26.アベイルでの贈り物③
「__すごいね。このお店、水の底に沈んでる」
店員に連れられてやってきた雨歌は、そわそわとあたりを見まわしている。
彼女の足元ではルーガンが幻影の魚を追って、くるくるとその場で追いかけっこをはじめた。
「遅かったじゃねーか。ラズナヘイムいち忙しい男を待たせるなんて、いい度胸だな?」
シンフィルは肘をついて、少し横に顔を傾けながら正面の雨歌を見つめた。言葉とは裏腹にその目の奥の光は甘く、暖かい。
「ごめんね」
ヴィルトが引いてくれた椅子に腰を下ろしながら、視線を彷徨わせる。
「描くのに夢中になっちゃって……ルーガンが教えてくれなかったら、ずっと描いてた」
「まあ……前払いの分、しっかり仕事してくれたんならそれでいいけどよ」
「うん……多分、描けたよ」
雨歌はちらりと机の上に置いたスケッチブックに目をやった。
揺れる水面に、幻想の水音。
一瞬、二人の視線が絡み合う。
なんとなく、周囲の湿度もあがったような。
ヴィルトは内心、先ほどの『全方位に喧嘩を売る狂犬』が、雨歌が目の前に座ったとたん『しっぽをぶんぶん振り回す、ただのバカ犬』になった変化を目の当たりにして、震えるしかない。
「あのぉ、俺の存在忘れちゃってない?俺、空気?」
「空気というか、異物ですね。ヴィルト金烙将は雨歌の横ではなくルーガンの横に座っていただけますとありがたいのですが」
「それ、床じゃねーか。上官に床で飯食わせようとすんな」
やけくそのようにワインを煽り、ルーガンを撫でようとして彼の鼻に寄った皴を見て手を引っ込める。あと三秒遅ければ嚙みちぎられていた。ここには彼の味方はいない。
いや、いた。
「ヴィルトさん、お土産があるんです」
雨歌が微笑みながらそう言うと、ルーガンの背中に括りつけた荷物袋を外す。正面のシンフィルの目が毒気を宿して瞬時に冷えるのには気づかない。
雨歌はいそいそと荷物袋からみっつ、紙袋を取り出した。
(きみに、喜んでもらえるか分からないけど)
ほんの一瞬、雨歌のまなざしが泳ぐ。
「あんたって貢ぎ体質?人の金でほかの男に贈り物って……淫乱にもほどがあるよな」
「えっ……そうなの?
でも、きみにもちゃんと買ったよ。きみにあげるやつが一番悩んだ」
「……なにを買ったんだよ」
「待って。まず、ヴィルトさんから」
「お、おう……なんか、すまないな雨歌嬢」
鮮やかにバカ犬に『待て』の指示を出す雨歌にヴィルトは奇妙な尊敬の念のようなものまで感じ始めた。
シンフィルが『夜……覚えとけよ……下着の確認だ……』などと低い声でぶつぶつ言うのにかまわず、袋から雨歌が取り出したものは一本のポーションであった。
「これは、薬草の屋台で買ったの。すっごく、疲れに『効く』んだって」
雨歌の白い指がポーションに括りつけられた薬効のラベルとイラストをなぞるのを男たちの目が追う。
そこには、オルドレア語で『夜の狩人』と書かれていた。尻に矢が刺さった女の絵の下には『今宵は寝かさぬ』とまで煽り文句がある。
「え、雨歌嬢、俺、どういう反応したら……ここ、一応お上品なレストランだからね?ちょっとしまおうか?いや、ありがとうって言った方がいいんだよな?え?なに?」
百戦錬磨のヴィルトの動揺という世にも珍しいものを目にしながら、その貴重さに気づかず雨歌はうっすらと微笑する。
「ヴィルトさん、賭博場のあと、大変だったみたいだから……」
まごうことなき精力剤を押し付ける雨歌に、「ッく…………はぁッ……!」と耐えきれなくなったシンフィルの笑い声が重なった。
「雨歌、あんたやっぱ淫乱確定。これ、精力剤」
「えっ…………」
くつくつと喉を鳴らしながら雨歌の手からポーションを取り上げたシンフィルは、いまだ動揺を隠せないヴィルトの手にそれをそっ……と握らせた。
「俺のつがいからのありがたーい貢物です……どうぞお収めを」
「わ……わたし、知らなくて、ごめんなさい!ヴィルトさん」
雨歌の赤面をまるで何かの『ご褒美』のようにニヤニヤ眺めるシンフィルにヴィルトは呆れて言葉も出ない。「雨歌、アンタそんな顔して実は分かって買ったんだろ?ああ?」などと煽り始めた彼を眺めながら、おとなしくポーションをポケットにしまった。
「ま、ありがとよ、嬢ちゃん。今度狩りに行くとき使うわ……」
「つ、次はきっと喜んでもらえると思う……ルーガンにね、おやつ」
雨歌は赤面まだ抜けやらぬまま、机の上の包みを、起死回生とばかりに取り上げる。
ルーガンがピクリと耳を動かし、雨歌とシンフィルがそれぞれ座る椅子の間に無理やり体をねじ込んでお座りをすると、じっと雨歌の手元を見つめた。
「ルーガンね、いつもわたしを守ってくれるし……ちょっと高かったけど、魔法道具を売るお店で、これ」
そう言って取り出したのは、雨歌の手のひらよりも一回り大きい骨が入った袋だった。
シンフィルの眉が一瞬寄せられるが雨歌は気づかず、少し得意げに顎をそらした。
「これは、『食べても食べても減らない魔法の愛玩魔獣用おやつ』。質量保存?なんとか魔法っていうのが付与されていて、オルドレアでもこのお店でしか買えないって__」
「……それ、俺が術式特許持ってるやつ」
そう呟いたとき、シンフィルのまなざしには、微かに笑みの影が灯っていた。
自分の作り出したものに、知らないまま雨歌が惹かれたという事実は、どうやら彼の抑えきれない誇りを引き出したらしい。
彼は──得意げにまくしたて始める。
「俺が暇なときに遊びで作った術式。術式特許登録されてるから、俺の許可がないと扱えない。
ちなみに正式名称は『可逆質量再分裂式連鎖型恒常術式』。
質量保存を無視するんじゃない。分裂するごとに、別個体として認識させてるんだよ、分かる?」
急に早口になるシンフィルにちょっと気おされつつ、雨歌は、
「そうなんだ、むずかしいね」とだけ返事をしてルーガンの鼻先におやつをもっていってやった。
気に入ってくれたようで、ルーガンは嬉しそうに口の中で柔らかく骨を咀嚼している。時折淡い光が漏れるのが、おそらく魔法の効果なのだろう。
「待て……そのアイテム、見覚えあるな。使用料かなり高く吹っ掛けてやった店だ……おい、雨歌。これ、いくらだったんだ?」
核心をつくシンフィルの問いかけ。
雨歌はじわりと嫌な予感がこみあげて目線をそっと外したが、シンフィルが無言でルーガンの背中の財布の中身を確認している時点ですべて無駄な動きだった。
ヴィルトが場の緊張をほぐすように、
「すみまっせーん!八足牛の溶岩焼き、三人分持ってきてぇ!食べたら無くなるやつ!」
と店員に注文している。
「あんた……財布、中身すられたりしてねぇよな?ずっと、ルーガンに持たせてた?ふぅん、そう……」
妙に優しい声色だ。
骨を置いたルーガンがすまなそうに耳を伏せる。それを撫でる手つきはどこまでも優しい。
ただ、雨歌を見つめる目つきだけが猛禽類のように鋭く、雨歌は背骨が凍ったような心地だ。
「責めてるんじゃねぇよ。この国の常識も知らねぇ奴に大金持たせた俺の責任だからな。それにあの金はもう、アンタの金だったし。ただ、俺があんたの金銭感覚を鍛えなおす必要があるってだけ」
「…………」
「今日の夜、あんたにさ、オルドレアにおける経済講座してやるよ……パン一個から、娼婦一刻の値段まで。こと細かく教え込んでやる。体に」
何も言い訳できず、雨歌は視線を彷徨わせ__最後に残った包みをそっとシンフィルに渡した。
彼の冷えた目に少しでもぬくもりが戻ることを願いつつ、じわりと不安が忍び寄る。
(これももしかしたら、失敗したかも……)
「これは、きみへのおみやげ。きみって何でもそつなくこなすし、何でもできるから正直、何をあげたら喜んでくれるかすごく迷ったんだけど」
「…………ふうん?」
またしても鮮やかにシンフィルの機嫌を和らげた雨歌に、ヴィルトは内心で(魔力無き言葉の魔術師)とあだ名をつける。
「きみ、いつも朝にその頭のぐるぐる巻きなおす時に、手櫛でととのえてるから。あるときっと便利」
シンフィルが袋から取り出したのは、一本のブラシだった。
飴色の艶が美しい柄の、上品で使いやすそうなブラシだ。
ただし、箱にはオルドレア文字で『魔犬用__ワンちゃんツヤツヤ!』と書かれている。
ヴィルトは片手で胃を押さえながら、テーブルの下で膝を叩いた。もはや無理だった。
「……これ、俺に?」
シンフィルはポン、とブラシを片手で手のひらに打ち付けるとじっと雨歌を見つめた。
嬉しさと、困惑と、怒りと__いろいろな感情がくるめく瞳の意味が雨歌は分からないまま、そっと頷く。
「__ありがとな」
ため息交じりの感謝の言葉は、どこか苦くて甘い。
「ついでにオルドレアの文字もこれからちょっとずつ教えてやるから……俺のために覚えろ」
と犬用ブラシで一度だけ自分の髪を撫でつけてシンフィルは微笑んだ。
「……で?つがいさまの選んだお土産の資金源になった、俺の絵は?描けたんなら見せろよ」
そういうシンフィルの目はもうすでにスケッチブックに表紙を熱心に舐めている。
「……ちゃんと、価値があるかはわからないけど……」
先ほどからお土産に関して微妙な失敗を繰り返した末、自信を無くしてしまった雨歌の迷いを感じ取ったように、シンフィルの手がなだめるようにスケッチブックの表紙を撫でた。
「俺の払ったスケッチ代が、ほとんどありがてぇお土産代に消えたとしてもだ。あんたの絵の価値は変わらねぇよ」
「……うん」
シンフィルの言葉に、心の柔らかい場所を撫でられた気がして、雨歌の頬がじんわりと熱を持つ。
完全に蚊帳の外に置かれたヴィルトは、店員が持ってきた肉の盛り合わせに、一人向かい合うことにした。ついでにルーガンにも肉のきれっぱしを投げてやった。
「さぁて、つがいサマが俺のために描いてくれた絵の御開帳だぜぇ……」
「やめて、もう……」
言い合いながら雨歌はスケッチブックを広げて見せた。
ページがめくれ、ふわりと風が吹き抜けた。
月光を模した魔術の光が柔らかくテーブルの上の絵を照らす。
そこに広がるのは、朝日の陰影に優しく包まれた街の風景。朝を告げる鐘の音が聞こえてきそうな、始まりの予感を幸せに切り取った瞬間。
__窓から眺めるアベイルの街並み。
あの、雨歌達が泊まる宿の窓からの景色。
「街を歩いていて、描きたい景色はたくさんあったけど」
「きみに見せたい景色はなかった」
「でも、きみとまた見たい景色なら__」
最後まで言えずに雨歌は目を瞬かせた。
シンフィルの顔が赤い。彼のまなざしが、蜜のようにとろけている。
その熱が、ひたひたと喉元まで満ちてきて──
息ができなくなった。
彼の手に口をふさがれているからか、彼の目がどこまでも熱く、甘く揺れていて雨歌の目を捉えて離さないからか。
シンフィルの瞳に、朝焼けのような光が宿った気がした。
ヴィルトの茶化すような口笛が生ぬるい空気を切り裂いて、やっと雨歌は彼の手から解放された。
「__価値、あった?」
尋ねると、シンフィルは目をそらしながら「一生分のスケッチブック代、稼いだな」とだけ言った。




