閑話 呪歌
焚き火の残り火が、かすかに薪を弾く音を立てている。
その隣、静かにスケッチブックをめくっていた雨歌が、ふいに言った。
「……ねぇ、きみ。魅了眼以外で、人を恋に落とす魔法って、ある?」
シンフィルは視線を持ち上げると、しばらく黙ってから、口の端をゆっくりと持ち上げた。
「……唐突だな。おまえ、そういうのに興味あったのか?」
「うん。……なんとなく」
「……ほぉ」
まるで美味な獲物を見つけたかのように喉の奥で笑い、シンフィルは膝を組み替える。
その仕草だけで、焚き火の赤がやたら艶めいて見えた。
「じゃあ、講義してやるよ。“恋愛感情に作用する魔術”ってやつについてな」
雨歌は手を止めたまま、素直に続きを待った。
シンフィルは、薄く笑ったまま、ひとつ指を立てる。
「まず一つ目。精神干渉。これは、相手の感情を直接揺さぶる術。喜び・恐れ・欲望……どれでも増幅できる。たとえば“孤独”を煽ってから“関心”を向けてやれば、依存に変わる。__恋、ってやつにな」
もう一指。火の色に照らされた長い指が、いやに優雅に立つ。
「次に、意思優先の書き換え。これは、相手の“選択の順位”を操作する。たとえば、“この人を見ていたい”という気持ちを、食事や睡眠より上に置いたりな。……そうすると、馬鹿みたいに四六時中、相手のことばかり考えるようになる」
「恋というより、洗脳っぽい」
「違わないよ。恋と執着の境界なんて曖昧なもんさ」
三指目。
「呪歌。音に感情を埋め込む魔術。歌詞じゃなくて、音程や呼気の揺らぎ、共鳴の波長で術式を走らせる。恋慕もできるし、恍惚も、涙も引き出せる」
「……きみ、歌えるの?」
「さぁ? 歌ってみたら惚れるか?」
わざとらしい冗談に、雨歌は目を細めただけで答えなかった。
最後に、四本目の指が立つ。
「そして……淫印。これは、身体に直接印を刻んで、恋情と快楽を連動させる術。……触れられると、心も身体も“その人”にしか反応しなくなる。ある意味、最も原始的で、獣じみてる」
「それは……誰かに、使ったことあるの?」
「興味あるか?」
「ある」
ふっと笑ったシンフィルは、最後に指を下ろし、焚き火を見つめながら囁くように言う。
「……でもな。どれだけ術を使おうが、結局一番“芸術的”に人の心を壊せるのは……魅了眼だよ」
「芸術?」
「そう。見つめるだけで、人間の“判断”と“欲”の境界をぼかして、微細なニュアンスを植えつけていく。色、形、光、動き――言葉じゃなく、“視覚”だけで心を奪う。……まるで絵画みたいだろ?」
雨歌が一瞬、彼を見つめ返す。
その目が美しいのは、絵を描くために世界を観てきた目だから。
けれど__
「……きみ、ほんとに気持ち悪いね」
「褒め言葉だろ?」
にやりと笑って、シンフィルは指をひとつ、雨歌のあご下に添える。
「……で、おまえはどうなんだ? 俺に、なにか術でもかけられてる気がしてる?」
「わたしは……“わたしの目”で、きみを見てるよ」
そう言った雨歌の声が、ほんのすこしだけ熱を帯びていたことに、シンフィルは気づいていた。
だから彼は、それ以上は問わず__
ただ静かに、笑ったまま火を見つめた。
「呪歌……きみ、ほんとに歌えるの?」
雨歌は興味と皮肉のない交じった眼で、シンフィルをじっと見た。
「“歌えるか”じゃない。“歌うかどうか”だ」
返ってきたのは、余裕に満ちたねちねちとした笑み。
シンフィルは雨歌の方に半歩近づき、指先で彼女の頬のあたりをなぞる。
「……濡れる準備、しとけよ」
「……」
ゾクッとするような甘く低い囁き。
その声だけで、まるで魔術にかけられたような錯覚に落ちかけた、が__
__次の瞬間。
「……ん゛んっ……♪」
__音。
それは、この世のものとは思えない微妙な音程で、焚火の空気を揺らした。
「ぼぇ……」
(……ぼえ?ジャイアン?)
雨歌の腹筋に、緊張と破壊の予兆が走る。
「ほぉ~お……てぇ~~いのぉ~お……まよぉい~もぉ~~……」
息多めの呪的ボイスで、音階をなぞっている、つもりのシンフィル。
ムードだけは満点。声も色気たっぷり。
でも、音程が毎回微妙に外れている。むしろ全部外れている。
「ッ……っ、く……ッ!」
雨歌はスケッチブックを顔に押し当て、肩を震わせて必死に笑いを堪えた。
火の粉がはぜるたびに、シンフィルの魔性の歌声が追い打ちをかけてくる。
「おぉお~~まえぇぇ~の~~こ~ころぉおを~~いまぁ~、とぉらえぇ……ぬ゛ぅっ……!」
(だめ……だめ、死ぬ……しぬ……!)
涙が滲む。腹筋が千切れる。笑ってはいけない空気が、逆に拍車をかける。
「……雨歌?」
ピタリと歌声が止まる。シンフィルが首をかしげて覗き込む。
「……あんた、今、笑ってねぇか?」
「……っ……ぃ、いえ、いまのは……ちが、ぅ……魔力が、強くて……く、苦しくて……」
瀕死の演技。顔真っ赤。呼吸も乱れている。
「へぇ……苦しいか。もっとかけてやろうか?」
(やめて……殺す気……!?)
絶望。
シンフィルは「効いてる」と勘違いしたまま、また唇を震わせはじめる。
雨歌は、死ぬ気で笑いを押し殺しながら、燃え残ったスケッチブックに「音痴」と書いて墓標を立てた。




