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19 わたしがきみに渡せるもの②

 雨歌とて、地球では二十歳の女性。

 分別も、日常生活における危機察知能力もそれなりに鍛えられてきた、と思いたかった。

 ズレてる、常識がない。変。

 いくらそう言われ続けていたとしても、なんとなくこの状況は良くないと分かる。


 雨歌は老婆に言われた通りに路地を曲がった先に見つけた、魔道看板をぼんやり見上げた。

 蛇と天秤の看板、と老婆は言っていたが、詳しくは。


『天秤にかけられた蛇と、目隠しをされ拘束されている女性の絵』の看板、であった。


 全力で『これ以上進むな』を教えてくれる絵だ。

 でも雨歌の心には逆効果だった。何よりその絵が分かりやすく響いてしまった。

 雨歌の心にも天秤があらわれ、そこには、”危険”と、”絵の具とスケッチブックもしくはお金”がかけられる。その天秤は大きく傾いてしまった。

 絵の具の方に。


 __もう止まれない。


 合言葉ののち、黒服を着た背の低い、ひげ面の男がすぐにあらわれた。男は雨歌を上から下まで眺めると、にやりと笑いすぐに扉の向こう側に入れてくれる。

 すんなり通されたその部屋は、扉をくぐってしばし、薄暗い階段を下りた先にあった。


 息が詰まるほど、空気が重い。

 吐き出された息が、すぐに頭上の黒ずんだ梁にぶつかって戻ってくる。

 酒の匂いと、甘ったるくも喉に刺すような刺激のある空気。

 瘴気とはまた性質の違う、ぼんやりした薄紫色のもやが漂っている。魔香と呼ばれる若干の催淫、酩酊効果を引き起こす合法すれすれの香だが、そんなこと雨歌には知る由もない。

 丸い卓が二十ほどあって、それぞれの卓には「異質」という言葉だけでは括れない、あまりにも多様で、そしてどこか共通した“闇”をまとった人間たちでひしめき合っていた。

 各卓の上方には魔道で灯る光が漂い、テーブルの上に広がる、後ろ暗い遊戯の数々を淡く照らし出している。

 六面ダイスが跳ね上がるたび、客の前に並べられた札が呼応して金貨に姿を変えたり、おぞましい双頭の蛇に変化して客の喉笛に食らいついている。

 別の卓上には双六だろうか、戦場を模した盤上が広がり、サイコロが勝手に転がっては、盤上の小さな人形たちが切りつけ合っていた。倒れる人形の口からは上がる小さな悲鳴がやけに生々しい。

 さらに奥では地球のトランプににたカードが青白く発光しながら宙空に浮かんでは、ふっと消えたり、その紋様をさらに緻密な紋様に変えたりしている。


(賭博場……怖い……きれい……面白い)


 ありえない、不思議な光景に、しびれる頭の中で雨歌は確かに、魅了されていた。

 右手がうずく。描きたい。

 描くためには何がいる?

 目だ。目はある。では、紙がいる。紙と、鉛筆。お金が必要。それに、借りた分は返さなきゃ。


(__稼がなくちゃ)


 ふらふらと、一歩前に踏み出す。


 ──そばで、乾いた笑い声が跳ねる。


 装飾過多の上着を羽織った男がふたり。その隣には露出の多いドレスをまとい、無駄に背筋の伸びた女。

 テーブルに身を乗り出しているが、視線の焦点はカードではない。相手の財布と、油断の瞬間を探っている。


 ──もっと奥。静かすぎる卓。


 黙々とサイコロを振る老人。

 その顔は皺で崩れているが、目だけが異様に澄んでいる。

 横の若者は顔面に刺青を入れ、握ったサイコロの振動まで感じ取るように神経を研ぎ澄ませていた。

 彼らはただの客ではない。ギャンブルで喰っている。

 そしてその命綱を、いつでも自分の手で断ち切る覚悟をしている、そんな眼だった。


 さらに奥に進むと、席の端で震えるように座る、金の巻き髪の少女と、その隣で、丁寧な手つきでカードを並べる白髪混じりの壮年の男の卓があった。

 少女は雨歌同様、カードの意味もわかっていないようで額に汗を浮かべじっと緊張の面持ちでカードを見つめている。少女の頬はうっすら赤い。体は小刻みに震えていた。


(まさか、なにか、飲まされてる?だいじょうぶかな……)


 一瞬、その少女の怯えた目と目が合ったが、雨歌にはどうしようもできない。


 が、よくよくゲームの進行を観察していると、日本でも昔、家族と遊んだゲームに似ていることに気づいた。

 最初は漠然とした既視感だった。

 空中に、65枚のカードが浮かび上がる。

 絵柄は魔獣や、意味深なモチーフが三十二通り。それに加えて、ジョーカー的な役割だろう、相当の蛇の文様。蛇を除くカードが全てそれぞれ、一組ずつペアーになっている。

 それらが一瞬だけ__

 雨歌の体感で三秒だけ、すべてひっくり返った状態で宙に浮かび上がった状態で開示される。

 ほんの一瞬、世界が静止した。

 一度きりの『解答』。


 そして次の瞬間にはすべて伏せられた状態に戻っている。

 この中から、ペアーを対戦相手と交互に探し出していくのが大まかなルールのようだ。


(……似てる。神経衰弱)


 地球で、まだ母と目を合わせて話していた頃。

 日曜の昼、父母と一緒に炬燵で広げたカードの並び。

 笑い声。

 『すごいね、雨歌ちゃん。また当たったよ』

 連続で札を取ったことよりも、頭にのせられた父の大きな手の感触の方が嬉しかった__。


(これ……分かる。わたし、勝てる)


 雨歌の目が、ぐっと深くなる。

 頬に垂れた髪の隙間から覗くその双眸は、卓上を超えて、空気の流れすら図形のように読み取っていた。


 先ほど見た壮年の男が、娘らしき少女にカードを選ばせようと促す。

 少女はおそるおそる、数枚の中から一枚を指差す。

 男の笑顔が少しだけ、歪んだ。


 その瞬間、雨歌の脳裏に、線が走る。


(違う、そこじゃない。たぶん……ここ)


 カードの模様の微かなズレ。何より、雨歌は場所をその目で『観て』いた。

 魔力の滲み方。

 前のターンで男がちらりと見た方角。何かを確認するかのように。


 それら全てを“視て”、無意識に照合していた。


 知らないはずのルール。

 知らないはずの世界。

 けれど、情報のすべては「見えていた」。


(札は……あそこだ)


 思考が、逸る。

 喉の奥が乾く。


 雨歌は思わず、目が合ったあの少女の手元に、そっと手を伸ばしていた。

「そこじゃない」と口には出さずに、指を動かす。

 少女は突然飛び入りであらわれた雨歌に目を見開いたが、雨歌の真剣なまなざしに気おされたように頷くと、雨歌の示した方へ札を選びなおした。隣の男がかずかに舌打ちをする。


(たぶん、今のターンで終わる)


 心の中でそう呟いた刹那──


 少女の出したカードが裏返された。月に吠える翼狼。

 壮年の男の目が、悔し気に細められた。


 雨歌の出したかったカードと的中。


 少女が戸惑いながらも二枚目をめくる。こちらも、翼狼。

 ──揃った。


「やった……?」


 少女の唇がわずかに動いた。


 雨歌は、かすかに笑っていた。

 この部屋に漂う煙を吸ってから、気分もいい。いつもと違う万能感。

  頭の奥が痺れて、世界が手のひらで転がせる気がした。

  怖いほど、気持ちいい。



(わたしでも、助けてあげられた。つぎは、わたしが勝つばんだ)


 絵のような盤面。繰り返される指の動き。空気の重さと、微細な魔力の流れ。

 それは雨歌にとって、無意識のうちに読み取っていたスケッチだった。

 情報を覚えているわけではない。

 ただ『観て』いた。

 まるで図形のように配置され、重なり、変化するその流れを、目と脳が勝手に記録していた。

 記憶ではなく、視覚で記録する──


 雨歌はじっと、少女の手元に配当金のチップが重ねられていくのを見つめた。

 あれは、絵の具何本分になるだろうか。質のいい画用紙は買えるだろうか。

 湧き上がる高揚感に右手を握りしめる。


 だがその後ろで、少女の隣にいた男が立ち上がると、雨歌に向かってくるようなそぶりを見せ__


 瞬間、卓の後ろから、ひどく軽い声が降ってきた。

「……ちょいとそこのお嬢ちゃ~ん」


 その声には、飄々とした響きの裏に、獣じみた勘の鋭さが滲んでいた。


 雨歌がゆっくりと振り向くと、そこには──フードをかぶった男の姿があった。


 暗がりでもわかる、よく光る形のいい目。こげ茶色のその瞳には、冗談めいた柔らかさの奥に、油断ならない光がある。

 朱金色の髪が、男のかぶったフードの縁からわずかにこぼれて頬に影を落としていた。


 年の頃は二十代後半から三十代前半だろう。

 彼は椅子にふんわりと腰を下ろし、ちょうど雨歌の背後にある卓の主のように見えた。


「こっちの代打、頼んでもいいかい?負けが立て込んじゃってねぇ。おじさん、もうすぐパンツ一丁になっちゃいそうなんだよ。助けてくんない?」


 飄々とした言葉に添えられた笑みには、なにかを見抜いた気配があった。


 雨歌は一瞬だけ男を見つめ、それから卓に視線を落とす。魔道カードが数枚、伏せられていた。どうやらこの男は、ここで親との一騎打ちに敗れ続けているらしい。


 助け舟を求めるような口ぶりだったが、その目は一切笑っていなかった。


(……なに、この人。冗談っぽいのに、底が見えない)


 けれど、だからこそ逆に思った。

 この男に対して、遠慮や謙遜は、意味がない。


「……いいよ」


 そう言って、雨歌は椅子を引いた。


 ***********************************************


「これ。さいごの掛け金、黒チップ五枚ね。ちなみにおじさんの一か月分のお給料。意外と稼いじゃってるのよ……いっつも、三日くらいで消えるけどね!」


 男は大仰なしぐさでチップを差し出しながら、親しげに笑った。その身振りに観客の何人かがくすりと笑う。だが、雨歌は無表情のまま、それをまっすぐに受け取った。


「お嬢ちゃんが、今日の俺の女神さまってことで。好きに使いな」


「じゃあ。えんりょなく」


 チップ五枚。重みはあるが、指先に伝わる感触は軽かった。

 雨歌は迷いなく、それをそのまま卓を取り仕切っている親に差し出す。


 男が目を剥いた。


「えええええええ!お嬢ちゃんやっぱあんた女神降格!肝座りすぎ!全ブッパはやめてぇええ!」


 しかし親役の従業員はにやりと笑い、男の手を軽く払いのけて、チップをさっさと回収してしまった。


 他の客の姿はない。完全な一騎打ち──いや、今は雨歌が代打だ。


「お嬢ちゃんが、この貧乏色男の代打ってことでいいんだな?全掛け、もう取り消せないからね」


 親役がニヤついた顔で雨歌の顔を覗き込んできた。

 その目は、長年この場に生きてきた者だけが持つ、底知れぬ欲と悪意に濁っている。


 けれど雨歌は、表情を変えずに淡々と口を開いた。


「別にいい。はやく始めて」


 その静かな声が、場の空気をすっと凪がせる。

 朱金の男が「マジか……」と情けない声を漏らした。


 次の瞬間、宙に魔道カードが浮かび上がった。光の帯が踊り、空間に並んだカードが緩やかに卓へと着地していく。


 一巡目。


「左奥の五番。中段三番と、下段一番」


 ぱし、とカードを開いた瞬間、周囲の喧騒が止まった。


 ヒュウ、と男の口から口笛が漏れる。


 チップは十枚に倍増して戻ってきた。


 雨歌は、すぐにそれを無言で卓上の五倍オッズの位置へと押し出した。


 彼女の瞳は、完全に勝負の中に入っていた。


(見える。全部……揃ってる)


 線の歪み、筆圧、魔力の癖。伏せられたカードの下に潜む模様が、すでに彼女には“視えて”いた。


 感情の波が引き、ただ一つの集中が意識を支配する。

彼女の目には、もう何も映っていなかった。

ただ、図形としてのパターン。形。線。その揺らぎ。

そこに「意味」も「命」もない。

観ることにすべてを捧げた、異様な集中だった。

 その顔を見て、男がぽつりとつぶやく。


「おれ、もう一枚パンツ買ってくるわ……」


 しかし、二巡目。


「右端二枚目。下段右から三枚目」


 また一対。当たり。


 三巡目。

 さらに一対。


 まるで“描く”ように、カードの配置をなぞる雨歌の指先。


 その静かな動きに、卓を囲んだ人々が徐々に息を呑んでいく。

 パンツを買いに行くはずの男も今や前のめりになって雨歌の肩に手をかけている。


「い!け!い!け!おじょうちゃん!もうおじさん、一生着いてっちゃうからねー!」


「ちょっとうるさい……」


 男が調子よく叫ぶが、雨歌は一瞥もくれない。


 ただ、淡々と、精密に、カードをめくっていく。

 意図と狂いのない動作が、一枚ずつ、静かに戦場を支配していく。


 すでに七十枚近いチップが雨歌の前に山のように積まれていた。


 雨歌は、それを一度だけ、無表情で見つめる。けれど、ふと──口元にわずかな笑みが浮かんでいた。


(こんなに“見える”なんて、わたし、今……)


 陶酔。それは、自分が“役に立っている”という確かな実感。

 そして、母にも、教師にも与えられなかった“評価”の快楽だった。


 背後で、朱金の男が、そっと肩を叩いてくる。


 軽いスキンシップ。でも、その指先には微かに震えがある。


(この人も……驚いてる)


 最後の一枚を、雨歌が手に取った。


 深く息を吐き、目を伏せ、ゆっくりと開いた。


 ──その瞬間、世界が音を失った。


 カードに浮かんだのは『双頭の蛇』。


 ジョーカーだった。


 絵柄の中で、二匹の蛇がそれぞれ逆方向に鎌首をもたげて、まるで雨歌と男、ふたりへ同時に襲いかかろうとしていた。


「──なんで……」


 まさかの一手に、雨歌の指が震えた。


目の奥がきゅっと縮む。脳の奥で、理解と拒絶がぶつかり合う音がした。

指先がわずかに震えたのを、自分で制御しきれなかった。


 その瞬間。

 魔力灯が一つ、ぱん、と弾けたように割れる音。


 空気が一気に変わった。


 親役の男と、色男。どちらも、さきほどまでの気の抜けた表情を一変させる。親役の手がゆっくりと、腰元へと滑っていった。何か、刃物のようなものが仕込まれている気配。


「引きがいいねぇ、嬢ちゃん。命か、金かを司る双頭の蛇」


 雨歌の足元から冷たいものが這い上がる。

 親の、なにか別の“支払い”を求める動きに、色男が先ほどまでの気の抜けた表情を一変させて雨歌をかばうように前に出た。


「運命の女神さまは帰っちまったみてぇだな。おめぇらの負け」


 親の口元が吊り上がった。じわりと卓をまたいで手を伸ばす。

雨歌の喉元に──その指が届きかけた、その時だった。


「__ずいぶんお楽しみじゃねぇか、淫蕩なつがいサマ」


 地を這う蛇よりも低い、殺意を孕んだ声が、場を切り裂いた。


その声に、雨歌の背筋がびくりと震えた。

低く、冷えた声。なのに、鼓膜が焼かれるようだった。

振り返る前から、誰か分かった。

あれは__。


横で、朱金の髪の男がぼそり、と呟いた。


「__シンフィルちゃん?」


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