1.じゃま
気がつくと、雨歌は仰向けに倒れていた。
「……ここ、どこ……」
かすれた声にこたえる者はいない。
くらくらする頭で必死に考える。まるで重力が歪んでいるような違和感があるだけで、何も分からない。
視界が紫色の霧に覆われているようにぼんやりしている。
落下の衝撃で目がおかしくなったのかと目元に手をやって、気づいた。
愛用のぶあつい眼鏡のレンズが片方、ひび割れて半分ほどフレームから抜け落ちてしまっている。
空は、見えない。いびつな形にくねくねとねじ曲がった木が、四方八方から亡者の伸ばす腕のように上方へと伸びあがっている。
合間に、聞いたことのない動物の鳴き声が聞こえた。
木々の木肌は灰紫色。
じっと目を凝らすと、見ていることが分かっているかのように木肌が震え、ドロリ、と黄色い粘液を分泌し、ぽたり、と垂れ落ちる。
ふいに不快なにおいが漂ってきて、思わず鼻に手をやる。何かの肉を腐らせたようなにおいだった。黄色い分泌液から匂っているらしい。
木々の先には葉ではなく、薄い膜のような器官が震えていた。
まるで「目」のようでもあり、「呼吸器」のようでもあり、風もないのにゆっくり揺れるそれをぼんやりと見上げる。
思考が情報を処理しきれず悲鳴を上げている。でも、声は出ない。
パニックで何も考えたくない。
足の先から、地面に投げ出された指の先から。体中の至るところから、何千匹もの虫が体を這い上ってくるような悪寒に押されるまま、身を起こす。
手が、何かにぶつかった。
「あ………」
愛用のスケッチブックだった。どういうわけだか一緒に落ちてきてくれたらしい。うまいことに、そばにはスケッチ用の鉛筆までもが数本、転がっている。
衝動のまま、紫色の苔が生えた地面の上で奇跡みたいに落ちている、2Bと2Hの鉛筆にすがるように手を伸ばし、掴んだ。
____途端。
脳の奥で、何かがぱちりと弾けた。
背筋を走る冷たい快感。体の震えが止まる。呼吸すら静かに整っていく。
目の前のグロテスクな景色が、”描きたい風景”に姿を変えて目の前に広がっていた。
(____きれい)
雨歌の目に、すべてが美しく見えだす。
先ほどと何も変わっていない。
空気は重く、死を運ぶ匂いがする。
けれど、どこか“絵の中にいるような”静寂と秩序があった。
形の崩れたものたちが、それぞれの理に従って在る。
その姿は、壊れているのに整っていて、恐ろしいのに、息をのむほど美しかった。
雨歌がふと視線を遠くに向けると、木の枝に、二枚羽根の獣がとまっているのが見えた。
その眼は前ではなく、頭の横から真下を見ている。
光や影、モチーフの配置も含めて完璧な構図。
自分の目が眼鏡の破損のせいで見えにくいことですら、絵に何らかの効果をもたらすフィルターのように思えた。
「……見たことない景色……でも、きれい」
雨歌は、そう呟いて、夢中で鉛筆を走らせた。
没頭すればするほど、音が、世界からきえてゆく。
この森のすべてが、地球では“ありえない”。
なのに、彼女の心は少しずつ、確実に、この異常な世界に引き寄せられていく。
「この世界なら……描ける気がする」
それは、死の森が持つ、禁じられた魅力だった。
一歩踏み込めば命を落とす。
けれど、見ずにはいられない。
雨歌にとって、それは“救い”と“呪い”の境界線だった。
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____ガサリ。
苛立ちを含んで、地面を踏みしめる音。それに続く、控えめな足音が静寂を破った。でも、夢中でスケッチブックに鉛筆を走らせる雨歌は気づかない。
雨歌は熱に浮かされたような目で目の前の景色を眺めては、時に鉛筆を立て、モチーフとの比率を慎重に測りつつ、構図が最高に美しく収まる位置を探っていく。まるで、自分が景色と紙を美しくつなぐ架け橋になったかのように、景色とじっくり、対話する。繋げる。
「____おい」
低く、ぞっとするような声。
声の主はもう、スケッチブックに没頭している雨歌の背後まで来ていた。
濃い紫色と、オレンジ色がまだらにまじりあった太陽が揺らめいて、森の深部へ沈んでいく。
その光が照らし出すは____一人の、男。
目は夕日を宿し、今はオレンジがかった赤。肩まで無造作に伸びた髪は漆黒。
頭には髪色と同じ黒い組み紐と布を絡め合わせた布を巻いている。そこには色とりどりの美しい魔宝石が縫い付けられて、男をあやすかのように揺れていた。
随分な美男子だ。その目がどこまでも剣呑に、不機嫌そうに細められていなければ。
しかし、知ってか知らずか、その薄赤い瞳に宿る少年のような危うさが、余計にこの男の危うい色気を増している。
「なぁルーガン、もう俺帰りてぇ。『ザナルの墜森に行きました、つがいは狂っていました』ハイ、親父の墓への報告終わり」
呼び声にこたえ、彼の黒いマントの陰から、一匹の大きなオオカミのような生き物が進み出た。その背中にある翼はたたまれ、主の怒りを恐れるかのように小刻みに震えていた。
それでもルーガンと呼ばれたオオカミは抗議するかのように鼻を鳴らし、主を見上げる。
男____シンフィルはあきらめたように肩をすくめた。
「おい。最後通告だ、そこの変態女。アンタ、死ぬぞ」
男は一段と声を張り上げた。しかし、返ってきたのはため息だった。
「……ダメ。いま、光が死んだ。影の色が移り変わるのが早い。それに光の散り方が違う。おもしろい。どうして?光の屈折率が私の知っている世界とちがうから………」
誰に言うでもなく呟いて、眉をひそめる。
「ああ、ここのパースがくるった。でも、あとで、直す。いま。いま、すごくいい。これが、この世界の日没なの?」
ぶつぶつと呟く雨歌。
「あんたなぁ____」
シンフィルはいら立ちを足音でもはや最大限にあらわしながら、三角座りでスケッチブックにかじりついている雨歌の前に回り込んだ。
初めて、目線が交わる。だが、それもほんの一瞬。
「きみ。じゃま」
雨歌の口からこぼれた言葉をシンフィルが理解するまで、しばしの沈黙があった。
「あと5歩、右にずれて。構図のじゃましてる」
「ああん!?」
雨歌はシンフィルを目線で押しのけるようにチラ、とだけ見た。割れた眼鏡の奥の目にはシンフィル以上のいら立ちの色が見える。
「いま、せっかく____」
言い募ろうとする雨歌の体が大きく傾いた。だがシンフィルは助けようともせずに、傾いたままこちらを見上げる雨歌の顔の前に、ずい、と自分の顔を近づけた。息がかかるほどの距離。甘さはまったく、無い。
「せっかく、なーに?ところでザナルの墜森にようこそ、変態女。おおっと、そろそろ意識なくなっちゃうころですかぁ?がんばれがんばれー。加護も結界の呪紋もなしに居座って、日没をこえた奴なんか見たことないけど、な?」
シンフィルのあざけるような言葉に、雨歌は何か言いかえそうとしたのかもしれない。
唇がひらかれた形のまま、更に雨歌の体は前後に揺れた。
かと思うと。
____ドサリ。
斜め前方に崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中、雨歌は世界の輪郭が、鉛筆の線みたいにゆらいだ気がして目を閉じた。
その手にはまだしっかりと鉛筆が握られているのを、シンフィルはどこまでも冷めた目で見降ろしている。
ルーガンだけが、彼女の横にそっと寄り添うぬくもりだった。