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14・今晩、拗らせ魔術師の告白

無詠唱。視線ひとつで「焼けろ」と念じれば、枝が溶けて道が拓く。


彼を阻むものなど、焼き払えばいい。それだけのこと。

今までも、そうして生きてきた。それが──生きざまだった。


食いしばった歯の隙間から漏れるのは、怒り、劣情、焦燥、そして興奮。

感情という名の炎に突き動かされ、シンフィルは今や盲目の獣となり、自ら切り拓いた道を、ただ一人の名を胸に、狂ったように逆走する。

ただ一人の、あの少女に向かって。


初めて雨歌を見た時──正直、哀れに思った。

瘴気の影響で精神に異常をきたす者は珍しくない。

間に合わなかったのだと。そう思った瞬間、どこかで安堵していた。

厄介な荷物が勝手に壊れてくれた。あとは捨てればいい。


どれだけ蔑まれようが、踏みつけられようが、

己を研ぎ澄ませて力でねじ伏せ、王者として振る舞い、王者そのものになった。

ルーガン以外、誰にも寄り添う気はなかった。


つがいなど最初から信じていない。

突如現れた“つがい”とやらを迎えに行けと言われた時は、何の冗談かと思った。

神殿まで運び、さっさと引き渡して終わりにする。それだけ。


……ただ、愉しむだけなら、それも悪くはない。

早い話、神殿までの道中、愉しめそうなら、適当に弄ってやるつもりだった。

もちろん、最後まではしない。


(俺を支配できるのは、俺だけだ)


今までもそうだった。

愛情など必要ない。ただ、相手の欲を弄んで──快楽に溺れさせる手伝いをさせて、

自分は興味が尽きた時点で切る。

勝手に昂った欲の始末は、他人の『手』を借りて、『自分が許した時にだけ』触れさせる。

欲しがらせるまでは愉しい。言わせた瞬間──もう、どうでもいい。

欲にまみれた、汚い泥人形。

「お願い、欲しい」と言わせた瞬間、崩れていく。


快楽と廃退の、その成れの果て。


……のはずだった。


____その泥人形が、こちらを見向きもせずに、


『きみ、じゃま。あと五歩、右にずれて』


そう言った瞬間から。


泥人形は、別の何かに形を変えていたのだった。

どこまでも暗い深淵のような瞳で、狂ったように世界を観続ける、底知れない何かに。


***********************************************

シンフィルは背後から追いかけてきた白銀の相棒を振り返る。


七歳の時に「出来損ない」と罵られ、逃げるように森へ入った。

そこで出会ったのが、はぐれの翼狼――ルーガンだった。


飛ぶことを当たり前とされていながら、飛べない狼。

癒しの力が当然の血脈でありながら、癒せない自分。

__似ていると思ったその時から、同じ傷を抱えて、寄り添いあって生きてきたのだ。

そう、自分でさえ、彼の翼が片翼しか開かないと気づいたのは、出会った翌日のことだった。


「この子、歩くことを、選んだんだ。一緒に歩きたい相手がいるんだね」


何にも惑わされず、ただ真実だけを暴くその目は、残酷なはずなのに、どこまでも優しくて。

彼女の言葉は、確かに、深く深く、シンフィルの心を貫いた。


何も知らないまま連れてこられたくせに。

文句を言うわけでもなく、泣きもせず、あきらめているわけでもなく、凪いだ湖のような目をした少女。自分の絵が人に見られたがっていると分かると、唇をほころばせたのが奇跡のようで。

決して心を奪われたわけではないのに、目が離せなかった。


そう、あの目だ。

あの目が映し出す世界の一端は、線と光の暴力だった。

どこまでも追いかけてきて、舐めつくすような目。

性欲や支配欲よりも、もっと貪欲な渇望。

自分と同類なのかと思っていたが、違う。雨歌のあの狂気は、はるかに自分を越えていた。

どんなに命の危険がある場所だろうと、前線に躍り出てひたすら『観』続けるあの、目。

あの目に『描かれた』と気づいた時、何かが静かに、壊れた。

骨髄を這い上がってくるような、快楽にも似た違和感だった。


「きみがわたしにかけたふしぎな魔法とかを思い出して描いたの」


魔術師の魔法陣は、己自身を表す。

魔術師が生きてきた経験、信仰、恐れ、渇望、記憶すべてを抽出した“呪文詩”であり、精神の一部とも言えるもの。

それを解析したり、分解することは相手の心を__裸にすることと一緒だ。

雨歌にかけた”声失いの術式”は、雨歌の手によって魔法陣として描き起こされ、あっさり解析、分解されてしまった。

術式が破られないよう狡猾にはりめぐらしたはずの罠も、奥ににじませた(俺をもっと見ろ)という幼い願望も、すべて暴かれ、無遠慮に、しかも執拗になぞられていく。

恐ろしく無機質で、冷たい指先で神経の上をなぞられるような、痺れる愛撫だった。

肌が粟立ち、喉が乾く。

気づけば、下腹に熱が灯っていた。嫌になるほど、素直に。


ここまで自分の中に入ってこれたのなら、もう触れさせてやってもいいと思った。

お互いを暴き合う一夜にするのも、悪くない。

──誘ったら、意外にもすぐ応じてきた。

その瞬間、心のどこかで嗤う声が聞こえた気がした。やはりこの女もしょせん、泥人形と一緒だと。


それなのに、返ってきたものは快楽ではなかった。

ふざけた顔を作り、笑いを誘おうと必死に表情を変える女――。

計算づくでこちらを翻弄しようとしたのかと思えば、どうもそうではないらしい。

むしろ、恐ろしいほど無自覚に、予測できない方向へこちらを引きずっていく。


いちど決壊して笑ってしまえば、次の瞬間にはもう、いつもの無表情に戻って、まっすぐ俺を見ていた。


『だって、きみが言ったんだよ ”楽しい気持ちにさせろ”……って』


あの、平坦で熱のこもらない言い方を思い出し、シンフィルは唇を歪める。


「……ああ、楽しいよ、雨歌。今の俺は最高に、気持ちいい」


***********************************************


あの、”めがね”とかいう顔飾りを外した時は、心臓が少しだけ跳ねた。

顔立ちは意外にも、自分好みのつくりをしていて、そんなところから気を引こうとする神獣の采配の意図に、気色の悪さを感じて不快だった。だが、それ以上に──、美しいと思ってしまった自分が、もっと気味が悪かった。


分厚いガラスがはめ込まれた異世界の顔飾りを外してやった時、雨歌は、馬鹿みたいに喜んだ。


『きみが、せかいを変えたんだ……』


そう言われたとき、心に浮かんできた感情の名はもう思い出せない。


シンフィルは暗く笑う。

塗り替えられた世界の代償に気づいていない彼女を思って。

自分が何をされたのかも知らずに喜ぶ無垢な笑顔。

その代償に、こうして逃げ込んだ行き先が知られることになって、今追われているのだと知ったら、どんな絶望をその目に浮かべてくれるのだろう。


__雨歌の、匂いがする。もう近い。


彼女はあの沼で絵を描いているのだろう。

自分から逃げようとしたのかもしれないし、ただ自分のために絵を描きたかっただけなのかもしれない。

でももう、そんなことはどうでもいい。

雨歌が何を考えようが、何を望んでいようが、関係ない。

あれほど死の気配から遠ざけようとしても、愚かな彼女は何度でも近づいてしまう。

首輪が必要なのだ。繋ぎとめるための。


あの女はどこか、壊れている。

何度引き留めても、自分の命など何の価値もないかのように危険へ飛び込む女に、激しい怒りを覚えた。自分で命の価値を決められないのなら。

その命、要らないというのなら、何度でも引きずり出して、跪かせて命に意味を与えてやる。


(あれは、俺のものだ)


欠陥品、と彼女に投げかけた時、彼女は淡々としていた。

理由は分かる。きっと彼女はそれと似たようなことをこれまでさんざん言われてきたのだ。二番煎じの言葉に傷つく必要もない。

元居た世界で、静かに暴言を浴びてなおも、じっとそこにいる彼女を想像すると、言いようのない苦しさが込み上げる。

彼女を傷つけるのは、俺でなければならない。

他の誰にも、その役目は渡せない。

シンフィルは自身の歪んだ独占欲を自覚して自嘲した。


あの時、ルーガンは確かに自分をとがめた気がする。


(欠陥品が似合わないと思うのなら、なぜ、お前は翼の開かない翼狼と一緒にいるのか?)と。


でも分厚い鎧で覆われたようなあの女の心に言葉を届かせるには、思い切り尖らせた言葉しか届かないような気がしたのだ。

だから、“死ね”とも、吐いた。瞬間、彼女の瞳に、ただ一瞬の寂しさが差した。

動揺させることに成功したはずなのに、ひどく後悔が込み上げたのも事実。

自分は言いたかったはずなのだ。

空虚で純粋で、愚かで、渇望でさえ吸い込んで、無かったことにしてしまうような残酷な目の彼女に、

それでも。


「生きろ」と。


唯一、伝えたかったはずの言葉は、ただ胸の奥で燻り続け──

あの時も、今も、結局、届かないのか。


あの時も、今と同じように走ったのを思い出す。

彼女から少し離れた先で、結界の効力が切れ、瘴獣の気配が濃厚になった瞬間。

心も、体も、考えるより早く駆け出していた。

__救うために。

あれは、彼女のためだったのか。

それとも、

自分自身のためだったのか。


***********************************************

「……雨歌」


昨日まで降り続けていた雨のせいで、蹴り上げるたびにぬかるんだ泥が跳ねる。

シンフィルは、走りながらあの女の名前を口にしていた。

雨歌は、自分の名前を差し出した。雨の歌だと。

笑ってしまった。あまりにもそのままで。

静かなのにうるさい。

窓を閉め切って耳をふさいでいるような夜でも、否応なくこちらの心に響く雨音、そのもの。

雨だれのように静かな声で、純粋に名を聞かれた時、あまりにも無防備で、その場で押し倒してしまいそうになった。

オルドレアでは親は子供に二つの名を与えることができる。

”音”そのままの意味と、そこに込められた祝福の名を。

シンフィル。

災いを越えて生きろ──それは建前だった。

父が本当に込めた願いは、"罪を償え"。魂にかけられた呪い。

誰に? 何のために? 分からないまま、呪いのように呼ばれ続けてきた。


そのとき、確かに感じた。

魔力もないはずのあの女が、異国の筆跡で書いた文字に、

俺の名にかけられた呪いの言葉が──静かに、書き換えられたことを。


……堕ちた、と思った。


彼女は自分を、渡り鳥だと言っていた。

名もないまま、異界を越えて、ふらりと舞い降りた鳥。

神の采配なんかじゃない。

つがいなんて、どうでもいい。

口では落ちたら拾ってやるよ、なんて言っておきながら、本当は願っている。


落ちればいい。

俺と同じ場所に。

__俺が、堕ちたように。


ザナルの墜森を出るまでの七日間。

それは、歪んだ恋に堕ちるまでの七日間でもあった。


***********************************************


辿り着いた先の死の沼の淵で、片腕を沼に浸らせながら目を閉じた雨歌を見た時。

一瞬心臓が凍り付く。

だがその胸が上下しているのを見て取って、シンフィルは静かに、舌で唇を舐める。

極上の獲物を見つけた、獣のように。

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