2.気持ちわりぃ女
ザナルの墜森の空気は、最奥にひそむ”死にゆく大樹”、イシュタールの根から絶え間なく噴き出る瘴気の影響を受け、常によどみ、歪み、毒されている。
生きているものはほとんどいない。堅牢な鱗に覆われた魔獣でさえ、いちど足を踏み入れたなら最後、日没には瘴気に当てられ瘴獣化しているような土地である。
そんな所へ落ちた空気の読めないスットコドッコイを『つがいがとうとう顕現した、丁重に連れてくるように』と神官長から命を受けたのが10日前のこと。
シンフィルは、出発要請の間際まで、いつもの手練手管でたらしこんだ巫女の部屋に潜伏しつづけ、その命をやり過ごす気でいた。
結局、旧知の上官に見つかり引きずり出されたのだが。
そもそもが面倒な話だった。
神官長がのたまうには、時空の歪みにより落ちた時間がねじまがり、スットコドッコイが落ちた時間と、神獣が呼び寄せた時間に差が出たらしい。
おそらく、つい先刻やってきたばかりなのだろう。でなければ瘴気満ちる森で10日間も生き延びられるわけがない。
しびれを切らした上官が捜索をシンフィルひとりに任せてさっさと中継地に引き返してゆくのを昨夜、忌々しく見送ったばかりの彼は、とにかくこの面倒ごとを次は誰に押し付けようか考えていた。
落ちてきて、泣き叫ぶような女ならばまだ可愛げがある。見目が良ければ同情するふりをして、可哀想にといたぶる楽しみもある。
ところが、だ。
シンフィルが墜森の奥にてくだんの女を見つけたときは、その女は瘴気だまりのど真ん中で、ぶつぶつと何やらひとりごとを言いながら、お絵かきに興じていたのだ。
「この変態女が俺のつがい?冗談だろ。顔に珍妙なもん張り付けたこの女が?バカバカしい」
シンフィルは焚火の前に転がした女をつま先でつついた。かれの言うところの「珍妙なもん」であるレンズの割れた眼鏡が女の目元からずり、とずれる。
何が連動したのか、ぷぴ、と女の鼻が鳴ったのをきいてシンフィルは思わず口元をゆがめかけ、引き締めた。
思い返すのは、瘴気の影響で紫色のまだらになったオルドレアの夕陽と、それに照らされ、ぎらりと輝く狂気の目。
今までシンフィルに話しかけられた女たちは、常に何かしらの彼の嗜虐心を満足させる反応をくれたものだった。
それを彼女は、何と言ったか?
「あと5歩右にずれろだぁ?」
思い出し、つのるいら立ちとともに彼女が倒れても最後まで胸にかき抱いていた紙の束に目をやる。
先ほどぱらりとめくったその中身。
目に飛び込んできた線と光の狂気の渦に、ひそかに彼は目を見張り。
そんな自分が許せないかのように紙の束を荒々しく閉じたのであった。
「気持ちわりぃ女だよなぁ?ルーガン」
相棒は何も答えず、しっぽだけを振った。
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頬が熱い。
暖房でも点けっぱなしで寝てしまったのだろうか。消さなくては。雨歌のまぶたがゆっくり震える。
(――――違う、ここは自分の部屋じゃない)
(わたし、絵を描いてた。醜くて、美しい景色の)
紫色の夕陽、歪んだ木々。
意識がじんわりと戻ってくる中、パチパチと火が爆ぜる音と、それに混ざるハァハァとした息づかいが耳をうつ。正体が知りたくて、雨歌が目をゆっくりとあけた時。
「わ」
目の前いっぱいに、大きな犬の顔が飛び込んできた。
犬というには精悍すぎる、もっと荒々しい、野性味のある美しさ。狼だ。
(きれい。毛並みが黄金の小麦畑みたい。艶があって、なんて美しいんだろう……描いてみたい。描けないけれど)
神々しいまでの張りつめた佇まい。だけど、その瞳は黄金色にくるめいて、優しく雨歌を見つめている。
白銀の毛並みが今はたき火の明かりに照らされて、夕焼けのようだ。
さらにその背中には地球の狼にはありえない翼が、今は小さく折りたたまれているのを見て、思わず雨歌は手を伸ばしかけ――――
(この子……)
やめた。
「寝起きにしちゃいい判断だ」
背後から低い男の声がして、思わずビクリと体が震える。
「へえ?可愛い反応もできるんだな」
近づいてきた男を、雨歌は身を起こして見上げた。
黒い髪に赤い目。
黄金比に基づいた整い方、と狼に対する感想と比べてあまりにも短すぎる感想を雨歌は淡々と心中で述べ、ゆっくり首をかしげる。
「きみ、だれ?ここ、どこ?」
「さあねぇ?」
じわりと男の目が意地悪に細められる。
話す気がないらしい。雨歌は質問をかえた。
「この子、きみの狼?」
「狼じゃねぇよ、翼狼。アンタ翼狼も知らねーのか?自分の主を決めたら生涯その主にだけ忠誠を誓う、誇り高き孤高の魔獣。空を駆け、群れで狩りをする姿は圧巻だ。大きさは体長2メートル、大きい個体だと3メートル近いのもいるな。ルーガンはオスのわりにやや小さめだ」
「そう。きみ、生き物が好きなんだね」
魔獣の話になると急に早口になった男は、何かを誤魔化すかのように鼻を鳴らした。
「俺は魔獣治癒師だからな、詳しくて当たり前」
「まじゅう……ちゆし」
「魔獣は弱っている時に瘴気に当てられたり、病気や怪我が悪化すると瘴獣になる。それを防ぐために先手打って癒やすのが俺のお仕事。ま、俺は瘴獣に堕ちた奴らを殲滅することの方が多い。たまーに、瘴気渦巻く森の中でお絵かきするような変態を捕まえにいくクソめんどくせぇ仕事もあるけどな」
「そうなんだ」
「……」
雨歌は男の胡乱な目つきも気にせず、傍らでお座りを
している狼――ルーガンに今一度、手を伸ばした。
「おい、やめとけ。ルーガンは孤高の魔獣……」
「よくろう、でしょう?でも、この子」
雨歌はそっとルーガンの翼を撫でた。
「飛ばないんだね」
「……なんで分かった」
男の声が低くなる。
「見れば分かる」
雨歌の発言を肯定する響きに、雨歌は気をとめる様子もない。
「飛ぶ子って、肩甲骨がもっと開いてるはず。ここ……背中の筋肉が、翼を支えるには足りない」
「…………」
「あと、脚の使い方。地面を蹴る時の重心が、ずっと前足寄り。翼を使う子なら、後肢にもっと“ため”がある。……この子、そうじゃない」
雨歌の声は、感情もなく静かに落ちていく。でも、じっと見つめる目だけがやけに熱を帯びている。
「無理に飛ぼうとした痕もない……はじめから、飛ぶことを“選ばなかった”んだ。すごく、綺麗に、地面を歩く体になってる。……ああ、そうか」
「……なんだよ」
「この子、歩くことを、選んだんだ。一緒に歩きたい相手がいるんだね」
男は何か言いかけ――すぐに口を引き結んだ。
雨歌の細い指先がルーガンの翼をなぞるように撫でるのを目に入れながら、男はポツリと、
「やっぱり気持ちわりぃ女」
とだけ呟いた。