閑話 困れよ
神殿への帰り道、ふたりきりの静けさを、月の光が染めていた。
用事帰りの疲労感も、言葉少なな空気も、ふたりの間ではごく自然で。
けれど――その自然が、不意に破られる。
「……雨歌?」
隣にいたはずの人が、いない。
シンフィルが慌てて振り返ると、彼女は道から少し外れた場所で、
まっすぐ、夜空を見上げていた。
白い喉もと。月光に濡れた頬。
(……なんだ、あれは)
危ういくらい綺麗で、儚いくらい鮮烈だった。
そんな姿で、彼女はぽつりと呟いた。
「……地球の月によく似てる」
その言葉が、喉奥で何かをはね上げた。
「――……っ!」
聞き慣れない名。
知らない場所の響き。
“ここじゃないどこか”を想う声。
胸が、かっと熱くなる。
気づけば、走っていた。
そして、有無を言わさず――その白い喉もとに噛みついた。
軽く、でも確かに、この場所から引き戻すように。
雨歌が、小さく肩を揺らした。
それでも逃げなかった。
ただ手を伸ばして、シンフィルの胸を、ぐっと押し返す。
そのままの姿勢で、眉を少し下げて言った。
「困る」
怒っていない。でも拒んでいる。
けれど、その拒絶は、まるで――どこかの出口に向けた未練のように見えた。
「……困れよ」
絞り出すように言った言葉。煽るように、微笑む。
出したくなかった感情。
「もっと、困れ……」
言葉が止まる。
次に出たのは、熱そのままの行動だった。
今度は、首筋へ――やわらかな肌に、深く唇を押し当てた。
(帰りたい、なんて言うなよ)
喉奥で飲み込んだその言葉が、まだ口内で疼いていた。
喉元に落ちたキスの熱を、雨歌は指先でそっと撫でた。
何も言わないままの彼女に、シンフィルがぽつりと、
けれど、低く刺すように言った。
「……帰るなよ」
雨歌が、目を瞬かせる。
「もしあんたが、帰りたいなんて、言ったら、縛る。閉じ込める。……逃げらんねぇようにする」
脅し。
明確な、暴力になりかねない台詞。
なのに雨歌は、ふっと笑った。
「ふふっ……」
「……何がおかしい」
「かぐや姫みたいだな、って思って」
「……誰?」
「ああ、そっか。地球の昔話」
「かぐや姫っていう美しい女の人がね。たくさん求婚されて、いろんな人に大事にされても──
月に帰っちゃうの。『ごめんなさい、帰らなきゃ』って」
「……最悪だな、そいつ」
シンフィルの言葉が、妙に鋭く突き刺さった。
「大事にされたのに、平気で全部捨てて帰るのかよ?
じゃあ何で、最初から地上に降りてきたんだ」
「……運命だったんじゃない?」
「そんな都合のいい言葉で、見捨てられる方は納得できんだよ」
あまりに真剣に怒るので、雨歌は少し驚いた顔をした。
でもすぐに、また静かに笑った。
「わたし、かぐや姫じゃないよ」
そう言って、彼の顔をまっすぐ見る。
それはまるで、“ほんとうは帰りたくない”という微かな告白のようで。
……シンフィルは、言葉を返さなかった。
ただ無言のまま、少しだけ彼女を睨むように見つめたあと、視線を逸らす。
(……でも、似てんだよ。お前も)
(こっちがなんとか手を伸ばしても、平気で他の世界見て、
俺のいない場所に“帰りたい”なんて、言えるじゃねぇか)
毒づきたくなる。
睨みつけたくなる。
でも、触れたら壊れてしまいそうで──それが一番腹立たしい。
だから。
「……アンタも、似たようなもんだわ」
吐き捨てるように、負け惜しみの声。
月が、雨歌の白い頬を照らしていた。
遠くの空が、少しだけ白み始めていた。
2日前から部屋のクーラーぶっ壊れてまして。暑すぎて書けないという。リビングは家族がいるからpc持っていって書くの嫌。明日修理の人くるらしいので、スマホで今ちまちま書いてます。
これは前に書いていた閑話。
かぐや姫もそうだけど、羽衣伝説の天女も、ヤンデレにさらわれて監禁されてたんだろうね。シンフィルに読んで聞かせてやりたい。
拙作をお気に入りに入れていてくださったり、読みにきてくださる方、まじで神です。100人に1人の、私にとっての神。神に、更新遅れのお詫びを捧げます。




