序・願いの石が割れるとき
雨音が責めるみたいに窓を打つ。
夕方5時、いつもなら夕陽に西日が差し込む机の上には、今は暗い陰影に縁取られた握りこぶし大の石がグレーの皿に乗せられ、ぬらぬらと妖しく光っていた。
「今日も……へんか、なし」
分厚い眼鏡に、後ろでひっつめた腰まである三つ編み。
天野雨歌、20才。
彼女は一人、呟いてスケッチブックを広げ、いつものようにペンを走らせる。横にはうず高く積もりに積もった15年分のスケッチブック。中身はすべて石の絵だと知るのは雨歌本人と母親しかいない。
(「気持ち悪い。そんな絵、見たくないわ」)
いつか投げかけられた母親の言葉がまだ、この部屋に染みついて離れない。
白い紙の上に雨歌だけの世界が広がっていくのが、唯一の救いに感じながらペンをひたすら走らせる。
少女と呼ぶには大人びすぎて、女性と呼ぶにはどこか脆い。
そんな大きな瞳が、石を見ては紙に戻り、また石を見つめる。
雨の日は、いつもこの石をくれた時のことを思い出す。
傘のような羽。雨に濡れない銀色の髪。水たまりのような瞳が自分をうつして、揺らいでいた。
雨歌はあれから毎日、水をやり続けてきた。15年間、一日たりとも、欠かすことなく。
願いは、絵がうまくなりますように。
確かにこの15年で上手くなったかもしれない。でも。何も変わらない。石も、世界も。
__あれは、夢だったの?じゃあ、この石はなに?
ふいに、窓の向こう側から雨音に交じって、学校帰りの生徒たちの笑い声が聞こえ、雨歌はビクリと身を震わせた。
(……今日も行けなかった。美術専門学校)
あの教室の白い空間は、いまの自分には痛すぎた。
イスの上に三角座りをしなおして、ため息をつき、眼鏡をかけなおす。ぶ厚いレンズの奥に、濁った世界がちょうどよく歪んで見えた。
眼鏡は外界と雨歌を守る、”壁”だった。
少しだけ度のあっていない眼鏡をかけると、視界がぼやけて少しだけ雨歌と世界が断絶されるのが心地よい。人物デッサンの授業で吐いた時の周りの視線も、飲み会で話についていけず世界で独りぼっちの気分の時も、こうやって世界と自分を隔ててきた。
気がつくと、あたりは宵闇に包まれていた。
何時間たったのかも分からない。いつもそうだ、時間を忘れてしまう。そして世界から置いてけぼりになる。
雨歌は完成した絵をひとまず机の上に置き、部屋の電気をつけようと席を立った。
部屋のドアが開いていて、床にいつの間にかラップがかけられた夕食が置いてある。いつものように。
スイッチに手をかけ、ふと目をこらす。
机の上。
皿の上に乗る石。「願いの石」。
あの日少女に譲り受けた日から、その色は変わっていない、はずだった。
眼鏡をグイっとかけなおし、じっと目をこらす。
光っていた。
最初はぼんやりと、だけどその光がだんだん強くなっていくのを、雨歌は真っ白になった頭だけで感じていた。体がしびれて、動かない。
光はいよいよ部屋全体を照らし出すほど大きくなっていた。やっと雨歌が悲鳴をあげようと口を開けたとき。
石が割れ、まばゆい閃光があふれ出し、その光が雨歌を飲み込むように覆いつくした。
めまい。吐き気。ぐるぐると回っているのは体か、頭か、それとも全部か。
「____座標がずれる!!」「時空が歪んで……誰の干渉だ!?」
誰かの焦った声や唸り声が交差する。
「____ねがいが、かなったね」
耳元で確かにきこえた声は、幼い時に出会ったあの少女の声だった。
薄れゆく意識の中、雨歌はぼんやり考えた。
自分の願いは果たして何だったのだろう、と。
(絵がうまくなりたい、はずだった。
でも――違う。たぶん、ほんとうは……)
____ここじゃないどこかへ。