱えて、よく拗ねていた。
最初の頃、悠斗くんは私をどう扱えばいいのか分からなかったみたい。それでも一緒に過ごすうちに、少しずつ打ち解けていった。
庭で虫を探したり、公園で鬼ごっこをしたり。転んで膝をすりむいたときも、泣きそうな私の頭をそっと撫でてくれた。
「泣くな。ちょっとしみるけど、すぐ治るから」
そう言って、真剣な顔で絆創膏を貼ってくれた。
――面倒見がいいのは、昔からなんだよね。
あの頃の私は、きっとわがままだった。お菓子を独り占めしたり、拗ねたり、わざと悠斗くんを困らせるようなことを言ったり。
それでも、悠斗くんは怒らなかった。困ったように笑って、根気よく付き合ってくれた。
そんな日々の中で、私はいつの間にか“悠斗くん”ではなく、“お兄ちゃん”と呼ぶようになっていた。
誰よりも近くにいて、甘えられて、面倒を見てくれる人。
――お兄ちゃんは、私にとって“安心”そのものだった。
* * *
お兄ちゃんとの関係は、小学校に上がってもほとんど変わらなかった。
相変わらず私の面倒を見てくれる、隣のお兄ちゃん。
陽菜ちゃんや颯真くんといった、お兄ちゃんの友達とも、一緒に遊ぶようになっていった。
そのころから、お兄ちゃんと颯真くんはサッカーを始めた。
私と陽菜ちゃんは、練習や試合をよく見に行っては「がんばれー!」って声を張り上げていた。
土のグラウンドを駆け回るお兄ちゃんの姿は、本当に楽しそうで――私はその笑顔を見るのが何より好きだった。
中学生になると、部活が始まって少しずつ一緒に過ごす時間は減った。
でも、家では相変わらず同じテーブルで夕飯を食べたり、他愛もない話をしたり。“隣にいること”が、当たり前の日常だった。
――そんなある日、事件が起きた。
大会前の練習試合で、お兄ちゃんが大きな怪我をしたのだ。復帰までに時間がかかると聞かされても、私は「きっとまたすぐにサッカーをするお兄ちゃんが見れる」と信じていた。
けれど、治ってからもお兄ちゃんはグラウンドには戻らなかった。
それからのお兄ちゃんは、少し変わってしまった。笑うことが減り、休日も部屋にこもる時間が増えた。
家では以前のように優しくしてくれたけど、一緒に出かけようと誘っても「今はいいや」と断られることが多くなった。
そのたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、私は気づかないふりをした。
無理に踏み込むより、いつも通りの私でいるほうがいい――そう思ったから。
前みたいに話しかけて、からかって、笑わせる。それが私にできることだった。
そんな日々が続いたけれど、高校に入ってからのお兄ちゃんは、少しずつ変わり始めた気がする。
学校から帰ってきたときの「ただいま」の声が、前より少し明るくなっていた。
どうやら、オンラインで一緒に遊ぶ友達ができたのが良かったらしい。
――正直、ちょっと羨ましかった。
私はゲームがあんまり得意じゃないから。もし上手だったら、同じ時間を過ごせたのかなって思う。
でも、それ以上に。
お兄ちゃんがまた元気になってくれたことが、何より嬉しかった。
* * *
今日の旅行、本当に行けてよかった。
――お兄ちゃんが、どの瞬間も心から楽しそうだったから。
まるで、昔のお兄ちゃんに戻ったみたい。笑い声を聞いているだけで、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
……私も、その笑顔の理由のひとつになれていたらいいな。なんて、少しだけ思ったりして。
スマホを閉じて、ベッドの上で小さく伸びをする。
「……明日からは家族旅行か」
思わず、ぽつりと声が漏れた。
連休の残りは、両親と一緒に出かける予定だ。
普段は仕事で忙しいぶん、こういうときくらいは家族サービスをしてくれる。
もちろん嬉しい。
けれど――少しだけ、寂しい。しばらくお兄ちゃんに会えないと思うと、胸のあたりがきゅっとなる。
「……休み明けに、また甘えに行こう。待っててね、お兄ちゃん」
そう小さく呟いて、枕に顔をうずめる。自分で言っておきながら少し照れくさかった。
部屋の明かりを消すと、柔らかな闇がゆっくりと私を包み込む。
今日はいい気分で眠れそう――そう思いながら、静かに目を閉じた。




