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閑話 アベイルにて、文字のおべんきょう


「おい雨歌、文字を教えてやる」


昼下がりの宿の一室。

雨音のない静けさに、そんな宣言が唐突に落とされた。


スケッチブックを閉じ、雨歌はこくんと小さく頷いた。

文字が読めなかったゆえに、買うつもりの無かった買い物をしてしまったことは記憶に新しい。


「……読めるようになりたいとは、思ってた」

「ふうん」


シンフィルは興味のなさそうな相槌を打ったくせに、もう次の瞬間には勝手に筆と画用紙を取り出していた。


「じゃあ、まずは最重要ワードからだな」

紙の中央に、滑らかな筆致で一語。


──シンフィル


「……それ、きみの名前?」

「そう。『シンフィル』これが分からないと、あんたは一生、俺のものになれない」

「……そうなの?」

「ああ。教えたやつは全部書け。飽きるまで、書け。お前の手が、俺の名前を覚えるまで」


その言い方は、ほとんど呪いだった。


しかし言われるがまま、雨歌は筆を取る。

最初は、おそろしく歪んでいた。

形を間違え、点を忘れ、棒が1本多かった。

絵なら描けるのに、文字だと思うと途端に、書けなくなる。


「うまく書けない」

「当たり前。じゃあ、百回くらい書いて覚えろ」


どこか愉悦に満ちた声で、シンフィルは言う。


「それとも、『俺の名前』ってそんな価値ないの?」

「……そういう言い方、ずるい」

「だろ?」


雨歌はむすっと口を尖らせながらも、手を止めない。

白紙が、すぐに名前で埋まっていく。


シンフィル

シンフィル

シンフィル


だんだんと、癖のある筆跡が整っていく。

はじめて覚える異国の綴り。

それは、彼の“音”と“形”を反芻する作業だった。


途中、何度か筆を置きそうになったが──


「俺の名前、諦めるのか?」

「……描けないとは言ってない」


静かに続ける。

集中すると、周囲の音がすべて遠のく。

紙に滲んだインクの濃淡、筆の軌道、すべてが雨歌の「観る」力に吸い込まれていく。


やがて、画用紙いっぱいに並んだ『シンフィル』の文字列を見て、シンフィルは目を細めた。


「ふふ……いい眺めだ」

「何が」

「お前の中に、俺がたくさんいる」


ぞっとするような甘い囁きだった。


──それから数時間。


雨歌はいつものスケッチブックに、何かを書いていた。

横から覗き込んだシンフィルの瞳が、ふと止まる。


「あんた、それ……」


書かれていたのは、

宿に貼られていた警告文や、室内の品々に刻まれていた銘の文字列だった。


雨歌は、静かに言った。

「きみの名前を、何回も書いてたら、なんとなく分かってきた。形の癖とか、読み方とか」


彼女の「観る」力が、たった数時間で文字の構造と音を結びつけていた。


シンフィルは、黙った。

呆れを通り越して、笑うしかなかった。


「お前、やっぱりバケモンだな」

「でも、最初に覚えたのは──」


雨歌はそっと、例の紙を取り出した。

彼の名前で埋め尽くされた、最初の一枚。

くしゃっと折れてはいたが、大切にしていたようで、角の折り目すら丁寧だった。


「これは、たぶん捨てられないと思う」


そう言った彼女に、シンフィルはひとつだけ嘘をついた。


「光栄だな」


──ほんとは、奪いたいと思った。

その紙ごと、彼女の記憶に焼き付いた自分の名を。


彼女が初めて「手で書いた」自分の名。

それは、ただの文字じゃなかった。

支配で、誓いで、祈りだった。


この女の最初の一語が、自分の名前。


それだけで、もう勝ったも同然だった。


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