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22・わたしの価値ときみの決意

窓の外はすっかり暗い。

 窓ガラスには二重の薄い膜が揺れている。数刻前、部屋に入ると同時に消音の結界を張ったせいだろう。

 白磁の壁に、柔らかな魔灯の光が反射して、照らし出す部屋はどことなく寒々しい。


「あー…………くそっ」


 シンフィルは豪奢な寝台の上でぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。

 いつも頭に巻いている魔石の付いた額飾りはヘッドボードに引っかかり。

 目をやれば、あの瞬間、額飾りがヘッドボードに引っかかった音がよみがえる。

 艶めくシーツはゆるやかに乱れ。

 視線を落とせば床に、雨歌の履いていた靴と、自分のブーツが重なるように散乱している。

 先ほどまでの自分たちのように。

 状況だけは、完全に『事後』である。状況だけは。


 __最悪で、最高で、やはり最悪な時間だった。


 ただ、欲望のままに雨歌を求めた。

 魔香のせいではない。そんなもの、彼には効かない。

 何かのせいにするとしたら、彼に降った欲情の雨のせいだ。

 もうずっとずぶ濡れだった。どうせ濡れたのなら、もっと濡れるしかなかった。だから、求めた。

 それだけのことだったのに。


 部屋に微かな魔香の残滓が漂っている。あの吐息が、喉の奥に焼きついて離れない。

 雨歌が着ていた服に染みついていた残滓か、自分の外套についていたものか。

 鼻の奥に、まだあの匂いが残っている気がする。喉の裏が甘い。

 脳裏に浮かぶのは、熱に浮かされたような雨歌の潤んだ黒い瞳。

 半開きになった赤い唇はどこまでも柔らかくて、食めば脳天がしびれるような甘さだった。

 口の端からは透明のしずくが垂れて__


「あーーーーーっ!」


 先ほどから定期的に主の口から漏れる苦悶のうめきに、しかしルーガンは慣れつつあるようだ。

 寝台の端で目だけをちらりと動かし、また目を閉じる。

 人語を解さないはずの魔獣の目に『哀れみ』の色が宿ったような、そうでないような。

 雨歌が隣の部屋にある豪奢な風呂に入っていることをいいことに、シンフィルは狂った人形のように記憶をたどってはニヤつき、そしてその後に起こる悲劇にぶち当たっては頭を抱えるという不毛な反省会を永遠と繰り広げていた。


「……消えろ」


 指先を空中に走らせる。一閃。

 途端、空気がひとつ震え、脳裏に浮かぶ雨歌の痴態の幻像もろとも、あの香りが消え去る。

 名残惜しそうに、喉の奥だけが甘さを引きずったまま。

 もう一度、イライラと頭を掻きむしりながら彼は寝台から降りると、乱れた二人の靴をきちんと揃えなおした。こういうのが気になるたちなのだ。


「『わたせるものがこれしかないから、ハイどうぞ』だと……ルーガン、あの女マジで最悪だよ」


 その当時には情事が始まることを察したのか、部屋にいなかったルーガンにシンフィルはぶつぶつと言いつける。

 主のうめきにルーガンは寝返りを打ち、耳を伏せる。

 ――それは、あまりにも人間臭い『慰め』の動作だった。


「違うだろ、そこは。なんで『これしかない』なんだよ」


 言いながら今度はぐちゃぐちゃに乱れたシーツをピンと張り直しにかかる。風呂上がりの彼女が気持ちよくくつろげるように……ではない。自分のためである、きっと。


「そんなの、ただの施しだ──」


 それでも、本当は欲しかった。喉が焼けるほど、欲しかった。

 無理やりでも縛り付けたい。欲望の檻の中で、自分だけを見ていればいい。

 今だって、このまま神殿になんて向かわずに、ずっとこの部屋に彼女を閉じ込めてしまいたいと思っている。毎日、毎日耳元で愛を囁き続ければ、きっと彼女は堕ちてくれる。

 雨歌のあの目に『観られた』時から、もう人間らしい恋なんてできないことくらい、とうに知っている。

 あのまま、空虚な言葉を吐いた雨歌を抱いてしまってもよかった。

 それでも。


『__わたしに価値なんてないよ』


 宿屋にむかう途中の、雨歌の口から漏れた言葉がどうしても耳に焼き付いていて離れなくて、できなかった。


 自分が施しを受けるみたいで嫌だったのはあるかもしれない。

 そんな安っぽいもの要らないなんて、ひどいことを言ったような気がする。

 ただ、それ以上に、彼女に伝えたかった。

 自分が心を奪われた雨歌。その存在の価値を。

 自分が雨歌に対して捧げる熱情に対する対価は、そんな虚しいものであってほしくない。


 それに、とシンフィルは思う。

 あのまま抱いてしまえば、きっと雨歌は自分を「これしかない」と思ったままになる。

 その空虚な価値観は、いずれ彼女が彼女自身を殺す、『あとひと押し』になるような気がして、シンフィルは__怖いのだ。

 彼女がザナルの森で命に頓着していないことに気づいてから、ずっと。

 一体なぜ、彼女がそんなふうに自分を思うようになったのか、シンフィルには分からない。

 だからといって無理やり聞き出そうとも思わない。

 彼自身は他人から出来損ないの烙印を押されても、逆にそれを、自身を強靭にする糧に変えてきた。

 でも、雨歌はそうしてこなかっただけのこと。


 それならば、自分が何度でも伝えてやるしかない。

 優しく言っても伝わらないなら、抱きしめて。

 それでも伝わらないなら__腕の中で死なない程度に抱き潰してでも分からせる。


「俺のために生きろ」「お前の価値は、俺の価値そのものだ」

 と。

 奴隷みたいに従わせるためじゃない。

 愛情を理解させるために、跪かせてでも教える──それが正しいと、本気で信じている。

 分からないなら、分からせればいいだけだ。


 寝ているルーガンを邪魔しないよう器用によけつつ、寝台を完璧に整え終えたシンフィルは窓の豪奢なカーテンを引いて、備え付けの棚から淡く光る黒麦酒を取り出した。

 棚の中は魔法の冷気が循環している。よく冷えたそれを片手に、部屋のソファーにどっかりと身を預ければ、柔らかな座りごこちは、彼のささくれだった気持ちを少しだけ撫でつけてくれた。


「……『避妊はしてほしい』……だとよ?」


 せっかく安らぎかけた気持ちが、ふいに脳裏に浮かんだ最悪な言葉の反芻によって泡となり消えてしまう。

 それは、当然大事なことであるとシンフィル自身、理解している。

 そもそも、彼自身は子供ができることはむしろ大歓迎である。

 できてしまえばもとの世界に帰りたいなんて思わなくなりそうだから、という後ろ暗い理由ではあるが。

 ただ、あの時そう言った雨歌にわずかに失望したのは、あまりにも淡々としているように見えたから。

 まるで、瘴獣に差し出される生贄のように。すべてをあきらめたかのように。

『これしかない』なんて言葉とともに投げられた言葉は、彼の心を深くえぐった。

 その一言で、今夜のすべてが、ただの『交尾』にされそうで怖かった。


「本当にそれだけの関係だったらさ……今ごろあんたの喉の奥まで、俺の名前、刻んでる。……あんたの全部に、俺を染み込ませて、魅了で縛って二度と逃げられなくしてた」


 魅了眼で狂わされて絶頂に達しながら自分の名前を呼ぶ雨歌も悪くない。

 でも、もっと欲しい雨歌ができてしまったのだ。


 大きくため息をつく。


 もちろん、避妊の準備は……して……いたような気がする。

 というか、準備などせずとも、そうなったら即座に対応できるのが大陸屈指の魔術師シンフィルである。並みの魔術師や一般人なら三日前から術式を用意したり、専用の魔法薬を購入したりするものだが、彼ほどの男ともなれば、準備などしていなくても、いざ、の時に避妊術式を自身に掛けることなど造作ない。だから、しているうちに入る。

 泣かせた女は数知れず。

 もともと『魅了』の特性を得ている彼は、遊び半分、研究半分で自身の魅了眼と口づけを組み合わせて、女が我を忘れたように狂うようになるまでの時間を計測していたことがある。

 狂わせるまでが面白かった。口づけだけで狂わせて、それ以上に進むことはなかった。

 そうしたいと思う女がいなかったから。

 だから、当然経験がない。名誉の童貞は、今となれば、彼女を到達点とした必然だったのではないだろうかとさえ思えたのに。


「……キスの時、あいつ目を開けてたな。あれ、無いわ。俺のほうが持たねぇ」

 

 喉に残る甘さが、また疼く。足りない。先ほどあれだけ味わったあの唇を、底なしにまだ求めている自分がいる。

 

 ふいに、湯殿のある隣室からかすかな声が聞こえてきて、シンフィルは大きく肩を揺らす。

 机にこぼれた黒麦酒を無詠唱の目線で消し去り、無かったことにする彼の耳に届く、不思議なリズムの声。


「……歌っているのか」


 先ほどまでの甘美で苦しい時間を、もう忘れてしまったかのような、熱のこもらない歌声は、まるで彼女そのものだった。自分がどれほど狂おしく求めても、凪いだままそれを飲み込む、冷たい黒い湖。


 彼の知らない異世界の音楽は甘く切なく、神経をざらつかせた。

 耳から入り込んで、脳を直接撫でるような音だった。

 無防備な女が、あんな声で、あんな調子で、のうのうと湯に浸かっているかと思うと──


 思わずソファーから、腰が浮き上がる。

 たった今この扉を蹴り開けて、髪の先まで湯に沈めて、「逃がさない」と言いたくなる衝動が脊髄を這い上がった。


 ……が、なんとか、座りなおし、麦酒の苦みでそれを押し込めた。

 雨歌が歌を歌いだすくらいに久しぶりの入浴を楽しんでくれているのなら、それでもいい。

 凶暴な思いを、そんな嘘で塗り固めながら。


 シンフィルは、ソファーに背中を預けながら、部屋を見まわした。

 脱いだ外套はきちんとはコート掛けにお行儀よく引っかかっているし、靴はきちんと整えられ、完璧な状態のベッドにはルーガンが気持ちよさそうに寝そべっている。


 __何もなかったことのように。


 でも。

 今日から雨歌を堕とすための努力は最大限すると誓ったあの決意は、もう戻せない。


(あのとき決めた。雨歌の存在そのものを、俺の価値で塗り替える。欲でも愛でも、使えるものは全部使って)


(そんなあいつに、欲しくて欲しくて仕方がないって泣き狂われるのは、きっと最高に気持ちがいい)


 戻すつもりもない。


 噛みしめた唇に、わずかな魔香の匂いが染みついている。

 それを舌でなぞると甘い彼女の味がした。


 ***********************************************


 湯殿は、神殿の一角を思わせる荘厳な造りだった。

 天井から下がる光源は、熱ではなく魔力で灯されているらしく、薄い水膜のような光が、壁の白磁にゆらめいては消える。

 重厚な石造りの湯舟は、魔力石で温度が自動調整されており、湯面は常に心地よい熱を保っていた。


 雨歌は深く息を吐きながら、肩まで湯に沈んだ。

 小さな波が立ち、肌の上をすべっていく。あたたかい。

 それだけで、少しだけ涙が出そうになった。


 手首を見つめる。

 シンフィルの手が、さっきまでそこを掴んでいた。

 掴まれていた部分が、まだ赤い。

 どれほどの力で掴まれ続けていたのだろう。


(きみの、熱がまだ残ってる……)


 そっと口をつけてみる。何度も、確かめるみたいに。

 そんな自分がなんだか滑稽だった。


「また間違えた」──その瞬間、胸の奥がぞくりと冷えた。

愛されたいのか、必要とされたいのか。

そのどちらかを確かめるために、いつも身体を差し出してしまう。


 自分は何度も躓く。


 求められるたびに、自分を差し出してきた。だから、経験こそ少ないけれど、処女ではない。

 だって自分にはそれしかない。

「価値なんてない」と思ってしまうその度に、「ならばせめて」と渡していた。

 最初からない価値だ。踏みにじられようが、傷つきようもない。


 それでも、あの時、本当の願いは。


 __彼にだけ、捧げたい。私自身の意志で。


 だけど、渡したものは返された。


 手のひらを暖かな湯に浸し、そっと掲げると、湯のしずくが魔灯の光に反射しながら腕を伝い落ちていく。涙のように。


 彼は、泣いていた。

 蘇芳色の、燃え滾る炎のような目が、ゆらゆらと潤み、それでも肉を切望する獣みたいに自分を見ていた。

 それを見た時、「また間違えた」という自分を責める気持ちが込み上げるのと同時に、「きれいだ」なんて思ってしまった。


 __描きたい。


 白いキャンバスに、彼の熱も、涙も、欲も、すべて閉じ込めてしまいたい。

 そう思った。

 あの目を描かずにいたら、わたしの中で芽生えた不思議な気持ちごと、本当に消えてしまう──

 

もし絵にできたなら、わたしのこの気持ちは、ちゃんと“ここにいた”って残せる気がした。

それが許されるなら、それだけでもいい。

生きているものは描けないはずなのに、浅ましくも描きたいなんて思ってしまった。


 ただ、封じ込めたい。わたしの中に。わたしの絵の中に。

 あの時の視線を描くなら、蘇芳色の絵の具がいい。そこに私の血でもいい__黒い色もちょっと足して、濡れた艶はどう表現しようか。

 そうやって、何度も何度も塗り重ねていたら──きっと、そのうち。わたしのこの気持ちの正体も、わかる気がした。


 だけど、今はもう、あの時灯った熱はお湯に溶けて、指先から流れ出してしまった。

 渡したものを返されてしまったわたしに、描く資格なんてない。


 小さく、ため息をつく。

 こんなにも、肌があたたかいのに。

 こんなにも、体はほどけているのに。

 なぜだか、心だけが取り残されている。


 湯の中で、膝を抱く。

 ぬるりと髪が頬に張りついた。


 湯が静かに波紋を描いている。

 魔石の灯がわずかに瞬き、まるで心の奥を覗いているかのようだ。

 隠すものなんて何もない。どうせ空っぽだ。


 雨歌は、ゆっくりと目を閉じた。

 湯船から立ち上った湯気が、額の上に冷やされてポタポタと落ちてくる。雨のように。

 雨の歌、と母は雨歌を名付けてくれた。


 ふと、地球にいたころ、よく母が歌っていた歌が口から漏れる。


 やみに燃えし かがり火は

 炎いまは 鎮まりて

 眠れ 安く いこえよと

 さそうごとく 消えゆけば……


 まだ、幸せだった頃。

 家族で行ったキャンプで、夜、たき火を見ながら母が歌ってくれた歌。

 たしか、『家路』という歌だったか。


 懐かしさは不思議と感じなかった。

 彼の炎に、そんな感情すら焼かれてしまったのかもしれない。


 「もう戻れない。戻す気もない」


 燃える瞳でそう言い切った、彼の囁きを思い返す。


 ならば、わたしの帰る場所は、どこだろう……

彼のあとを追えば、それが分かるような気もして、あと少しだけでいいからそばにいさせてほしいと、そう思った。 


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