4.巫女姫リュシア
「__シンフィル三等魔獣治癒士に、つがいが顕現したとは、まことか?」
独立神政国家、ラズナヘイム。
神の声を聴く巫女と、神獣を祀る者たちの国である。
オルドレア大陸中央北部に位置するこの独立神政国家は、その名の通り、神とともに在る。
国の中心にそびえたつのは、白亜の大神殿。
祈りの使徒と呼ばれる市民はもちろん、市街特別区域に住まう貴族たちにとっても、そこは誇りであり、精神的支柱であり、目指すべき到達点だった。
そんな神域の中央塔、最高層階に不穏な女の声が響いた。
「説明しなさい、フロディス神官長。神獣の声も届かず、儀式も未だに行われていない……それにもかかわらず、“異邦人”をシンフィルに迎えに行かせたと聞きました。
わたくしの承諾も得ぬまま、得体の知れぬ者を“つがい”と認めるとは、一体何の権限に基づく判断ですか?」
厳しい声で問う声の主は、一本の後れ毛も残さずきっちりと結い上げた黄金の髪、すべてを見透かすような深い緑色の瞳の美しい女だった。
彼女の名はリュシア・エル・グラディス=ラズナヘイム。
ラズナヘイム王家の第一王位継承者にして、大神殿の姫巫女である。
存在だけでも周りの者たちを美しさと神々しさで威圧するような彼女が、柳眉を逆立てて怒りをあらわにしているのだ、並の人間ならたじろぎそうなものだ。
だが、対する頭の禿げあがった好好爺__フロディス大神官長はうっそりと笑うのみ。
「説明、と言われましても。わたしには顕現という神獣のご決断を受け入れるのみ」
「ならばそのご決断について、今一度審議が必要だとわたくしは考えます」
「__顕現は神の意志でございますぞ。巫女であられるあなた様が、その選定に疑問を抱かれるとは……いささか、驚きですな、リュシア姫」
濃紺の神官服の詰襟を皴くれた指で正しながら、穏やかな口調でそう述べたフロディスに、再びリュシアの目が冷たい光を帯びる。
(__この男、またわざと私の嫌う呼び方を。いいえ、こんなつまらない挑発にのってはいけないわ)
「ここでは、わたくしを姫と呼ばぬよう、以前も申し上げましたが?呼び名ひとつにも祈りの在り方は宿ります。神殿においては、わたくしもまた神獣に仕えるひとりの巫女に過ぎないのですから」
「おやこれは失礼__しかし神の声を聴く巫女姫よ、私の目には、貴殿がこたびのつがいの顕現にお心を乱されておられるよう見受けられます」
いつものように穏やかで、丁寧な物腰__しかしその口調にわずかな嘲りの染みを落としつつ、フロディスはゆったりとその身をソファーに沈めた。机上のカップを手にしてゆっくり口を湿らせる。
「まさか、まだ神獣の声が御身には届いていらっしゃらないのですか?」
「…………」
一瞬だけ空気が揺らぐ。しかしそこで動揺を見せるリュシアではない。
リュシアはフロディスからの探るような視線を受け止め、冷静に見つめ返した。
「否定はしません……ただ、神獣の御声は、時に沈黙という姿で真理を告げることもあるもの」
「沈黙、ですか。はてさて、貴殿のように竜の血の流れる身ではないゆえ、”聞こえぬ”苦しみは分かりかねますが、さぞやお辛いことでしょうな……」
背筋を撫でられるような物言いに、リュシアの柳眉が不快気にひそまるのも気にもとめず、フロディスは一度言葉を止めた。勝ち誇ったかのように微笑む。
「事実、神託は下されたのですぞ。複数の神官や巫女たちから、ザナルの墜森に、シンフィルの”つがい”となる者の気配を感じたと報告が相次いだ__無論、私もまたつがいの気配を感じた一人」
自信に満ちたフロディスの言葉に、しかしリュシアはたじろがず冷たい目で彼を見返した。
「私の耳に神獣の声が届かぬ以上、軽々に歓迎はできません。たとえその人物が、“15年待ち続けた彼のつがい”と謳われていても、です」
「シンフィル三等魔獣治癒士はその身に多大なる魔力を宿しながらも、肝心の魔獣治癒の力は半人前。その男が先代の悲願でもあった”つがい”を得たのですぞ?こんな喜ばしいことはあるまい」
「わたくしは、真偽のほどを問うているのです。わたくしは神に仕える巫女であると同時に、王家の者でもあります。神殿とこの国の権威を守るためならば、すべての曖昧に目を光らせねばなりません」
言い切り、フロディス大神官長を正面から見据えた。
だがフロディスは微塵も怯まぬまま、わざとらしく嘆息した。
「巫女姫よ、あなたにはこたびのつがいの顕現がどれほどの国益をもたらすか想像がつきませぬか?」
「そのような心配は、かの”つがい”なる人物が、万が一、神獣フロウラ様の呼んだ真実の”つがい”であると判明した場合に致します」
言いつつも、リュシアの瞳はその万が一に思い至り一瞬の動揺を宿して揺れた。
神獣の選んだつがいは、神獣の加護により大いなる力を得る。
それはこの国オルドレアの黄金律である。
だが、かつてその得た力によって隣国を蹂躙しようとし、自国まで滅ぼしかけたつがいがいるという。
今まさに、彼女の背後の白亜の壁に刻まれた神話のレリーフが、それを黙して語っていた。
(確かに……彼の黒い渦巻くような魔力は、今でさえこの国の頂点ともなりうる力)
「”つがい”は、時に国をも揺るがしうる力。神獣の与えたもう奇跡。シンフィル三等魔獣治癒士は魔獣治癒士でありながらその力が弱い。まことのつがいなら、かの者の力を全きの力に変えるはず。それは大いなる国益につながりますぞ」
浮きたつようなフロディスの言葉に、しかしリュシアの脳裏に浮かんだのは、彼の秘めた魔力が解き放たれたときの情景だった。
抑えきれぬあの黒く渦巻く魔力は、王家の血を引く巫女である自身ですら、まるで別の次元にあるかのように感じた。
殲滅のためだけに磨かれてきたその力が、もし“真なるつがい”によってさらに強化されるとしたら。
(__それは、脅威でしかない)
「……ただ、その“全きの力”が治癒の力だけでなく、他の力にも及べばどうなることか」
リュシアの声は、いつの間にか静かに沈んでいた。
「……シンフィルの魔力は、わたくしと同等か、それ以上。しかも、それは癒しではなく、殲滅のために研ぎ澄まされてきたもの。そんな彼が“真なるつがい”を得たなら──」
リュシアはゆっくり立ち上がり、冷たい石の床に靴音を響かせながら窓に歩み寄る。
「__止めなければなりません」
その目に映るのは夕暮れに染まり茜紫に色を変えゆくオルドレアの街並みか、そのずっと先に座すザナル墜森の瘴気の霧か__
「では、巫女姫は”つがい”が真実であれ、虚偽であれ、どちらにせよ歓迎はせぬということですな。大いなる慈悲をつかさどる神獣フレイアの巫女でありながら、なんと手厳しいことだ」
あきれたようにフロディスが肩をすくめる。不敬なしぐさに、しかし新たな危機感に胸騒ぎを覚えたリュシアの目には届かない。
「シンフィルがその”つがい”とやらを連れ帰ってきた折には、わたくし自らが見定めましょう。あなたにももちろん同席していただきますわ、フロディス神官長」
リュシアはそう言うと、応接机に刻まれた神獣たるドラゴンの彫刻を見つめるふりをしつつ、そっと目を伏せた。
脳裏に浮かぶのは恐ろしいまでに整った顔立ちをした男の、人を喰ったような皮肉な笑み。
魔獣治癒士としての家系は王家に連なる高貴な血筋だ。いくら彼が魔獣治癒士としての力をわずかしか得ず半人前であったとしても、彼には魔獣殲滅士としての輝かしい地位がある。
かつては自身の伴侶の候補として意識した時もあった。
しかし、今はリュシアには彼が「そう」ではない何よりの確信がある。
あれは触れてはいけない黒い炎だ。高潔高貴を重んじるリュシアの魂が拒絶している。
まともな神経の者で、あれにつがえる者などいるわけがない。
彼の中に渦巻く魔力を思い出すと、背筋をなぞる冷気のような感覚が這い上がる。
……これは、嫉妬などではない。
(__ただ、それでも)
真偽のほどが分からない”つがい”などでシンフィルの心を引っかきまわしてしまうことは、余計、彼を傷つけることになるだろう。そうなった時、彼は更なる孤独に沈むのだろうか。
巫女姫としてではなく。
一国の姫としてでもなく。
彼の孤独の一端でも見てしまってなおも、何もできないリュシアだが。
期待した彼が、また喪失に沈む姿を見るのは避けたいと思った。
この世に顕現したとされる得体の知れない”つがい”などが彼の黒い炎を消せるはずがない。
神獣の権威を汚してまで、このような茶番が起きている事に、こみ上げる怒りをため息に変える。
「どうか真実をお聞かせください__神獣フレイア様」
リュシアのささやくような願いにこたえる者は誰もいない。
茜紫の光が差し込む部屋の中、フロディスの目だけが昏く、光っていた。