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10.あと、四夜〜思いに名前をつけるなら〜②

__熱が、ない。


そのことに気づいたのは、背中を撫でていたはずの焚火のぬくもりが、まるで最初から存在していなかったかのようにするりと抜け落ちていたからだった。


意味のない落書きが書き殴られたスケッチブックを抱え込んだまま、いつの間にか眠っていたらしい。夜露のせいで頬や手がしっとりと濡れている。わずかにピリつくのは瘴気を含んでいるせいかもしれない。


雨歌はゆっくりと瞼を開けた。


視界は、ただの“闇”ではなかった。


黒ではない。


色が、存在していない。

闇の中にさえ、普段なら“濃淡”があるはずなのに、そこには、筆が乗らない紙のような無色が広がっていた。


(……火、消えてる……)


暖かくあたりを照らし出していた炎は、その明かりを作り出した『彼』もろとも、消え去っていた。


体を起こしかけたとき、皮膚がぴたりと空気に張り付く感覚に、背筋が震えた。


風が、ない。


虫も、いない。


音すら、ない。


静か、なのではない。


静かすぎる。


音が吸い込まれているような、空気が硬質に、しん、と張り詰めているような、そんな圧力のようなものに包まれていた。


(……なんだろう……これ……)


不意に鼻先をかすめた、肉が腐ったかのような匂い。

すぐそばで誰かが吐息を漏らしたような、湿った空気のうねり。


目には見えない。


でも、いる。


“なにか”が、そこに。


それは、風ではなかった。


息づいている。這うように、嗅ぎまわるように。


視界の端で、“輪郭”のようなものが、一瞬だけ闇の中に浮かんだ気がした。


(……観えた……)


描けない。

でも、存在する。

“ここに、在る”。


身を起こし、じっと正面を見つめた。その瞬間。


宵闇の隙間から覗いた月が、その正体を暴きだした。


体長3メートルほどの、黒い肢体。

血痕のこびりついた黒い前足が落ち葉のつもる地面を掻いている。まるで今から起こす狩りの準備運動のように。


太い首は途中から二股に分かれていた。


片方は鼻の上や額に皴を寄せ苦悶の表情に歪み、もう片方は雨歌をその目に捕らえ、らんらんと双眸を光らせている。


双頭の獣__否。


獣と呼ぶにはあまりにも禍々しく、醜く、そして哀しい生き物。瘴獣。


目を離さずにはいられないその姿に、雨歌は魅入られたように動けない。

瘴獣の吐いた腐臭が前髪をわずかに揺らしてもなお、雨歌はじっとそれを見つめていた。

獣の片方の頭がゆっくりと持ち上がり、雨歌の顔の前までやってくる。もう片方の頭はすでに大きく口を開け、口からよだれをだらだらと垂らし続けていた。


(ああ…………終わりの、匂い)


助けて、とも、死にたくない、とも叫ばず。

それでも目を開けたまま、雨歌は受け入れようとしていた。


__刹那。


脳裏にあの赤い瞳がよぎった。


まだ出会って四日しかたっていない。なのに鮮烈に雨歌の脳に刻まれている、あの蘇芳色の目。


雨歌が『こう』ならないように、いつも彼は守っていてくれたのだとやっと雨歌は気づいた。


人の気持ちが分かりにくい時がある。


口を開けば自分と早く縁を切りたいようなことばかり言うから、自分など早くいなくなってほしいのだろうと、ずっとそう思っていた。


だけど、言葉とは裏腹に彼の行動は、いつも、いつも。


(__きみのなまえ、聞いておけばよかったな)


自分はまだ、何も知らない。


この世界に呼ばれた意味も。


彼があの時泣きそうにしていた理由も。


雨歌に死ねよ、と言ったときに震えていた拳の意味も。


燃え盛る黒い炎のような目を真っすぐにぶつけてくる彼の名前も。


たった一つだけ理解したことがある。


(死にたくない、とは思わない……だけど生きたい理由なら)


ただ、知りたい。彼の名前を。


彼の目に宿る炎を。


__まだ、観ていたいものがたくさんあったのに。


雨歌はこの気持ちを後悔と呼ぶのだと知り、そっと目を閉じた__。




『終わり』はやってこなかった。


襲ってくるであろう痛みも、自分が瘴獣に飲みこまれ咀嚼される感覚もない。



一閃だった。


ヒュッという音と鋭利な風圧が頬をかすめる。


雨歌を食らおうとしていた頭は、”彼”の放った剣戟の一閃とともに宙を舞っていた。


魔法の名残か、背後では白い光が渦巻きのように吹き荒れ、あたりを明るく照らし出している。


剣を一振して腰の柄に収める男の横で、ルーガンが眩しそうに目を細めていた。


「……無様すぎるだろ、アンタ」


今まで雨歌が見た中でも史上最強に不機嫌に沈む、低い声。


(帰ってきてくれた……)


余裕めいて笑みを含んだ言葉尻も、あざけるように雨歌を見下ろす目も、先ほどこの場を去っていった時と何も変わらない。


ただ、その肩は激しく上下している。かすかに漏れる息も荒い。


(走ってきたの……?)


雨歌の疑問を打ち消すように男は荒々しく雨歌の手をつかんで無理やり立ち上がらせた。


「で?お望みどおり、“死”を“観れたか?それでバカみてぇに目見開いて、『わたしをどうぞお召し上がり下さい』ってか?なにそれ、あんたの趣味?」


口早に罵りながら、彼の視線が雨歌のつま先から頭までせわしなく動きまわる。その目はやがて何かを納得したように鎮まり、男はゆっくり嘆息した。


「怪我もしてねぇな……なぁ。俺が来なかったら、どうなってたと思う?」


男は彼女の頬に指を這わせながら、あえて目線をそらさせず、そのまま囁くように言った。


「その体、ズタズタに裂かれて──喰われてた」


唇を寄せる。囁きは、さらに低く、甘くなる。


「あんたの観察力じゃ、命は守れないってこと……まだ、わかんねぇ?」


「……それは、よく分かった。きみがあと少しでも来てくれるのが遅かったら、きっと……」


雨歌の視線が微かに揺れたのを見て、彼は口元を歪めた。


そして、まるで命綱を握る悪魔のように微笑む。


「__じゃあなんで俺を呼ばねぇんだよ、変態女」


「……だって、きみの名前、知らないから」


「…………」


「ねえ、さっき、『死を観れたか』きいたよね。わたし、死にたくないって思わなかったよ」


彼は一瞬目を見開き、口をつぐんだが、すぐに瞳にいつもの剣呑な光を宿し、睨みつけてくる。


雨歌は男に襟元を荒々しく掴まれ、ぐいと引き寄せられた。熱い息が顔にかかる。


「てめぇまだ……」


「でも」


臆することなく淡々と、雨歌は男の目を覗き込んだ。まるで、そこに知りたい事の答えが書いてあるのを探すように。


「食べられる瞬間、きみの名前、聞いておけばよかったって思った。だから生きたいって思った」


「…………」


「私のなまえ、雨歌っていうの。

______きみのなまえは?」


雨歌の囁きは、呪文のように夜に溶けていく。


男の手が開き、雨歌を放した。


支えを失いぐらつく雨歌の目端に、なぜか夜空を仰いでいる彼が目に入る。


その目は固く閉ざされている。


しばし、沈黙。 


(なまえ、聞いたらだめだったの?)


雨歌がじわりと不安になった瞬間。

男の目が開き、こちらを見た。

瞳の色が、光の角度で変わった。


深い蘇芳の赤が、まるでゆっくりと煮詰まる蜜のように濃くなっていく。男の目が細められる。


「_______シンフィル」


低く、掠れた声は雨歌の耳に柔らかく染み込んでいった。


「シン……フィル」


雨歌の何気ない繰り返しに、何も言わないまま、彼____シンフィルは雨歌を見た。

動かず、声もなく。

ただ、じっと、見た。彼の口元がわずかに持ち上がるのを、雨歌は不思議な気持ちで見つめる。


呼吸の音が消えた気がした。


風も止んだようだった。


彼の瞳が、どこか深いところで鈍く光っている。


(……どうしたんだろう……)


雨歌には、その変化の意味がわからなかった。

考えこむ前に、彼は表情を消して、いつもの皮肉な笑みに表情を変えてしまったから。


「シンフィル様だろ。ほら、言えよ。助けてくれてありがとうございます、シンフィル様って」


「……呼びにくいからシン君、っていうね」


「あんた、本当に話きかねぇよな。耳だけじゃなくて脳みそにも絵の具詰まってんじゃねぇの……」


軽口を叩く主と雨歌の間にルーガンが割り込み、仲裁のように2人を引き離す。


その片翼がそっと開き、雨歌を優しく包みこんだ。


雨歌はルーガンの翼をそっと無であげて微笑む。


生きていて、良かった。そう言われているかのような暖かさに包まれて。


(わたしの観たいものは、まだたくさん……)


シンフィルが再び灯した焚き火の炎が、2人と一匹を温かく照らし出していた。




あと、三夜。

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